最近筆者の海水用水槽に新しい仲間が増えた、以前から住むのマンジュウイシモチは飼いやすくとても元気で、今回お掃除くんとしてエビちゃんのキャメルシュリンプを2匹購入、シュリンプの背骨あたりにコブがありキャメルに似ていることから、見た目も可愛く、丈夫で、育てやすく、コケ掃除もしてくれて、カーリー対策にもなる優れたエビちゃんです。注意深く静かに見守ると岩陰から顔を出すようです、これが意外と癒やされます。武漢ウイルス感染症緊急事態宣言も半ばすぎたが効果は如何に・・・?水槽を眺めながら家にて過ごします。
「般若波羅蜜多心経」(はんにゃはらみったしんぎょう)、प्रज्ञापारमिताहृदय、Prajñā-pāramitā-hṛdaya、(プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)大乗仏教の中で生まれた『般若心経』とは、「般若経」と呼ばれる一連の経典をわずか262文字に絞った簡易版(ダイジェスト本)4、5世紀ごろに成立したと言われている。般若波羅蜜多心経の意味は以下のように解説される方もいる、比較的に解りやすいかも知れない。
ご存知の如くこの「般若経」の経文は孫悟空(そんごくう)・猪八戒(ちょはっかい)・沙悟浄(さごじょう)の3人が三蔵法師(さんぞうほうし)のお伴をして天竺(てんじく)(今のインド)へ仏さまの教(おしえ)を書いたお経を取りに行く『西遊記(さいゆうき)』という中国の物語で最後に頂く大切な経典であり、特にこの「般若波羅蜜多心経」が有名である。
一番興味深く感じることは玄奘(げんじょう)の一番の得意はこの膨大な経文の特に般若心経262文字が音写だと言われている。
余談ではあるが、五味康祐氏の著書の中に“西方(サイホウ)に音”があるが決してセイホウでもニシカタの読みでは無いと思うが、これは筆者が思うことなのか?何故なら西遊記(サイユウキ)と称している。
観自在菩薩から始まり羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経で終わる最後の音写の部分は素晴らしいと言われる。一度この有難いお経に浸って見ては如何であろうか。羯諦羯諦此の様な文字は弓に食いが・・・・・
筆者が感じる教育についてであるが、ヒンズー語はインド人の人口を考えれば地球では大変多く使われる文字である、其れ以上多い語源は漢字である、思えばこの漢字は今や日本国以外の国は大切な文字を拒絶している様に思う、支那(中共)省略化した文字に変え、韓国はハングル文字に変え漢字社会はやめた、大切な漢字は日本国で繋げている状態です。漢字を理解しないと英語以外の文字は漢字を使った書籍(本)が多くあり、あらゆる文献の本が残される文字は英語の次は漢字、続いてヒンズー語なのである。地球上で二番目に多い書籍が残る文化圏である、幸い日本語は漢字文化が残る伝統の国なのである。
此れは教育と密接な関係があると思われる、此の様な支那の重大な歴史書も将来は日本人にしか読めない、理解出来ない重大な歴史となるように感じ日本人の誇りを持とうではありあせんか、近い将来西遊記、三国志等の歴史書は日本国にしか理解出来なくなれば、全くのお笑いである。
その物語「西遊記」のモデルとなった三蔵法師が、この「般若心経(はんにゃしんぎょう)」というお経を中国に伝えた、玄奘(げんじょう)(600または602-664年)というお坊さんです。この下りは浄土真宗の経文「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」にも掲載される。
玄奘が活躍した時代は、今から1300年以上も前の支那の唐(とう)時代でしたから、インドへ行こうにも飛行機や車などがあるはずがありません。そこで馬に乗ったり、歩いたりしてインドへ行ったわけですが、途中にはゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などという難所もあり、恐らくは死を覚悟しての恐怖の連続を描いた尊い旅だったと思います。
支那の貞観(じょうがん)3年(629)に都である長安(ちょうあん)を発ち、3年余の旅路を経てインドに到達し、その後は一所けんめいに仏の教を学び、16年後の貞観19年(645)に多くのお経や仏像などを持って中国に帰りました。中国に帰ってからの20年余の間に76部1347巻というものすごい数のお経をインドの言葉から中国の言葉に、つまり漢字に翻訳したのです。その中の一つがこの『般若心経』の大変有り難い262文字なのです。
上記の写真のこの山門は以前訪れた二戸の浄法寺(ジョウボウジ)の山門である、以前二戸を訪れた時の写真です、住職の瀬戸内寂聴も最近般若波羅蜜多心経を解説して表紙は横尾忠則が絵書いているようだ。幾つになっても商売は上手い方と関心する・・・・。約10年前の訪問時の懐かしい写真だ。
『般若心経』が「般若波羅蜜多」の修行で得られる智慧として説いているのは、大乗仏教の「空」の智慧です。つまり、「般若波羅蜜多」の智慧は「空」を理解する智慧であり、瞑想修行の中ですべてを「空」であると洞察するのです。
『般若心経』が次々と数え上げながら、「空」である、「無い」と否定しているのは、「五蘊」「十二処」「十二縁起」「四諦」など、お釈迦様が説かれたとされる仏教の中心的な教説、教説で使われる基本的な概念で、「法(ダルマ)」と呼ばれるものです。
最初に般若と言う文字に惑わされるが、「般若(はんにゃ)」とは「仏の智慧(ちえ)」を表す言葉です。しかし般若と聞くと、恐ろしい形相の鬼の面を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。「般若の意は知である」。
「般若」は、自分の智慧(ちえ)=知恵のことです。「波羅」は、彼岸(悟りの境地、この世の苦しみから抜けた世界)。「蜜多」は、至る。「心経」は、大切な教え、を表します。このように分解すれば解読しやすいのかも知れない。
『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でているとも解釈できる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。
仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。
般若心経は「生きる勇気を与える呪文」だと語る。人間は言葉によって世界を認識している。しかし言葉には、実は限界がある。そこで人間の生命力に、直接働きかける「呪文」として生み出されたのが、般若心経だと言うのだ。仏典を求めてインドに赴いた唐の玄奘三蔵は、厖大な経典を翻訳した。
そのひとつが、日本に伝わった「般若心経」である。翻訳にあたって玄奘三蔵が工夫したのが「般若心経」を読経したときの「音の響き」であった。なぜ「音」が重要だったのだろうか?「般若心経」の基本をおさえると共に、「音」にこめた玄奘三蔵の狙いを明らかにする。
またこの「般若波羅蜜多心経」幾度も唱える事によるなんとなく意味が解明出来るかも知らないと思い、何度も唱える大変ありがたい経文なんです。
ここでバッハの世界に移り平均律の意味を調べますと、平均律とはある音からその1オクターヴ高い音までを、均等に12の音で分割する方法。現代のピアノは通常平均律で調律されている。ピアノの鍵盤を思い描いていただければわかりやすいと思うが、ドから1オクターブ高いドまでの間には、白鍵と黒鍵合わせて12個の音がある。
本当はオクターブ内の音を12で割り切ることは数学的にムリなのだが、少しずつ妥協して均等化をはかることで、どの調を弾いても違和感を与えない。
しかし、厳密に言うと平均律では本来の音と音のハーモニーの純正な美しさは損なわれている。極めて美しく響かせる純正律や中全音律などの音律があるが、それらは鍵盤楽器のようにあらかじめ弦の音の高さが固定された楽器では、調性が変わると美しく響かなくなってしまうのだ。
やはり基本はランドフスカ / バッハ:平均律が基本に思える、音質も良くなく、しかもモノーラルでの演奏だがそこには今もこの曲の「うまく”調律された」鍵盤楽器を想定していたと思われるのは筆者だけなのであろうか?
今回は最近交換した10吋タンノイⅢLZモニター・ゴールドに交換したユニットでランドフスカ / バッハは実に澄んだ音色を聴かせるのは何故か?
「平均律」とは、調律方法の一つである。曲の中で、つぎつぎと調性を変化させても、違和感なく美しく響いてくれる便利な調律の仕方だ。バッハは1オクターブの12音を主音とする長調・短調、つまり24の調性を網羅した曲集を書こうと思った。全調がほどよくきれいに響く調律方法があるなら、ひとつのまとまった曲集を作ることが可能なのだ。
ただし、バッハがこの曲集につけたドイツ語のタイトルを注意深く見てみると、Das Wohltemperirte Clavier、つまり「うまく調律されたクラヴィーア」としか言っていない。「平均律」なんて書いていない。当時はまだ「平均律」が現在ほど一般的ではなかったようなのだが、少なくともバッハは「全調に対応できるように“うまく”調律された」鍵盤楽器を想定していたと思われる。この曲集が日本にもたらされた時、だれかが「だったら当然“平均律”でしょ」ということで、このように翻訳してしまったのだろう。
それが定着したことになる。というわけで、この曲集はそもそも、鍵盤楽器を学ぶ人の教育的な曲集として(だから日本でも、ピアノのを習っている人たちは「教材」として比較的早く出会うことになり、「平均律」という言葉を、この曲集を指して使うことが多い)、1722年に第1巻が、1742年頃に第2巻が完成された。1巻も2巻もそれぞれ、24の調性を網羅しており、一つの調性につき「前奏曲」と「フーガ」がセットになっている。
だから、CDなどではそれぞれトラック分けされていると、1巻だけで、(前奏曲+フーガ)×24の調性で48トラック。それが2巻あるので、96トラックという、結構な聴き応えのあるアルバムになる。
バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻・第2巻の4枚のCDである。
ワンダ・ランドフスカ(チェンバロ)
バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻BWV.846-869
バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻 BWV 870-893
マーク・オバート=ソーン復刻。散発的にRCA Victorへ録音を行い全曲盤になったものですが、この復刻では状態のいいSP盤をソースに使ってピッチ修正などを行い、録音日のばらつきを感じさせないような仕上がりにしているのがポイント。ランドフスカ晩年の演奏が蘇る4枚組です。
● バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 BWV 846-869
・前奏曲と4声のフーガ ハ長調 BWV 846
・前奏曲と3声のフーガ ハ短調 BWV 847
・前奏曲と3声のフーガ 嬰ハ長調 BWV 848
・前奏曲と5声のフーガ 嬰ハ短調 BWV 849
・前奏曲と4声のフーガ ニ長調 BWV 850
・前奏曲と3声のフーガ ニ短調 BWV 851
・前奏曲と3声のフーガ 変ホ長調 BWV 852
・前奏曲変ホ短調と3声のフーガ 嬰ニ短調 BWV 853
・前奏曲と3声のフーガ ホ長調 BWV 854
・前奏曲と2声のフーガ ホ短調 BWV 855
・前奏曲と3声のフーガ ヘ長調 BWV 856
・前奏曲と4声のフーガ ヘ短調 BWV 857
・前奏曲と3声のフーガ 嬰ヘ長調 BWV 858
・前奏曲と4声のフーガ 嬰ヘ短調 BWV 859
・前奏曲と3声のフーガ ト長調 BWV 860
・前奏曲と4声のフーガ ト短調 BWV 861
・前奏曲と4声のフーガ 変イ長調 BWV 862
・前奏曲と4声のフーガ 嬰ト短調 BWV 863
・前奏曲と3声のフーガ イ長調 BWV 864
・前奏曲と4声のフーガ イ短調 BWV 865
・前奏曲と3声のフーガ 変ロ長調 BWV 866
・前奏曲と5声のフーガ 変ロ短調 BWV 867
・前奏曲と4声のフーガ ロ長調 BWV 868
・前奏曲と4声のフーガ ロ短調 BWV 869
ワンダ・ランドフスカ(チェンバロ)
1949/03 & 1951/02 Mono
● バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻 BWV 870-893
・前奏曲と3声のフーガ ハ長調 BWV 870
・前奏曲と4声のフーガ ハ短調 BWV 871
・前奏曲と3声のフーガ 嬰ハ長調 BWV 872
・前奏曲と3声のフーガ 嬰ハ短調 BWV 873
・前奏曲と4声のフーガ ニ長調 BWV 874
・前奏曲と3声のフーガ ニ短調 BWV 875
・前奏曲と4声のフーガ 変ホ長調 BWV 876
・前奏曲と4声のフーガ 嬰ニ短調 BWV 877
・前奏曲と4声のフーガ ホ長調 BWV 878
・前奏曲と3声のフーガ ホ短調 BWV 879
・前奏曲と3声のフーガ ヘ長調 BWV 880
・前奏曲と3声のフーガ ヘ短調 BWV 881
・前奏曲と3声のフーガ 嬰ヘ長調 BWV 882
・前奏曲と3声のフーガ 嬰ヘ短調 BWV 883
・前奏曲と3声のフーガ ト長調 BWV 884
・前奏曲と4声のフーガ ト短調 BWV 885
・前奏曲と4声のフーガ 変イ長調 BWV 886
・前奏曲と3声のフーガ 嬰ト短調 BWV 887
・前奏曲と3声のフーガ イ長調 BWV 888
・前奏曲と3声のフーガ イ短調 BWV 889
・前奏曲と3声のフーガ 変ロ長調 BWV 890
・前奏曲と4声のフーガ 変ロ短調 BWV 891
・前奏曲と4声のフーガ ロ長調 BWV 892
・前奏曲と3声のフーガ ロ短調 BWV 893
ワンダ・ランドフスカ(チェンバロ)
1951/06-1954/03 Mono
今まで幾度もこの平均律を聴いてきたが、ランドフスカの演奏の音が若干重く感じてた為疑問に思って聴いていたが、改めて10吋TANNOYⅢLZモニターゴールドのユニットで聴くと、今までと比べ実に凛とした、涼やかな音色が聴こえた、今までとは若干違ったイメージに聴こえる何故なんだろう。従来の音質はランドフスカの演奏は重厚な感じがしたのだが・・・?
因みに不思議に思いゴルドベルグも聴いたが勿論あの重厚感もあり又涼やかさが加味して、実に良い演奏が聴けたのだ、ユニットによる違いか・・?
心配になり3/5aに繋げ聴くが鳴り方以前と同じように重く聴こえた。TANNOYⅢLZモニターゴールドのユニットで聴く鍵盤の一音が味がある煌めく高音に魅せられるたのだ。
筆者にしては現在ⅢLZモニターゴールドの鳴り方独特の癖のある、涼やかさの気品のあるそれで重厚さがある今のユニットで聴こえる音は素晴らしく感じる。高音の美しさは3/5aでは味わえない音なのであろう。しかし思わず体を乗り出し聴き惚れる感じは拭えなく、この癖のある音の魅力に吸い寄せられた。
オーディオに於いてはデーター数値程あてにならない物は無いと思った。
以前愛用していたお気に入りのKEFの小さなサブスピーカーからデットストック品の新品を見つけ手に入れた。KEF Q300より小型のho's system「LS3/5a」に変更したが、但しアンプを選ぶ傾向はあるが其れはどのスピーカーにも言える事だが・・・真空管アンプのドライブが安心出来る。
再度この3/5aに付いて思うのは、フラットアンプで聴くと、帯域が狭いと感じるかもしれない、トーンコントロールでの調節は必死だが。逆に、耳につく音もなく、非常に聴き易いと感じる人もおられると思う。低音と高音の再現力は、最近の高音質の音の良いスピーカに比べると、若干劣る印象は有るものの、この3/5aの箱のサイズで(幅190mm x高さ310mm x 奥行160mm)のスピーカーから出てる音とは、信じられない程、生々しい音像や音場が再現されます。音源は、何を聴いても良く、悪く聴こえる音源は無いと思う。確かに何れのミニスピーカーと比べても決して劣らない事が解る。
ポップス・ボーカル物、クラシック、ジャズ、BGM、映画音楽、不得意なものは無いんです。但し、歪んだ音がいいとか、大音量がいいとか、ボーカルが前に飛び出る感じが欲しいなど、マニアックな聴き方は除きますが(笑)。
このように1975年頃の設計品なので、最新の高音質スピーカに比べると劣るのも確かな事ですが、以上の条件を考えれば、未だこの3/5aのミニBOXを超えるスピーカーは見当たらないように思う。筆者は現在この3/5aのドライブは古いLUXKIT/A3500の真空管は全て交換し6CA7(EL34)は松下製で聴いているがこれが意外と相性が良いと思ってます。詳しくは以前のブログに掲載。
般若経とも通ずる何度も唱える音写の如く(聴く)事により先の見えて来るまさに「平均律」とはそのような教曲書(教科書)かも知れない。
現在武官ウイルス蔓延して世界はすこぶる荒れた状態になったときこそ「空」の心境になることも必要に思う。ブラボー!
まさに羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経・・・。