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5,500年前の三内丸山遺跡のロマンを訪ねる、縄文時代の前期中頃と言われる広大な遺跡の考察。

2023年06月28日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

我々の祖先でもあろう日本人のルーツ、氷河期が終わるとともに、石器を主な道具としていた旧石器時代が始まり、その後終わりを告げ、縄文時代以前の「岩宿時代」の存在を裏付けた事から始まりました。今後旧石器時以前の時代の物が発見されるかもしれませんが・・・・?

戦後間も無く1946年に民間考古学者「相沢忠洋」により両毛線岩宿駅近くから局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭の石器が採取された岩宿遺跡から始まったと言われる考古学であり、その後日本全土で発見された遺跡は一万ヶ所以上あると言われているが、今回東北での広大な三内丸山遺跡を訪ねた。

約1万5,000年前に縄文時代が始まりました。縄文時代の開始とともに、磨製石器に変化したり、新たに土器が出現しました。縄文時代の人々は、土をこねて思いどおりに形を作り、火熱による化学変化を起こすことで、より強度な容器を手に入れました。それにより、「煮る」などの調理や「貯蔵」も容易となりました。
今回この三内丸山遺跡だけでも1500年以上の平和な暮らしが続いた遺跡の見学は想像を育む世界でもあろう。




三内丸山遺跡に関する最も古い記録は江戸時代に遡ります。県は野球場をはじめとする新たな施設整備が計画されました。工事着手前に発掘調査を実施することになり、平成4年から開始した調査では、大量の遺物が出土しました事で見つかった三内丸山遺跡である。

上記は三内丸山遺跡の全体マップである、全体で約42ヘクタールありこれは東京ドーム約9個分の広さです。
と同時に遠くから安全に獲物をしとめることができる弓矢が使われ、魚介を獲るための釣り針、銛などの漁労具の開発も進みました。さらに、イヌが飼われ、植物の栽培も行われるようになりました。縄文時代は、食料を主に採集・漁労・狩猟によって得ていました。
特にこの時代は温暖で、この地域には豊富な食料にも恵まれ永く定住したのであろう事が想像できる、簡易な木の実の栽培もおこわれていたのであろう。


流行り病の為、自由な移動が出来ない時代が3年間も続き、前回の温泉巡りの旅の2回目である、今回は筆者も大変興味深い、縄文の世界を覗く旅になった。幼少期社会の時間で教えられた縄文時代の生活とは全く違い、この様や遺跡は日本尾あらゆる場所での発掘が行われtりる様である、今回訪れる三内丸山遺跡に至っては平成4年(1992年)から始まった発掘調査で明らかになった様である、今や世界文化遺産に登録されている。

新幹線乗車までは通勤ラッシュもあり混雑したが、上野から新幹線に乗車し盛岡から北東北までの旅である。



取り敢えず皆との待ち合わせ場所の盛岡まで東北新幹線での旅、所要時間は約2時間30分程で到着、ゆっくり前日に購入した「anajog」の冊子を見なが駅構内での淹れたての珈琲を飲みながらは意外と速い時間で到着する。
本の記事内容はLINNのレコードプレイヤーの記事を読みながら、発売当時から
定評のある音響機器レコードプレイヤーは定評がある、最新の機器はは大変高額になっていた、これは雑誌でしか楽しめない商品である。

最後の記事には「オーディオマニアは皆んな病気なんです」のコメントに妙に納得を覚えるのでした。



正午盛岡到着である、友人達が盛岡駅北口に迎えに来ている、久しぶりの再会である、丁度お昼の時間でもある。
ゆったり出来る隣のホテルメトロポリタン盛岡のホテルのレストランでランチタイムを頂きながら、今回の2泊3日の予定を告げられる。年齢は皆近く70歳代の高齢者で久々にお会いする元気な顔に安心を覚える。



ランチを済ませ車に乗り込み青森の目的地三内丸山遺跡に向かい出発する。
盛岡市街地より高速道路は若干混雑していたが、高速は順調である、関東の道路事情とは全く違い実にスムースに走る、しかし冬場は積雪のために舗装状況は関東とは違う感じがする。
しかし皆さんそれぞれの投薬は持参している状態である。

青森から八戸の旅である、途中浅虫温泉等遊び心の多い旅である、また漁港としても有名な八戸は街は意外と盛況であると言う、毎週日曜に行われる朝市は一度は見学の価値は高そうである。と教えられた勿論最終日は朝市見学予定である。



約2時間弱で青森の目的地に到着する、到着したの午後のため入り口近くの駐車場も空きは多くすんなり早速駐車場に車を止め、入り口での記念写真である。

天候は曇り空ですが、雨は免れる模様であり三内丸山遺跡見学はゆっくりみられる様である。



早速入場し入り口には大きな縄文土器のモニュメントが印象的であった。入り口の壁面には断層のモニュメントが施してある。

今まで縄文時代の生活は獲物を求め定住しなかったと言われる縄文時代の生活であるが三内丸山遺跡は定住した痕跡が見られ有名な6本柱で長方形の大型高床建物が建てられ今までの常識を覆している。
学生時代に教わった古代日本史は今思えば全て全く違う世界であり大変興味深く大きな発見があった、日本の縄文時代が素晴らしく平和な世の中であった。



早速入り口にジオラマ付近で見つけた。小冊子があり早速見ると。なんと昔お付き合いしていた、東北エリアマガジン rakra ラ・クラが編集する三内丸山遺跡の小冊子を見つけた、当時お付き合いしていた代表は既に引退しているが、東北に情報誌小冊子はrakra ラ・クラ独自の雰囲気が漂うものであった。




本人とは、今は全く連絡は取れないが元気で引退生活を謳歌していることをの望む、昔は仕事もお手伝いしたことがありrakra ラ・クラの名前は大変懐かしく感じた。

時間的に本日最後のボランティアガイドで遺跡見学できるので早速申し込み本日です最終の案内された、案内の中年女性曰は、筆者が手に持つ小冊子を見つけこの冊子の案内の写真は私ですと始まった。説明は若干青森弁が混じり所々方言の不明箇所もあったが、最北端の青森に来た実感を覚える。この各地方独特の方言の語源は実に聞き取りにくいが楽しい味わいでもある。


全体を縄文土器に見立て、北海道と北東北の形を、縄文時代のパワーを象徴するような渦巻きの形で繋いでいます。
図形の色は縄文時代の漆器や土器にみられる赤漆色とし、構成資産の分布している範囲を濃い目の色のグラデーションで表現しています。

デザインの左右に「縄文」の文字を、下部に「JOMON JAPAN」の文字を配置しました。「JAPAN」には「漆」の意味もあります。



「漆」についてアジア大陸に自生していた「漆」の木は、縄文時代(約16,000年前〜2,900年前)に日本列島に伝わり、広がったと考えられています。 福井県の遺跡で発見された木材を2012年に調べたところ、約12,000年前の「漆」であることが分かりました。

先ずは三内丸山遺跡のロゴの説明から、これが漆なのであるそうです、漆といえば昔の知り合いに浄法寺町の頃の町長(現在は引退)赴任中から東北浄法寺町の漆の質は大変上質で金閣寺、日光の東照宮等の塗り替え工事には全てを浄法寺町の漆を使っている等営業したと自慢された記憶が残る。金箔を貼るには質の良い漆は必至な接着剤だそうです。質の悪い漆を地ようすると「金閣寺」でなく「黒閣寺」になると笑っておられた事が印象的でした。縄文人達も確かに接着剤としての使用範囲は大変広い様である。接着剤としてはアスファルトも使っていて多様です。



上記写真は、お土産に購入した縄文ロゴ入りのTシャツである。

参考にしてください。YouTubeの三内丸山遺跡案内です、【解説付】縄文時代にタイムスリップ!三内丸山遺跡(青森県)



ボランティアガイドをして頂ける本地最後のガイドさんです、小冊子にも登場されてます、跡の規模は、全体で約42ヘクタールあります。 これは東京ドーム約9個分くらいになります。発掘調査によって集落の構造が少しずつ明らかになってきましたが未だ発掘途中で後30年ほどは作業が続くそうです。


縄文の道路脇に当時の知名人が眠るお墓でそうです。道路を両側から見守っている様に配置されたいる。


丸山遺跡中心部に小高い丘があり、そこが一般の墓地が並び、出土すると一緒に埋葬した土器が発掘されている、人骨は日本の土壌は弱酸性のため今や土に帰っているそうです、しかし僅かながら亡骸からは紐状のものから僅かな漆素材が見つかっている様です。


この建物は一般的な家庭であったと思われる住居後である。


他には高床式の住居が並び意外と精巧な作りとなっている。食料品等の保存用に使われたものであろうか?

当時から多分ネズミ被害防止策とし高床式の倉庫としても重宝したいたのであろう。


近寄って見ると簡単には入居できない工夫おあり、資料館では魚の骨もあり1メートルほどの鯛の骨も貝塚から見つかって現在展示されている。


縄文人達は意外と規律は正しく。壊れた土器等は場所を決め廃棄処理していた事がわかる。まさに当時は北陸地方、北海道地区久慈地方との交流もあり、海洋交通も盛んに行われた様であり、どの様な船で海洋交通をいていたのであろうか?
言葉は話したのであろうか?文字は如何に等疑は尽きない・・・


これは壊れた土器を集めた場所である。
不思議なとこは次々に頭によぎる、次には子供のお墓である、当時出産は生死が虎理合わせでの作業であったようで、また子供の頃は抵抗力も弱く成長が不安であったと思われる。子供専用の墓地であり、使われた土器に入れ埋葬し土器の後ろに小さな穴をあけ、蘇ることを祈ったのであろう。



亡骸を入れた土器は斜めに埋め此の場所に何層もの同じ形式の土器が発掘された様である。



大型掘立柱建物跡
地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。

しかし縄文時代のこの時代には数値に詳しく、柱をわざと傾かせ強度を計る等は建築設計者が居なければこの柱建物は出来ない様に感じるが・・・?



高さ15メートルある大型掘立柱建物は、ガイドさん曰くこの建物の補修したときに上に登れたそうであり、上からの景色な陸奥湾まで見渡せ勿論津軽の海も見えたそうです。
この建物は何の為に作ったのかは未だ不明である。何れにせよここから見えるのは近隣の海の様子でもあり海洋国に相応しく丸木船の目印になっていたのかも知れない。謎は深まるばかりである。



多分ドングリの柱の創作には黒曜石の刃物が使われたのであろう、ノミの様な道具でも製造したと思う、しかし見学していると縄文時代の想像をするのが楽しみでもある。縄文人は暮らしやすい村を構築して行ったのであろう。

直径1メートルのドングリの木の櫓で組み込んでいるそうです、しかしこの建物は設計者がいなければ建築は不可能と思う、当時は文字も言葉も使った板等に思う、1400CC程の脳の重さがある縄文人は現在の脳と同様とは驚きでもある。



少し面白いお話ですが、木の実等(桑の実等の果実を発酵させ簡単なお酒も作っていた様であり、神への捧げ物とし記念日などには皆で楽しんだのでは無いのかとの思いに耽るが、お酒作りも発見されている様である)全く現代と変わらない生活を感じる、と同時に今の生活より平和度は高い様である。

長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。
復元されていて内部を見学することが出来ます。
この建物も個人用の建物同様建物の床は一定の深さを掘り其処に柱を建て屋根を配置し、中央で火を焚き柱等の腐食を防ぎ実に日本建築の当初の建て方と同様であり学ぶ事も実に多くある様である。縄文土器のお陰で煮る、茹でるの新しい調理用は食材を丁寧に調理し常に食卓を豊かにしてのであろう。

下記写真は大型住居跡の内部で写真です。



集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。
中央から建物を見ると柱が鳥居に見えるは筆者だけなのであろうか・・・?皆で神々の信仰も行なっていたのであろう・・・・・?



大型住居跡の柱を見て何か感じませんか?東側に鳥居の形してませんか、共同礼拝所であったのかもしれません。



大型の縄文土器の展示物。特に食の新しい料理方法に変革を起こした土器類は調理は焼くから、煮る、蒸すという新しい調理方法の発見であろう。
旧石器時代から縄文時代に入りの革命は土器の発明であろう、食文化が大幅に向上し平和に豊かにと変化してのであろう。


上記縄文土器は現在でも使えそうであり、5000年以上前から煮物等に使っていたと言われる。



ヒスイ:約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれました。原石、加工途中の未完成品、完成品の珠などが見つかっています。非常に硬い石で、その加工は熟練した技術と知識が必要でした。
黒曜石:ガラスとよく似た、鋭く割れる石です。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきました。 
コハク:岩手県北部の久慈周辺から琥珀の原石が運ばれてきました。ここで加工され、他の集落へ運ばれたものと考えられます。

ここで想像できる事は縄文人は大変に平和であったのであろう、食料もある程度豊富で、ある程度整った衣服を身につけている。次には珍しい琥珀、翡翠等の装飾品を身に纏いお洒落も楽しんだであろう、豊富な魚介類に囲まれ穀物は栗、椎の実、ドングリ等の穀物を食べ生活を楽しんでいたのであろう。

閉館時間も近くなり青森の宿泊地に出発です、ホテルチェックインした後取り敢えずビールで乾杯。その後は新鮮な魚介類で縄文の世界を語り合った。


本日は青森の新鮮なお魚をたっぷり頂きなが縄文時代の話が盛り上がり、老人の歴史勉強で盛り上がった様です。
このブログはもう少し前に仕上げたかったのですが、東北と関東の温度差の違いに体力が付いて行けなく、上野に到着後大変身体が暑く感じた、体調を整えるので時間が掛かった、確かに老人の世界に足を踏み入れたと実感する、この後の旅行の続きは後日掲載予定します、縄文の世界にブラボー!

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