伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

「喜寿」は室町時代末期に日本で生まれた習わしであるといわれるが、77歳間近の歳になった過ごし方。

2024年05月09日 | 歴史(世界史/日本史)の考察


今朝も早朝から愛犬モジャ君との散歩です、今日はコースを梨畑とコースを変えてみた早朝5時30分ではあるが、この時間から消毒の散布する作業車を動かしていた、農園の方に声を掛け写真撮影の許可を頂き今年の梨の赤ちゃんを撮った、暫くして余分な実は摘果するのであろう・・・今年も美味しい梨に期待する。

引退生活も長くなり、あまりこれと言う趣味も持たず、毎日はBGM的に好きな音楽を流し、粗毎日同様な定期的な生活を送っているが、会社員の頃との違いは早朝から愛犬と散歩しシャワーを浴び朝食代わりに淹れたての珈琲を頂き夜は早めに休む生活のリズムが夜型から昼間型に変わった、PCのスイッチを起動しメールチェックしながら近くの市の図書館で借りた歴史書見ながら、不明事項にはインターネット検索し、改めて思うは筆者が学生時代に習った歴史書は古い時代も程正しい歴史と違い驚くやらこれは違った意味に置いて、責めて日本史程度はもう一度見直す価値はありそうである。


最近珈琲豆の在庫も減ったので美味しかった豆を選び4種類ほどの追加注文品が届くので早速新しい豆を使用し珈琲を淹れる。
頻度は2ヶ月に一度程の周期ではあるが、夏場はかなり需要は減る様である。最近購入毎に根が上がるのは早いペースでもある。



今日はエディット・ピヒト=アクセンフェルト( Edith Picht-Axenfeld)のバッハを聴きながら過ごした。

フライブルク大学眼科学の教授であり眼科臨床医の世界的権威テオドール・アクセンフェルトの娘として1914年、フライブルクで生まれた。5歳でピアノの演奏を始め、卒業試験後は当時バーゼルにいたルドルフ・ゼルキンにピアノを、ヴォルフガング・アウラー、アルベルト・シュヴァイツァーのもとでオルガンを学んだ。世界的なピアニスト、チェンバリストとして活躍。オーレル・ニコレ、ハインツ・ホリガー、フィッシャー・ディースカウ、ヘンリク・シェリング、ローター・コッホらとの共演やレコーディングなども数多い。



J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第1巻 24の前奏曲とフーガ
      [1]-[24] 第1番 ハ長調 BWV846~第12番 ヘ短調 BWV857
      [1]-[24] 第13番 嬰ヘ長調 BWV858~第24番 ロ短調 BWV869

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第2巻 24の前奏曲とフーガ
      [1]-[26] 第1番 ハ長調 BWV870~第13番 嬰ヘ長調 BWV882
      [1]-[22] 第14番 嬰ヘ短調 BWV883~第24番 ロ短調 BWV893

2001年、87歳で他界した偉大なピアノ、チェンバロ奏者であり、教育者としても20世紀の音楽界に大きな足跡を遺したエディット・ピヒト=アクセンフェルト。バッハの譜面のすみずみまで熟知したエキスパートである彼女が高度な技術でエレガントに奏でる比類のない音色は、どこまでも暖かく聴くものをやさしく包み込みます。
いかにも厳格な感じのピヒト=アクセンフェルトの演奏はいかにもJ.S.バッハらしい風格も備わった演奏が聴けると思う、またBGMとして聴くも心穏やかになる演奏は大変重宝します。
先日筆者所有のTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80Cabinetも若干改善の手入れをいた結果以前より落ち着きあるエディット・ピヒト=アクセンフェルトの演奏になった様である。確かに書類をまとめる作業にごく小さな音でのバッハの音楽は頭をスッキリさせる効果もある様にも思う。



先ずは縄文時代の歴史は随分当時とは違い、筆者の小学校高学年6年生時代今から約60年前の社会の教科書ではこの時期長く続いて縄文時代は1頁で終了1万年以上続く縄文の歴史が1頁とは情けないのである。
これは我々日本人が1万年以上生活した記録は弥生時代も含め精々2,500〜3,000年しか経過していないのである。この現実を想像する事により日本の歴史は大変に長いのである。
勿論隣国支那に黄河流域には文明が栄えたが、支那の書物には日本の記載は昔からあり最初は三国志時代に「魏」について書かれた「魏書」の一部、「東夷伝」のさらに一部分、「倭人(わじん)」についての記述を指します。
「魏志倭人伝」に書かれているのは、三国志が書かれたのと同じ、3世紀の日本の様子です。「帯方郡 (たいほうぐん)」の海の向こうに倭人がいること、30の国に分かれていることが記されています。
「魏志倭人伝」は長い三国志の中の、ほんの一部分に過ぎません。それでも日本人にとっては、当時の様子を知る手がかりとなる、重要な資料です。
なぜ外国人が書いた書物が、それほど重要視されてきたのでしょうか。
魏志倭人伝日本の古代史を知るうえで貴重な資料
日本で漢字が広まり、文書として残されるようになったのは、4~5世紀のことといわれています。
魏志倭人伝が書かれた3世紀の日本では、まだ文字が普及していなかったと考えられており、当時の様子が分かる文書もまったく見つかっていません。
しかし、中国人が三国志に記述を残してくれたおかげで、3世紀の日本の様子が少しだけ明らかになりました。三国志は史実を述べているうえに、同じ時代を生きた人が書いたこともあり、研究に値する重要な資料といえます。
ただし、現存の三国志は何度も書き写されたもので、字の間違いも多く、すべてを信頼できるわけではありません。魏志倭人伝によって、その存在が分かった「卑弥呼」や「邪馬台国」についても、いまだに多くの謎が残されたままです。
「魏志倭人伝」には、古代日本の政治体制や人々の暮らし、魏との関係などが記録されています。それぞれ具体的に見ていきましょう。



邪馬台国の位置や政治「魏志倭人伝」には。邪馬台国への行き方や距離が書かれています。しかし、解釈の仕方によって位置が大きく変わってしまうため、現在も、邪馬台国がどこにあったのかは分かっていません。
邪馬台国は、もともと男性の王が治めていましたが、争乱が起こったため、卑弥呼という女性が王位に就き、国をまとめたとされています。
卑弥呼は不思議な力を持つ「巫女(みこ)」で、その力を発揮して人々の支持を集め、争いを収めたと記されています。

当時の日本人の生活や風習「魏志倭人伝」には、日本人(倭人)が、魚や貝を好んで食べていたことや、馬やトラ、羊がいない代わりに、サルやキジがいたことなどが書かれています。
また、卑弥呼が住んでいた場所には、宮殿や物見やぐらがあり、その周囲を柵で厳重に囲われていました。卑弥呼が亡くなったときには、大きな墓が造られ、100人ほどの奴隷が「いけにえ」になったとも記されています。
当時の日本人の生活や風習がよく分かる内容といえるでしょう。
国内の争乱を収めるために、大国の力を借りようと考えた卑弥呼は、魏の皇帝に使者を送ります。
そのころ中国では、漢が弱体化して三国時代に突入したことで、それまで漢に朝貢していた周辺の国々が背を向け始めていました。
そのようなときに、傘下に加わりたいと、はるばるやってきた卑弥呼からの使者に、魏はたいそう喜びます。
皇帝は卑弥呼を支援することを決め、「親魏倭王 (しんぎわおう)」の称号や金印、銅鏡百枚などを与えたのです。
実際に邪馬台国が他の国と争いを始めたとき、卑弥呼の要請に応じて魏は支援を決めます。しかし、間もなく卑弥呼が亡くなったため、魏が動くことはありませんでした。
卑弥呼の死後、邪馬台国では男性の王が即位しますが、他国の反感を買い、日本(倭)は再び戦乱の世に逆戻りします。
女王の不思議な力がなければ国を治められないと考えた邪馬台国は、「壱与(いよ、とよ)」という少女を後継者に選びました。
魏との外交も続いていましたが、魏志倭人伝の話は、266年に使者がやってきた時点で終わっています。その後の邪馬台国がどうなったのかについては、どこにも記録が残っていません。
「魏志倭人伝」に登場するさまざまな情報の中でも、特に注目されているのが邪馬台国です。
邪馬台国があった場所はもちろん、本当に国名なのか、邪馬台国の表記自体が誤りではないかとの説もあります。現在分かっている邪馬台国の情報を見ていきましょう。



邪馬台国があった場所には、諸説あります。
「魏志倭人伝」には邪馬台国への行き方が記されていますが、記述の通りに進むと太平洋上になってしまうことから、方角か距離のどちらかが誤りだったのではないかという推測のもとに、研究が進んでいるのです。
「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の政治手腕や周辺国との関係を踏まえて、邪馬台国の場所を特定しようとする研究も行われています。
現在、邪馬台国の場所として有力候補に挙がっているのは、「畿内(きない)」と「九州」です。それぞれの説について、具体的に紹介します。
邪馬台国の場所を特定する研究は、江戸時代から行われていました。江戸時代前期の歴史家は「邪馬台」が「ヤマト」と読めることから、邪馬台国は大和国(やまとのくに、現在の奈良県)だったと考えます。
帯方郡は、現在の朝鮮半島におかれた中国の郡です。中国から見て朝鮮半島の海の先にあるわけですから、まさに日本のことを表していると分かります。
三国時代以前の漢の書物にも、日本に関する記述がありますが、そのときは100を超える国があったとされています。
中国で国が三つに分かれていたころ、日本では100以上もあった小さな国が統合され、30国ほどになっていたのです。
「魏志倭人伝」は長い三国志の中の、ほんの一部分に過ぎません。それでも日本人にとっては、当時の様子を知る手がかりとなる、重要な資料です。
なぜ外国人が書いた書物が、それほど重要視されてきたのでしょうか。



三国志時代も終わり隋の時代になり倭国の記実が現る。
後は隋(王朝) (581年〜618年)南北朝の分裂を統一した中国の王朝の頃『隋書』は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国大陸史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である。その頃は日本国も同時期の「日本書紀」推古朝は女帝の時代にあり、倭王が 誰にあたるのかは定説がない。
当時支那は漢字の書物が用いられ、漢文が書かれた書物が流通していた。表題も「隋書倭国伝」の中に倭国の記載は列伝第46条東夷伝の中にある隋書倭国伝に位置、地勢、倭国での順路、倭国の気候、暮らし、習慣や支那との関係等詳しく述べれれている。

この当時仏教の伝来し、権力争いの火種となり豪族の間で仏教を受け入れるかの意見が分かれ派閥が出来上がる。朝廷では蘇我馬子(蘇我 馬子は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。 敏達朝で大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えて、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。)
当時朝廷内の蘇我馬子が推古天皇が即位し飛鳥時代が始まり、朝廷を中心とする中央政権化が進み592年に初の女性天皇である推古天皇が即位する593年にその甥である聖徳太子が摂政となる蘇我馬子と協力し天皇に忠誠を目指した。



上記の写真は聖徳太子の幼少の頃とされる。

その後聖徳太子が603年(推古天皇11年)に制定した「冠位十二階」(かんいじゅうにかい)は、優れた人物であれば身分に関係なく取り立てられる制度で、旧来の豪族の力を弱体化して天皇に権力を集中することが目的でした。しかしこの制度が導入されたあとも蘇我馬子は権力の中心にいたことから、聖徳太子を背後で操っていたのが蘇我馬子であったと主張する歴史家もいます。



603年には家柄には関係なく優秀な人材を登用を目的とした冠位十二階(大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二種からなる位階である。 この名称は、儒教の最高の徳目である徳をはじめにおき、人のおこなうべき五つの道、仁・義・礼・智・信の五常を加えて六つとして、それぞれ大小にわけて十二にした。)604年に初めての憲法でもある。政治に関する人々に道徳や心構えを説いた憲法17条を制定した。内容は以下の通りである。
 第1条:和(仲良くすること、争わないこと)を大切にせよ。
 第2条:仏教を信仰せよ。)
 第3条: 天皇の命令には必ずしたが従え。)
 第4条:身分の高い人も低い人も、礼儀作法・ 儀式などの社会的・道徳的な  決まりにもとづく行いをすれば、国は自然に治まる。
 第5条:裁判をする人が、賄賂を貰って、金持ちに有利な裁判をすることをやめ裁判を公正にせよ。
 第6 条:人のよい行いをほめ、悪い行いを改めさせよ。
 第7条:その役職に適した人を 選べ。
 第8条:勤勉に仕事をせよ。
 第9条:すべての事にまごころをもってあたれ。 
 第10条:いかりをおさえて表面に出さないだけでなく、心を広くもって人の失敗 をゆるせ。
 第11条:功績と悪事を見分けて、賞ばつを公平に行え。
 第12条: 租税 を取る権利があるのは天皇だけだから、役人が勝手に租税を取ってはならない。)
 第 13条:自分の担当する仕事や役目をよく知れ。
 第14条:人をうらやんではなら ない。
 第15条:地位を利用して、自分の利益をはかってはならない。国や民のた めにつくせ。
 第16条:農閑期を利用して民を使うのは昔からのよき教えであ る。
 第17条:重要な事を決めるときは、おおぜいの人と相談せよ。そうすれば、 人々を納得させるような理(道理、理論)が必ず見つかる。

現在日本の政治問題で問われる事についはこの内容をよく理解した上にて議院バッチを付け、守れない場合は即刻辞職する。1,500年以上前の憲法17条を基本にすれば全て上手く捗る、まず政治家自身上記の記載をよく遵守する事は最低の国民との約束ごとでもあろう。当時この後607年に小野妹子を遣隋使として隋の国に送っている、又隋の歴史書に於いても隋書倭国伝に記載される。

確かに当時は海の向かいの支那に漢文、政治に関する冠位十二階等は学んでいるが、当時の支那の学術を日本風にアレンジし日本人が使いやすい様にした所は見逃せない所でもある。


推古天皇陵

隋の中央官僚には十二等級あり
大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信と並び日本の並び順とは異なっていた。「徳・仁・義・礼・智・信」となっていた様である。日本では「徳・仁・礼・信・義・知」と教えた。又冠位十二階は儒教の影響が強い当時の隋では影響を受け水を真似し日本に導入されたと考えたが、隋の時代の儒教では五徳の徳の教えが「仁・義・礼・智・信」が重要視され「仁」人を思いやる事「義」利欲にとらわれない事「仁」守るべき事「智」通りをよく知るえる人「信」真実を告げ約束を守り誠実である事と述べている。儒教ではこの順番を重要視され隋書が正しいと思われるが日本人の法制度はこの順番を変更し冠位十二階を定めたであろう。しかし720年には冠位十二階は無くなってしまった。

この様に祭り事を行う政治家、役人が昔決められた冠位十二階も学ぶ事なく現在の政治を決める政治は真の平和な世界が作れるのであろうか?
以前トランプ大統領選挙の結果が発表された時に、高々200年の歴史しか持たない米国の判断は本当に正しいのであろうか、日本は世界でも歴史の古い伝統ある国の判断を聴きたいと叫んだトランプ大統領の言葉が今も残る言葉でもある、所詮先の戦争で与えられた日本国憲法も官僚、政治家が冠位十二階をよく学びた後に新たな日本に相応しい日本国憲法も視野に入れた新しい憲法が必要な時を迎えて様にも思う。
昨今の大臣の態度は最悪でもあり、日本人としての品格も疑われる現在の政治家には基礎教育が必要であり実に情けな無い時代となっているのが現状でもある。

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