よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

国指定重要文化財「竪坑櫓」へウオーキング(福岡県粕屋郡志免町)

2017-02-21 16:35:08 | JR九州ウオーキング

 2/18(土)は、JR九州ウオーキング「国指定重要文化財『竪坑櫓』」のウオーキングに参加しました。

博多駅から篠栗線に乗り、長者原駅で香椎線に乗り換え須惠駅に到着。この日、JRウオーキングはこのコースしかなく、スタート場所の須惠駅には、たくさんの方が降りてこられました。

 

受付を済ませ、9:30スタート。

   

須惠町の地名の由来は、古代、須惠焼の窯があったことからその名がついたそうです。

私が社会人になって2年目ごろ、会社の工場が須惠町新原(旧産炭地)に移転することになり、その頃、連絡の為、博多駅の事務所⇔新工場間を一日に何回も往復していました。

当時は道路も狭く新工場に行く距離が長く長く感じていました。今回久しぶりに須惠町を歩きましたが、あのころからずいぶん変わりましたね。

旅石(たびし)八幡宮」は、今回パスしましたが、神功皇后が宇美八幡宮でお産される途中に立ち寄られ「あな わびし」と言われ、それが旅石という地名になりました。

西原の交差点を過ぎると「志免町」に入ります。

志免町の町名の由来は、かつて宇美八幡宮祭礼の際の第一の注連縄を引いた地であるから、また、神功皇后が宇美の地で応神天皇を出産した際に、注連縄を張ったという伝説に由来するともいわれています。

  

歩いていると前方に旧志免鉱業所の「竪坑櫓」が見えてきます。

志免鉱業所(しめこうぎょうしょ)は、糟屋炭田(かすやたんでん)の炭鉱の一つ。志免炭鉱とも呼ばれていました。採掘開始から閉山にいたるまで終始国営(戦前は海軍、戦後は国鉄)であった

日本国内唯一の炭鉱として知られています。1964年(昭和39年)閉山。志免鉱業所竪坑櫓、斜坑口などの遺構が現在も残されています。2009年(平成21)12月8日、竪坑櫓が国の重要文化財に指定されました。

   

     

 

志免町のランドマーク「竪坑櫓」です。高さ47,6m、長辺15,3m、短辺12,3mで、1943年(昭和18年)5月竣工。

志免町のHPを見ると、

竪坑櫓」は、ケージと呼ばれる籠を昇降させるために造られた巨大なビルディングです。この櫓の真下にまっすぐ掘られた深さ430mの「竪坑」という穴を使い、地下から石炭を上げたり、

坑員を地下の石炭層まで移動させていました。まるで金づちを立てたような形の櫓に、巻き上げる機械が組み込まれた、エレベーターのような仕組みとなっています。

さまざまな形の竪坑櫓の中で最も発達した形式で、地上8階、地下1階のうち、地上1階から5階までを柱のみで構成し、6階以上には壁をつけています。8階部分には吹き抜けの大空間があり、

ケージの巻き上げに使われた1000馬力のモーターが、休みなく稼動していました。

 志免と類似する形式で、終戦(1945年)の前に建設された竪坑櫓は、これまで九州で造られたおよそ100の竪坑のなかでも、四山第一竪坑(三井三池炭鉱、荒尾市)にあっただけです。

また世界中をみても、現在まで残っているものは、志免のほかにベルギーのブレニーと中国撫順の2か所だけだといわれています。その姿は、機能的で無駄のない造形美をもつ近代建造物であり、

世界の産業技術史を語る上でも大切な遺産であるといえるでしょう。

 1957(昭和32)年には、21万トン以上も出炭していた竪坑も、1964年の閉山とともに稼動を停止します。現在、日本に現存する最大規模の竪坑櫓は、日本で唯一、

開坑から閉山まで国営でありつづけた志免鉱業所の歴史を物語っています。 

 日本の近代化を支えた竪坑櫓が、志免町のランドマーク、そして歴史と文化のシンボルタワーとして、広く親しまれることを願っています。(志免町HPより引用)

この竪坑櫓は、平成21年(2009年)国の指定重要文化財に指定されました。

  

竪坑櫓の横には、志免町複合福祉施設「シーメイト」があります。館内には、竪坑櫓や炭鉱施設、博多山笠舁き山などが展示されていました。

  

志免町産業遺産収蔵庫では、換気用に使われた「飛行機の木製プロペラ」が展示されていました。

  

大正町商店街来ました。

歌手の郷ひろみさんは、福岡県須惠町出身です。ひろみさんのお母さんは、ここ志免町に実家があります。

昔、この地で郷ひろみさんの親戚の方が「ひろみ饅頭」を売っていました。酒まんじゅうみたいなもので饅頭に「ひろみ」という刻印が押されていました。

その頃勤めていた会社の女子社員にひろみさんの大ファンと言う方がおられ、私は、営業でこのあたりを通るとその子に、このひろみ饅頭を買ってきたりしました。

あれから40年・・・・・・・・もうひろみ饅頭は無く、跡地には新しい家が建っていました。新しい方は、ひろみさんとは全く関係のない方でした。

  

  

鉄道記念公園です。

志免町には、1985(昭和60)年まで石炭輸送のために作られた鉄道がありました。香椎線の引き込み線と、勝田線です。

香椎線は、1909(明治42)年から開通した博多湾鉄道旅石線(後に博多湾鉄道汽船から西日本鉄道、日本国有鉄道へ変わった香椎線引き込み線・1984(昭和59)年12月31日廃線)のことです。

勝田線は、1919(大正8)年に開通した筑前参宮鉄道(後に西日本鉄道から日本国有鉄道へ変わった勝田線・1985(昭和60)年3月31日廃線)のことです。

石炭景気の需要による開通で、当時の一日乗客数は300名、石炭は750トンと、石炭輸送が主でした。現在、勝田線は緑道として公園整備され、志免駅は志免鉄道公園となり、レリーフが当時を偲ばせています。

  

  

   

  

現在志免町の人口は、約4万人。この勝田線を残し、宇美八幡宮から太宰府天満宮まで延伸してたら、もう少し需要があったのではないかと素人ながら考える次第です。

コースは、志免町役場付近から「岩崎神社」に向かいます。

岩崎神社には、福岡市出身の元総理「広田弘毅」の書による「興風会之碑」があります。広田弘毅が外務大臣時代(昭和8~12年)の書ですが、「興風会」というのは、調べましたがわかりませんでした。

  

 

  

岩崎神社の絵馬堂が今日JRウオーキングの為に特別に開放されています。

この中には、志免町指定文化財の「黒田二十四騎図」(安政3年(1856))が奉納されています。他には、下関の講和条約、西郷隆盛征韓論の「西海揚波起源図」などもありました。

    

岩崎神社から引返し、ゴールの須惠駅を目指します。7kmを1時間40分のウオーキングでした。

  

YAMAPの軌跡です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


城島の酒蔵開きウオーキング(福岡県久留米市)

2017-02-13 12:06:14 | JR九州ウオーキング

2/12(日)は、JR九州ウオーキングで福岡の酒どころ「城島」の酒蔵開きウオーキングに参加しました。

城島は兵庫の灘・京都の伏見・広島の西条とならぶ酒どころとして有名で、筑後川の豊かな水、美しい大粒の筑後米、芳香を放つ日田杉、愛情こまやかな三潴杜氏の技量、水運の便利さなどの利点に恵まれ、

古くから酒造りが盛んでした。現在も9つに蔵元が個性あふれるお酒を醸し続けています。

集合場所は、JR荒木駅。

  

受付番号は、210番。9:00荒木駅をスタート。背振の山々には、金曜日から降った雪がまだ残っています。

  

歩いていると、電車の線路を模した歩道があります。これは、西日本鉄道(西鉄)の旧大川線の跡です。

旧大川線は、1912年(大正元年)に開業し、乗客の他に主に旧三潴郡(城島含む)のお酒や、お米、い草などを運搬していましたが、1961年(昭和36年)廃止されました。

三潴小学校の所には、当時走っていた汽車(ポッポ汽車)が展示されています。

  

先ず、「萬年亀」へ。萬年亀は、明治25年(1892年)創業。

試飲をしたかったのですが、今日は、途中まで車で来ており、残念ながら雰囲気を味わうだけになりました。

 

池亀酒造   明治8年(1875)創業。

 

  

花の露   江戸中期延享2年(1745)創業。

  

  

ウオーキングは、花の露がゴールでしたが、その足でメイン会場の町民の森に行きました。

  

酒蔵祭りでは、チケット12枚綴りが600円で販売され、Aクラス(本醸造酒クラス)が1枚で1杯、Bクラス(純米酒クラス)が2枚で1杯、Cクラス(大吟醸酒クラス)が3枚で1杯というように

お酒の飲み比べが出来ます。

   

飲みたいのを我慢し、自分用のお土産に純米酒を買って帰りました。

   

2日間の来場者数は、11万人だそうです。

 

 

 

 


海風を感じながら海の幸「福吉一粒牡蠣」を堪能ウオーキング

2017-01-30 18:30:07 | JR九州ウオーキング

1/28(土)は、久しぶりにJR九州ウオーキングに参加しました。

集合場所は、JR筑肥線大入(だいにゅう)駅。この駅は、隣の「福吉駅」の切符「大入⇔福吉」が縁起のいい切符ということで人気がありました。

それも交通系のカードの普及により両駅とも無人駅になり、この切符が見れなくなりました。

「大入(だいにゅう)」とは、ちょっと難解な地名ですが、多分このあたりが大きな入江になっていたから「大入」と名づけられてのではないでしょうか?(私の勝手な解釈ですので詳しいことはわかりません)

福吉は、昔から、福井地区と吉井地区があり、その頭文字をとって「福吉」と名づけられました。

 

大入駅から旧道を通ります。ここからは海岸線を歩きます。ちょっとコースを外して海岸に出ました。やはり入江になっています。

このあたりは、リゾートマンションもあります。

   

再びコースに戻ります。国道202号線を抜け、産直店「福ふくの里」へ。

ここは、毎年店の前の畑に「菜の花」を植えています。お店では、食用の菜の花が配られました。

  

福ふくの里から少し坂道を登り、大法寺、白山神社、妙現寺へ。

白山神社は、石川県の白山比咩神社を勧請したもの。祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと)。相殿には、伊弉諾尊、伊弉册尊が祀られています。

菊理姫命は、伊弉諾尊、伊弉册尊夫婦喧嘩の仲裁をしたことで知られており、「くくり」というのは、紐をくくるというように離れているものを結ぶ意味があります。

このことから白山は、縁結びの神様として御神徳を仰がれています。

  

妙現寺には、高さ5Mぐらいの大仏様があります。

  

このあたりが一番高い所。これから下りて行きます。まだ膝の具合が本調子ではないので下りには非常に気を使いゆっくりゆっくり下ります。

福吉海岸に着きました。朝日森神社の前には、「力石」の説明があります。文政年間、吉井浦と福井浦は、廻船問屋や海運業で賑わっていました。その時の若者が力試しに使った石が置いてます。

  

今日のウオーキングの目玉は、「福吉の焼き牡蠣」です。JRウオーキングセット1000円で牡蠣、サザエ、緋扇貝が入っています。

飲み物も1杯サービスですが、お昼からお酒はちょっと飲めませんのでソフトドリンクをお願いしました。

焼き牡蠣は、最高ですね。

  

食べ終わって歩き出すと木に何か白いものがあります。これは、潮が引くのを木に止まって待っているサギです。

  

 

しおさい公園に行くと「吉井浜思ひ出の歌」の歌碑があります。歌碑の由来は、「海のない佐賀平野のど真ん中にある旧佐賀高校(現佐賀大学)水泳部は昭和3・4・5年とインターハイで三連覇達成。

昭和9・10年インターハイ で連覇達成。全国高校水泳大会などで素晴らしい足跡を残した。その礎になったのが吉井浜です。大正12(1923)年、大法寺(二丈福井)を宿舎に、

この地で合宿を行っていた旧制佐賀高等学校(現佐賀大学)の水泳部員・吉原正俊さんが、吉井浜の美しさと福吉の人々の温かさ・優しさに感動して作詞、同じ水泳部員の山口正之さんが作曲したものです。

その歌はこちらです。

 https://youtu.be/bPS_rOzSYto

  

再びコースに戻ります。福吉の町は、旧唐津街道になっています。10年前、この唐津街道(若松~唐津)を歩いた時この道を通りました。

唐津街道は、202号線と交差する所を二丈カントリーの方になります。

  

喜八荘で折り返します。ここの海鮮丼も絶品です。

   

喜八荘を折り返しまむしの湯に向かいます。途中横断歩道に面白いものがありました。

   

お昼は、浜チャンポンの「海鮮チャンポン」を頂きました。店内は、ウオーカーで満員。20分ほど待って待望のチャンポンにありつけました。

そのあとも次々にウオーカーの方が入ってこられました。

  

12:25 ゴール。8KMでしたが、ゆっくりゆっくり歩きました。

ウオーキングのポイントが40ポイントになり景品と交換しました。リュックです。

  

 

 

 

  

 

 


八代妙見祭りへ(熊本県八代市)

2016-11-25 19:39:47 | JR九州ウオーキング

11/23は熊本・八代で行われた「妙見祭りウオーク」に参加しました。

「妙見祭り」は、九州三大祭りの一つで、九州南部を代表する祭礼行事として、約380年も続くお祭りです。神事行列では、神輿や笠鉾、獅子、亀蛇、花奴、木馬、神馬、飾馬など40の出し物が

八代神社(妙見宮)へお上りします。一番の人気者は「ガメ」と呼ばれる亀蛇(きだ)で、全長3m、幅2.5m、全体の重さが100kg以上もあります。八代駅前、八代神社近くの砥崎河原などでは、

各団体による演舞が行われます。

この妙見祭りは、今年登録される予定のユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台」33件の一つに入っています。

新八代駅では、妙見祭りの「亀蛇(がめ)」が展示されていました。

    

9:50 八代駅に到着。駅前会場では、神幸行列が始まっていました。

  

人が多く身動きできない状態でしたが、妙見祭りの八代神社(妙見宮)へ向かいました。

   

途中、妙見祭の山車「菊慈童」に遭遇。

  

妙見宮は、1730年(享保15年)に書かれた『妙見宮実紀』によれば、795年(延暦14年)、横岳頂上に上宮を創祀。1160年(永暦元年)、中宮を建立。1186年(文治2年)に、後鳥羽天皇の勅願で、

検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により下宮が創建された。1870年(明治3年)までは妙見宮と呼ばれた。妙見神とは、北極星・北斗七星の象徴である。神道と仏教の両部の宮寺で、

広く崇敬を受け、八代、下益城、芦北三郡の一の宮として栄えた。1871年(明治4年)、神仏分離令により、天之御中主神、国常立尊を祭神とし、社名を八代神社と改められ、県社となった。(ウィキペディアより抜粋)

今日はお祭りでお祓いを受ける方の行列が長く続いています。

   

砥崎河原会場は、12:30から開演開始ですが、すでに見物客の方が座って待っています。開演までまだ時間があるのでウオーキングコースを歩きます。

  

宗覚寺は、西南戦争で薩軍の本陣があった場所です。宗覚寺の先には、後醍醐天皇皇子「懐良(かねなが)親王」の墓陵があります。宮内庁の管轄です。

  

  

妙見中宮跡

   

水無川 川の水がきれいで初夏にはホタルが飛び交うそうです。

  

11時半。砥崎河原に着きました。12時半からの開演にはまだ時間がありますが、今の所、席も空いていますので開演までここで座って待つことにします。

12時15分。開会の挨拶です。最初は、獅子舞です。

  

  

 獅子の動画 https://youtu.be/cz0E-xW7ZGU    

それから「花奴」、「木馬」と続きます。

  

  

鉄砲は、甲子園でも活躍した「秀岳館高校運動部」の生徒です。

  

  

山車は、妙見宮に行く途中に出会った「菊慈堂」です。

  

神馬(馬追い)は八代高校OBの方です。

  

馬追いの動画  https://youtu.be/we5pacS4PCI    

出し物は全部で40ぐらいあるそうです。メインの「亀蛇」は、最後の方。見たかったのですが、そろそろ帰らないとゴール受付時間に間に合いません。

砥崎河原からゴールの新八代駅までは約5km。

  

新八代駅の手前に「八代よかとこ物産館」があります。ここのレストランには「トマトラーメン」があります。どんな味か食べてみたくなりました。

スープの色からして濃いめの味かなと思いましたが、あっさりしていて、美味しいです。スープまで飲んで完食しました。

ゴールの新八代駅には15時丁度に到着。15:40の新幹線さくらで博多に戻りました。

  

 

 

 

 

 

 

 


誕生日ウオーク「宗像大社~鐘崎漁港」(福岡県宗像市)

2016-11-16 11:10:26 | JR九州ウオーキング

11月12日は、私の〇〇歳の誕生日。この歳になると自分が今年いくつになるかわからなくなってしまいます。(笑)

さて、この日は、誕生日祝いを兼ね、JR九州ウオーキング「宗像大社大国宝展と菊花展、さつき松原を巡るウオーキング」に参加しました。

8:36 JR東郷駅スタート。

15分ぐらい歩くと右側に「いせきんぐ宗像」があります。何かケーキ屋さんみたいな名称ですので何かな?と思い中に入ると、弥生時代中期の遺跡「田熊石畑遺跡」です。

この遺跡が歴史公園になっています。

  

この遺跡は、宗像市内を流れる釣川の中流域に面する微高地上(標高12m)にいとなまれた弥生時代中期前半(紀元前2世紀)頃を中心とする集落遺跡です。

平成20年(2008)、宗像市教育委員会による発掘調査が行われた結果、日本の国の成り立ちを知るために重要な遺跡として平成22年2月22日に国史跡の指定を受け、

平成27年4月に宗像市田熊石畑遺跡歴史公園、愛称「いせきんぐ宗像」としてオープンしました。

遺跡からは、有力者の集団墓である区画墓(くかくぼ・埴丘墓)や貯蔵穴(ちょぞうけつ・地下式の穴蔵)とそれを守る溝をめぐらした環濠(かんごう)、倉庫と考えられる高床の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、

堅穴住居などが見つかり、豊かな宗像の弥生文化があきらかになりました。

なかでも弥生人の権威を示す武器形青銅器が、わずか6基の木棺墓(もっかんぼ)から計15点出土し、北部九州でも有数の有力集団が眠る区画墓の一角であることがわかりました。

平成27年に世界文化遺産国内推進を受けた「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺跡群」の成立前夜に誕生した宗像人(むなかたびと)のルーツといえます。(観光パンフより抜粋)

宗像人のルーツというと、古代海人族として活躍した「胸形(宗像)一族」ではないでしょうか????

いせきんぐ宗像から約1時間で「宗像大社」に到着しました。

宗像大社は天照大神の三柱の御子神をおまつりしています。三女神のお名前は 田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と申し上げ、

田心姫神は 沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神は 中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神は 辺津宮 (へつぐう)におまつりされており、この三宮を総称して「宗像大社」と申します。

ここ宗像の地は、中国大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として、重要な位置にありました。 日本最古の歴史書といわれる「日本書紀」には、

「歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な祭祀を受けられよ」との 神勅(しんちょく)(天照大神のお言葉)により、三女神がこの宗像の地に降りられ、おまつりされるようになったことが記されています。(宗像大社HPより)

沖津宮がここから約50kmの玄界灘に浮かぶ「沖ノ島」、中津宮が神湊から約6,5kmの海上の大島に鎮座しています。辺津宮がこの地宗像大社に鎮座しています。

宗像大社から見れば大島、沖ノ島まで一直線でつながっています。その直線の先が韓国です。

ここ宗像大社では、第二宮(沖津宮)、第三宮(中津宮)としてこれらのお宮をお祀りしています。

  

  

このあと、「高宮祭場」に向かいます。

宗像大社は「降臨の地」と伝えられ、沖ノ島と並び、宗像大社境内で最も神聖な場所の一つです。神籬(ひもろぎ)(樹木)を依代(よりしろ)としており、社殿が建立される以前の神社祭祀(庭上祭祀)を継承する

全国でも稀な静寂に抱かれた祈りの空間です。

  

三宮の中でも沖ノ島は、宗像大社の神職が交代でたった一人常駐勤務(10日間ごとの交代)し、今日も女人禁制や毎朝海に入っての禊(みそぎ)、一木一草一石たりとも持ち出せない、島で起こったことは口外しない

などの掟や禁忌によって厳重に守られている神聖な島です。

その沖ノ島では四世紀末から約六百年間にわたり国家規模の禁忌がおこなわれ、二十三ヵ所の禁忌跡が確認されるとともに八万点にも及ぶ神宝(すべて国宝)が出土しています。

また現在全国津々浦々の神社で行われている祭祀は、社殿で行われていますが、この沖ノ島の祭祀跡から天上より依代(磐坂、神籬)に神様を降臨願うという神社祭祀の原点が実証されています。

       

宗像大社では「菊花展」が開かれていました。

   

  

菊花展を見ていると珍しい菊も展示されています。

  

 

入口には、麻生副総理の曽祖父「麻生太吉氏」寄進の大鳥居があります。

  

宗像大社の横には、「海の道むなかた」があります。宗像大社にはもう何回も来ていますが、海の道むなかたの中に入るのは初めてです。

常設展示では、玄界灘を縦横無尽に活躍した宗像人の足跡をたどることができます。3Dシアターでは、世界遺産登録を目指す中心遺跡「沖ノ島」の神秘的な世界を音と映像でリアルな体験をすることができました。

   

宗像大社から約1時間で「道の駅むなかた」に到着。この道の駅は、2014年度九州道の駅お薦めランキングで見事第一位を獲得しています。

ただこの時間に行くとお目当ての品物はなくなっていると思い、パスしました。

道の駅むなかたを過ぎると「さつき松原」に入ります。遊歩道になっており、左側の海を見ながらのウオーキングです。

海岸線約5キロにわたり、樹齢200年の黒松林がゆるやかに弧を描いて続いています。海の青と白い砂が美しい海岸線は玄海国定公園に指定され、県内でも有数の景勝地として知られています。

伊勢の二見浜、日向の小戸浜と並び、日本三浜のひとつに数えられる保有林でもあります。1602年に黒田長政が植林を始めたといわれ、田畑の防風、防砂林として植えられました。

近年では、玄海さつき松原保存会を中心に、小中学生や老人クラブなども参加して、植林や下草刈りなど、市民一体となって、この美しい松原を守ろうとがんばっているそうです。

  

この海岸線を歩いていると本当に気持ちがいいです。大島には、私が若いころ丁度大島フェリーターミナルの工事が行われており、何回か行きました。

その年の忘年会もここ大島で行いました。お魚が美味しかった思い出があります。

さつき松原を過ぎると「鐘崎」の町に入りました。

  

12:19 鐘の岬活魚センターにゴールしました。コースマップでは、13kmと書いてありますが、万歩計などを見ると15kmぐらいです。

  

スタート時にいただいた活魚センターの商品券(@500X2)を使い、今晩の誕生日鍋パーティの為、天然の鯛を購入しました。

またおもてなしの「うどん」がサービスで出されました。

帰りは、ここから東郷駅まで無料のシャトルバスが用意されていました。

   

今日は、天気も良くまた景色も最高で素晴らしい誕生日ウオークになりました。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 


放生会(ほうじょうや)ウオーク (福岡市筥崎宮)

2016-09-22 05:26:35 | JR九州ウオーキング

9/12~9/18まで 福岡の筥崎宮では、福岡の三大祭の一つ「放生会(ほうじょうや)」が行われています。※普通は、「ほうじょうえ」ですが、博多では「ほうじょうや」と呼んでいます。

放生会というのは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式です。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられました。

収穫祭・感謝祭の意味も含めて春または秋に全国の寺院や、宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡宮(八幡神社)で催されます。

9/17(土)JR九州ウオーキングで放生会ウオーキングが行われました。

スタートは、JR箱崎駅。先ず、筥崎宮に隣接する「花庭園」へ行きます。

  

花庭園は、正月の「冬牡丹」が有名ですが、この時期は、これといった花がないのでは?とも思いましたが、入ることにしました。

  

彼岸花も咲いていました。

   

この「玉簾」も彼岸花の仲間です。

    

赤と白の萩も咲いていました。

   

花庭園を見て廻り、筥崎宮へ。筥崎宮祭神は、応神天皇、神功皇后、玉依姫命です。

筥崎宮のHPを見てみると、筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。 御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた

応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、

平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、

延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。

鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。

後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。

江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、

近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。(筥崎宮HPより)

   

    

本殿の裏側に行くと、池坊の生け花、福岡に関わる有名人の「書」がありました。

  

    

放生会といえば、「おはじき」です。このおはじきは、私達が子供の頃遊んだ「おはじき」とは、ちょっと違います。

放生会のおはじきは「厄をはじく縁起物」とされ、土製の素焼きの物です。 博多人形の人形師さん達が、博多人形の技法でひとつひとつ手作りで作る物で、 毎年違ったテーマで製作されています。

販売価格は3000円の物と、額に入った10,000円の物とがあります。 放生会当日販売されますが、すぐ売り切れてしまいます。

毎年テーマがあって今年は、ユネスコ無形文化遺産「和食」で天ぷら、水炊き、握りずしなどがあります。

      

  

また、『ちゃんぽん』は、長崎で土産物に販売されている「ビードロ」と同じ物で、 全国的には「ぽぴん」や「ポッピン」とも呼ばれる様です。 ガラス製で、息を吹き込むと「ペコン」「ポコン」という音を出す玩具で、

放生会では、巫女さんたちがガラスに筆で絵付けをした綺麗なちゃんぽんが販売されます。 値段は3000円~9000円で、お守り授与所で販売されます。

  

 

梨も柿も放生会」という言葉があります。福岡では秋が近づく頃にはこの言葉をよく耳にします。放生会が実りの秋を迎え、作物の豊穣に感謝する祭りなので、このように呼ばれ親しまれています。

 

また、お祭では、約500もの数多くの露店が並ぶため、「放生会に行けば秋のものは何でも揃う」という意味だとも言われています

 

参道の露店を見ると、放生会名物「新生姜」が葉ごと売られていました。

戦前まで筥崎宮周辺には生姜畑があり、放生会で採れたての新生姜が販売され、 博多のごりょんさん(商家の奥さん)がお土産として買って帰ったのが始まりと言われています。

それを近所にお土産として配っていました。

  

約5kmのコースでしたが、放生会に秋を感じるウオーキングでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


JR九州ウオーキング「見返りの滝とアジサイ」(佐賀県唐津市相知町)

2016-06-21 08:08:39 | JR九州ウオーキング

佐賀県唐津市の「見返りの滝」では、6/4~6/26まで紫陽花祭りが行われています。

6/18(土)は、JR九州ウオーキングでこの「見返りの滝紫陽花祭り」に行ってきました。

JR相知(おうち)駅をスタートしますが、この日は、大変蒸し暑く少し歩いただけでも汗が出てきます。

相知町は、2005年唐津市と合併しましたが、町内には、まだ相知町時代のマンホールがあります。

Sewerage(下水道)と英語表記が珍しいマンホールです。見返りの滝とアジサイをイメージしています。

途中で佐賀ミカンのジュースをいただきました。

  

入口で美化協力金200円を払います。見返りの滝には、約4万株のアジサイがあります。

  

 

  

 

  

  

見返りの滝に着きました。ここからの滝とアジサイが撮影スポットになります。

  

見返りの滝は、落差100m、佐賀県最大の滝で日本の滝百選にも選ばれています。

滝つぼに近づいてみるとマイナスイオンがいっぱいです。ここでは、蒸し暑さも忘れ本当に気持ちがいいですね。

滝を見ていると「キティさん」とお会いしました。確か、昨年もここでお会いしたと記憶しています。これで3回目かな??

  

  

今年からコースが変わり、帰りも来た道を歩きます。豆腐屋さんの近くで、前方から手を振る方がいらっしゃいました。下関のはなまりんさんご夫妻です。

はなまりんさんご夫妻には、昨年も一昨年もここでお会いしました。今年も会うのではないかと予感していましたが、まさにぴったしかんかんです。

コースが変わっていなかったら会えなかったでしょうね。これもSNSの絆でしょうか????(笑)

帰りのコースは、浜白橋から厳木(きゅうらぎ)川沿いの出逢いの水辺を歩きます。

この看板は、近くの幼稚園児、保育園児のちびっこが書いた絵がプリントされています。

  

11時相知駅にゴール。相知駅には、村田英雄(1929~2002)さんの記念碑が設置されていました。

記念碑には、「相知町佐里の出身。昭和時代の歌手として全国に名声をあげ、NHK紅白歌合戦に27回出場、映画に30本出演しました。

村田英雄を偲び此処に記念碑を建立する。平成28年1月吉日」

レコード盤の形をしたモニュメントには、皆の衆、王将、花と竜、無法松の一生、夫婦春秋、人生劇場など村田英雄さんのヒット曲が掲げられていました。

 

 

 

 

 

 


JR九州ウオーキング「木屋瀬宿と吉祥寺藤まつり」

2016-04-30 15:47:30 | JR九州ウオーキング

4月29日、ゴールデンウイーク最初の日、JR九州ウオーキング、長崎街道「木屋瀬(こやのせ)宿と吉祥寺藤まつり」のコースに参加しました。

JR黒崎駅から筑豊電鉄に乗って「木屋瀬駅」へ。私、この筑豊電鉄(略筑電)に乗るのは、2度目です。

筑電は、八幡西区黒崎から直方市の筑豊直方までの16kmを35分かけて走ります。

北九州から直方を経て福岡を結ぶ鉄道を計画していましたが、直方までの開業に留まりました。かつては西鉄大牟田線(現・天神大牟田線)とつなげる構想もあり、

その後も飯塚市までの延長が審議されたこともありましたが、双方共に実現には至りませんでした。

この日は、JRウオーキング参加者で満員状態です。

  

約30分で「木屋瀬駅」に到着。

私、5年前、長崎街道を長崎・出島から北九州・門司まで歩きました。この木屋瀬には、2012年1月3日に歩いています。

その時のブログを見てみますと、

木屋瀬(こやのせ)宿」に到着しました。
江戸時代筑前黒田藩は、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の6宿を開設しました。この6宿を総して「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼んでいます。

木屋瀬宿は唐津街道「赤間宿」と遠賀川を通じ結ばれていました。また、川を利用して水運も発達していました。
宿場は東構口から西構口まで約1.1キロメートルの街道で、裏通りのない一本道は本陣付近で「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に建てられていました。

これは、「矢止め」と呼ばれ、敵が攻めてきたときにそのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするために配慮されたものと言われています。

宿街道のほぼ中間には、代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所などの施設と共に14、5軒の旅籠がありました。

木屋瀬宿には「船庄屋」「村庄屋」「宿庄屋」がありました。「船庄屋」(松尾家)は、村全体を統括した。屋号を灰屋と称し、問屋役、人馬支配役、村庄屋役などを務めました。
「船庄屋」(梅本家) 年貢米の集積場である本場(米場)が置かれ、その輸送は権利を持った24艘の川ひらた(川舟)に限られていました。この24艘の管理を行っていたのが
船庄屋です。「宿庄屋」は、旅籠など宿内を統括していました。

先ず、「木屋瀬宿記念館」へ。ここが藩のお茶屋跡(本陣跡)。※お茶屋は藩主の別邸

記念館には、「みちの郷土資料館」「ふれあい宿」「収蔵庫」などに分かれ江戸時代から明治、大正、昭和の街道の歴史が見ることができます。

4年前は、お正月だったので記念館はお休みでした。ここを見ておればまた違った街道の歩き方が味わえたかもしれません。

館内は、撮影禁止ですが、体験コーナーのみ撮影がOKでした。

  

  

  

記念館を出て木屋瀬の町中を歩きます。鏝絵の旧家、虫籠(むしこ)窓の旧家・・・・・・・なかなかいい風情です。

現在、東海道を京都から江戸・日本橋に向かって歩いていますが、宿場町には、町家に「虫籠窓」があります。

江戸時代には本格的な二階を持つ商家や民家は、“町人が武士を見下ろさず。”の禁制から建築されず、高さを抑えた中二階(厨子二階)

として主には物置き部屋として利用されていました。 通風と明かりとりのために設けられた虫籠 (むしこ)窓の形状は建築時期によって異なる為、

建築様式の変遷を知る目印として大変興味深いものです。江戸期中期は、丸、江戸後期は、横長の丸、明治からは、長方形になっています。(富田林・寺内の探索HPより引用)

   

   

永源寺の所に木屋瀬宿の本陣門があるということで行ってきました。瓦には、黒田家の家紋「巴藤」が入っています。

  

  

木屋瀬宿を過ぎると山陽新幹線と並行して歩きます。高架の下には、ツツジが満開です。また、九州では、珍しい「赤詰草」が咲いていました。

昨年札幌を歩いた時、豊平川にたくさんの赤詰草が咲いていたことを思い出します。

  

広旗八幡宮です。境内には、藤棚がありましたが、ちょっと盛りを過ぎているようでした。

   

荒川沿いに歩いて藤まつり会場の吉祥寺を目指します。途中聖福寺の藤も見て行きます。

藤棚の下では、老人会の人でしょうか、藤の花見が行われていました。この藤も盛りを過ぎているようです。

  

  

吉祥寺公園です。27日から吉祥寺藤まつりがおこなわれており、公園内は、沢山の人です。

  

公園には、なんじゃもんじゃ(ひとつばたこ)の白い花が満開です。何か、雪を被っているように見えます。

  

大藤棚

 

  

  

紫の藤は、盛りを過ぎていましたが、白藤は、今が一番の見ごろでした。白藤もいいですね。

   

  

ゴールは、筑電香月駅です。永犬丸(えいのまる)で途中下車し、銀河のチャンポン店へ。

この店も4年前、長崎街道を歩いた時に立ち寄りました。

  

  

銀河チャンポンは、チャンポンの上に唐揚げが2個のっています。味も濃厚で美味しいです。

銀河チャンポンから永犬丸駅まで歩き、黒崎行の電車に乗りましたが、電車内は、ウオーキング帰りの人で大混雑でした。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


吉井町のおひなさま巡り(福岡県うきは市)

2016-02-15 18:39:50 | JR九州ウオーキング

2/11は、JR九州ウオーキングで「筑後吉井のおひなさまめぐりウオーキング」に参加しました。

8時25分に筑後吉井駅に到着。到着して受付を探しますが、受付がない????駅の方に聞いてみると9時半からの受付とのこと。

どうしようかと迷いましたが、このコースもう何回も歩いていますので大体のコースは知っていますのでマップなしにスタート。

  

江戸時代、有馬藩の城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えたうきは市吉井町(筑後吉井)。筑後川に堰を築き、水を引き込み、

豊かな農産物が育ち、酒造業、製麺業、精鑞などの産業が生まれ財をなします。今ある白壁土蔵の家々は、その富の象徴でもあり、明治初期までに、

三度もの大火を経験から、防火対策の意味も含め建てられたものです。その多くが白壁通りと国道210号線に残ります。(観光パンフより)

 

歩いていると「はやしらいす」という文字が目に飛び込みました。てっきり「ハヤシライス」かな?と思いましたが、ここは、林さんという「米屋」さんです。

  

先ず初めに吉井町の観光案内所にある「土蔵」に入りました。

   

今日は、おひなさまめぐりの初日、10時からここで開会式が行われるそうです。その準備の為係りの人は慌ただしく準備をされていましたが、私達を快く迎え入れ丁寧な説明もしていただきました。

 

  

雛飾りを見ていると、お内裏様の位置が左であったり、右であったりします。

これは、京雛は、向かって右が「お内裏様」、関東雛は、向かって左が「お内裏様」です。現在の雛飾りは、ほとんど関東雛ですね。

これは、大正天皇がかかわっているそうです。

明治時代、西洋の流れを受けて国際儀礼である「右が上位」の考え方が取り入れられるようになりました。

大正天皇が即位の礼で、洋装の天皇陛下が西洋のスタイルで皇后陛下の右に立たれた事からこの風習が広まったとされています。

明治天皇の時代から皇居は東京に移っておりましたから関東を中心にこのご即位時のスタイルが定番となっていきました

  

おきあげ(起き揚げ)」とは、おひなさま、歌舞伎や浮世絵を題材に各家々の女性が手作りで羽子板の押絵と同じように下絵を描いて、厚紙に写し絵を乗せて着物の端切れなどの布地でくるみ、

貼り合わせ、その中に細く削った竹を取り付け藁や畳のへりに挿して飾る雛です。主に箱雛の廻りに彩ります。

次に行ったのが、「鏡田屋敷」。

  

幕末から明治時代初期に郡役所の官舎として建てられ、うきは市の指定文化財「鏡田屋敷(かがみだやしき)」。

明治後期に郵便局長を務めた佐藤氏が居住し、その後、昭和初期に籠田氏が居住されました。平成3年の台風被害により取り壊されることになっていましたが、
所有者の籠田氏により市に寄付され、修復されたのが現在の鏡田屋敷です。
この建物の正面部分は、1863年(文久3年)に建てられ、その後明治26年(1893年)に背面の座敷や2階の増築が行われました。明治期の吉井らしい豪華な造りとなっています。
(うきは市指定文化財)

ここにもたくさんの雛飾りが展示されていました。JRウオーキングのパンフには載ってないため、雛飾りを見学に来る人がいなく、係りの方がつきっきりで約1時間ぐらい説明してくれました。

係りの方から、三人官女のうち、結婚されているのは誰かという質問をされました。今でしたら指輪をみればわかるのですが・・・・・・・

わからないので聞いてみると、眉を剃って、お歯黒な方が既婚者だそうです。

  

  

  

北東隅の土蔵との間は、庭園となっていて、母屋の東側から南側にかけて水路を引き込んだ池を持つ庭園が広がっています。

庭園の中には、面白い樹がありました。これは、「博打の木」といって、 樹皮ははがれやすく、はがれた跡が赤っぽくなることから、バクチに負けて赤裸になる様にたとえられました。

鏡田屋敷で1時間ぐらい費やしましたので屋敷を出るともうたくさんのウオーカーの方が歩かれています。

長野水神社」では、白玉ぜんざいのお接待を受けました。

  

長野水神社は、江戸時代、寛文3年の大干ばつを機に、山下助左衛門をはじめ五人の庄屋が筑後川が流れる大石地区に堰を造り、 掘割を掘って水を引く開削工事を久留米藩に申し出たが、

筑後川を利用した用水路開削工事は難事業であるため、 藩からの許可はなかなか下らなかった。五人の庄屋は失敗したら処刑になる覚悟で請願書を提出し、 この難工事に着手して寛文4年3月完成に至った。

この五人の庄屋偉業を祀ったのが「長野水神社」です。

  

ゴールは、うきは駅前の「マルシェ会場」です。その前に地元の酒造会社「いそのさわ」の蔵開きが行われていました。100円を払えば、試飲ができるのですが、この日私は車で来ていましたので

雰囲気だけを味わいました。

  

このあと、凧のコンテストが行われている「道の駅うきは」に向かいました。

 

 

 

 

 

 

 


玉東町・西南戦争の遺跡を訪ねて(熊本県玉名郡玉東町)

2015-12-07 15:17:27 | JR九州ウオーキング

11/29は、JR九州秋編最終日の「木葉(このは)駅 西南戦争遺跡を訪ねて」のウオーキングに参加しました。

膝の回復具合を見るため、前日は、九年庵コース14kmに参加しましたが、膝もそんなに痛くならなかったので、2日続けての参加です。

    

駅前では、玉東(ぎょくとう)勝手に応援隊の方が西南の役の頃の衣装で出迎えてくれました。

  

 西南戦争は、教科書でも習いましたが、1877年(明治10年)熊本、宮崎、大分、鹿児島において西郷隆盛を盟主として起こった8カ月の及ぶ士族による武力反乱です。

詳細を書くと長くなりますので、年表を添付します。(玉東町HPより)

 

 

「高月官軍墓地」

高月官軍墓地は、西南戦争で戦死した、官軍の軍人・軍夫・警察官の人たちを埋葬した地です。熊本県内には21箇所もあるそうで、そのうちの1つです。

この高月官軍墓地には、埋葬者980人、墓碑数970基(10基は亡失したそうです)と、多くの人たちが埋葬されています。埋葬者の大半が、西南戦争の最大の激戦地であった、

田原坂・吉次峠・二俣・横平山で戦死した、東京・名古屋・大阪・広島・熊本鎮台所属の人々であり、熊本出身の人は少数だそうです。

  

「正念寺」

正念寺は、明治時代にヨーロッパにおける赤十字活動に深く感銘を受けて帰国した佐野常民(さのつねたみ)が、明治10年(1877年)に起きた西南戦争の負傷者を救護するため博愛社正念寺に創立し、

敵味方なく負傷者の救護にあたりました。博愛社は、明治20年、日本赤十字社と改称されました。正念寺の山門には、西南戦争の弾痕の跡が今でも残っています。

 

  

「上木葉官軍本営跡」

ここには、かつて上木葉村の資産家「高田源七」の屋敷があり、明治10年、西南戦争では、官軍の軍団本営が置かれました。本営では、戦況に応じて設置され、この地には、

3月6日から田原坂陥落の3月20日までの最も戦闘が激しい期間におかれました。当時は、参事「山縣有朋」がここで作戦指令を行い、野津、三好、大山の各旅団長や

参事、副官等が幾度となく集まり、軍議が開かれたと言われています。今は、古井戸だけが当時の姿をとどめています。(案内板より)

 

  

歩いていると、懐かしい街灯がありました。昔は、こんな街灯でしたね。

また、色は、違いますが、皇帝ダリアとそっくりな花が咲いています。これは、「皇帝ひまわり」というそうです。茎も皇帝ダリアとまったく一緒です。初めて見ました。

  

「有栖川宮督戦地」

有栖川宮親王は、政府軍のトップ(征討総督)であり、政府軍の後方を戦況にあわせて移動され、指揮をとられました。

この地は、西南戦争で激戦地となった一帯を見渡すことができます。

  

有栖川宮督戦地からの眺め。遠くに田原坂が見ることができます。

「徳成寺」

西南戦争の時に、徳成寺は政府軍の大繃帯所(兵士の治療を行う所)として利用されていました。近くを流れる川は、兵士の食料を仕込む米とぎの白と、兵士の治療に使った包帯を洗った

赤で染まったという言い伝えが残っています。

  

「宇蘇浦官軍墓地」

西南戦争における最大の激戦地であった、田原坂、横平山攻防戦、木葉の戦いにおいて戦場の露と消えた官軍将校25名、下士247名、兵卒249名、郡夫13名、及び

抜刀隊で活躍した東京警視局巡査64名が葬られています。墓石には、土佐出身で木葉で亡くなった吉松秀枝少佐や兵士の鏡と言われた谷村計介伍長の名も見えます。

 

  

 谷村計介(たにむらけいすけ)は西南戦争で籠城中に鎮台(ちんだい)司令官谷干城(たにたてき)の命を受け、城を抜け出し何度も敵に捕まりながらも逃げ出し、

官軍本隊に籠城軍の窮状を伝えた宮崎県出身の陸軍伍長で、後に自ら進んで田原坂戦に加わり戦死しました。

この話は戦前の修身の教科書に載り、広く国民に親しまれました。戦前は今の行幸橋(みゆきばし)際に銅像がありましたが、大戦中に金属供出で撤去されてしまいました。

現在の銅像はそれを惜しんだ熊本中央ライオンズクラブから、平成10年に熊本市に寄贈されたものです。現在は天守閣の入口で皆様をお待ちしています。(熊本城HPより)

兵士の鏡と言われた谷村伍長の墓石は、削られたりしましたので今では、墓石の廻りを鉄で囲われています。

「宇都宮神社」

西南戦争には、関係ないですが、言い伝えによると養老7年(723)、藤原氏の氏神であり、祖神である大和国春日神社の祭神天津児屋根命と武甕槌命とを勧請して

木葉に春日大明神宮が創建されたといわれています。

御祭神:天津児屋根命、武甕槌命、宇都宮隆房公、宇都宮朝房公

宇都宮神社となったのは、源頼朝の命により藤原氏の血統を引く宇都宮信房は、下野国宇都宮から九州へ下り、豊前国を治めることとなった。このころから木葉も宇都宮氏の

支配する所となる。そして木葉の春日大明神は、宇都宮一族から氏神、祖神として崇められた。

信房から数えて十六代の宇都宮鎮房及びその子朝房は、秀吉の命に逆らった。秀吉は、黒田長政、加藤清正に宇都宮父子を討つことを命じた。長政は、中津城にて鎮房を殺害。

時に天正17年(1589年)4月22日、長政の父孝高(官兵衛)と共に、肥後検地に出かけた朝房は、翌23日加藤清正に討たれた。

朝房の亡霊の祟りに悩まされた清正は、慶長元年(1596年)八月、木葉の宇都宮神社に朝房の霊を祀った。(神社案内板より抜粋)

この神社の境内には、高さ30m、幹周り5,8mの大楠があります。

  

  

「木葉猿」

木葉の地に古くから伝わる素焼きの猿の玩具です。その始まりについてはっきりしたことはわかっていませんが、次のような伝説が伝えられています。

「今から1300年くらい前、4人の落人(おちうど)が京の都から木葉に移り住んでいました。ある正月、この4人は、夢枕に立った老人のお告げにより、奈良の春日大明神を祭りました。

そして木葉山の赤土で祭器(お祭りの時に使う器)をつくりました。その余った土を捨てたところ、猿の形となり、どこかへとび去りました。4人が不思議なことがあるものだと思っていると、

身長が3m、鼻が高く赤い顔の巨人が現れ『木葉の土で猿をつくれば幸せになれるだろう』と言ってどこかへ姿を消してしまいました。4人は、これは神のお告げと思い、

その後は赤土で祭器といっしょに猿も作り神に供えたところ、災害の時もこの4人の家は無事平安に過ごすことができました。その後、この猿は、悪病・災難からのがれ、

子孫繁栄の守り神として広く愛玩されるようになりました。」

戦国時代には木葉猿の名前は全国に知れ渡っていたようで、当時の有名な茶人千利休が所有していた茶入れの中に猿のようにも見える物があり、「木葉猿茶入れ」と呼ばれていました。

明治の初期は10軒ほどの窯元が木葉猿を作っていたそうです。当時は「木葉焼」と言って瓦や七輪などを焼いていた窯元が副業として木葉猿を焼いていましたが、

生活の変化等で木葉焼自体が次第に消滅していきました。

そのような中、大正時代に作られた「新版全国土俗玩具大番付」では、木葉猿は見事東の横綱に輝いています。

そして、昭和に入ると木葉猿を焼く窯元はついに永田さんの「郷土玩具木葉猿窯元」1軒となってしまいました。(熊本県HPより)

来年の干支は、「猿」です。工房には縁起用の猿の人形がありました。

  

  

このあと、「ふれあいの丘」を通り、木葉駅にゴールしました。

  

木葉駅では、玉東勝手に応援団の方がお見送りをされていました。

近くまで来ましたのでお昼は、道の駅「旭志(きょくし)」に行き、旭志牛のカルビ丼定食を注文しました。

  

この日は、約8kmのウオーキングでしたが、途中膝の痛みも出ましたが、大きな痛みでなく何とか無事ゴールできました。

私の膝痛も良くなりつつあります。今月いっぱいぐらい無理しないで来月の指宿で復活を果たしたいと思っています。