10/11は、JR九州ウオーキングで北九州市八幡西区黒崎へ行ってきました。黒崎は、黒田六端城の一つ「黒崎城」があった所です。
慶長5年(1600)関が原の戦いの功により五十二万石の大名として筑前国に入部した黒田長政(黒田官兵衛の長男)は翌6年から福岡城の築城にとりかかりました。
(福岡という地名は黒田家のゆかりの地岡山備前邑久郡福岡村(現岡山県瀬戸内市長船)からとった)
また同時に国境の守りを固める為、同15年までの間にこの黒崎城をはじめ、若松城、大隈城、鷹取城、小石原城、左右良(まてら)城の六端城を築いた。
左右良城は杷木町にあり、豊後国をにらんでいたが、他の五城は豊前国をにらんでいた。豊前国細川忠興とは不仲だったそうです。
黒崎城主は黒田24騎の一人井上周防之房(ゆきふさ)が入った。(大河ドラマでは、高橋一生さんが演じてます)
然し幕府の一国一城の令により元文元年(1615)わずか十数年で城は破却されました。
黒崎駅隣のショッピングセンターでは、黒田二十四騎が勢ぞろいしています。この中で、黒崎駅長が、なみなみと注がれたお酒を飲みほしています。これから黒田節の演武がされるのかな????
駅前の歩道橋を通り、「春日神社」へ。春日神社には、「絹本著色黒田二十四騎画像」が奉納されています。
福岡藩が、江戸末期御用絵師「尾形洞霄」に命じ、初代黒田長政に仕えた二十四人の重臣の肖像画を描かせ、春日神社に奉納したものです。
これは、長政の死後、かつて黒崎城を預かっていた井上周防之房が春日神社に長政の霊を祀り、黒田大明神として祭礼を行ったという由来によるものです。
黒崎は、長崎街道「黒崎宿」として発展しました。商店街には、「黒崎宿」の看板が立っています。
曲里松並木公園では、「黒崎宿秋のにぎわい祭り」が行われていました。
会場では、「官兵衛鍋」が振る舞われていました。行列に並び、私もいただきました。
曲里松並木では、「黒田二十四騎」に扮された方々が出番を待たれています。
その中に、何か変わった「黒田二十四騎」がいました。脇差もしています。
黒田二十四騎は、ひょっとして、黒田二十四騎+一頭の犬だったのでしょうか
曲里の松並木
江戸後期の狂歌師太田南畝(おおたなんぽ)は「坂を下るに赤土の岸あり。松の並木をゆくゆく坂を上り下りて、また坂を下りゆけば、左に黒崎の内海見ゆ。」と
その紀行文(小春紀行)にこの「曲里の松並木」あたりの描写をしています。
この松並木は当時幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残で、日光の杉並木(日光街道)、安中の杉並木(中山道)、さらに箱根の杉並木(東海道)はその代表的なものです。
昭和20年頃まで黒崎から木屋瀬にかけて街道には多くの松を残していましたが、今はわずかにこの辺りが昔日の長崎街道の面影を留めているのみで、当時の松も残り2本となりました。
なお、史跡の指定範囲は幅20~30メートル、長さ約310メートル、面積約8000平方メートルで、現在旧街道緑地として整備されています。(八幡西区HPより)
曲里松並木を通り、王子町を過ぎると左手に「穴生(あのう)ドーム」があります。ドーム内では、テニスの試合が行われていました。
筑豊電鉄穴生駅を過ぎると、「弘善寺」があります。
浄土宗弘善寺は大永年間(1521~1528)に行蓮社(ギョウレンジャ)念誉上人行明和尚が開山し、黒田二十四騎のひとりでもある黒崎城主の井上周防之房によって再興された、九州の浄土宗を代表する歴史と伝統と伽藍を誇る寺院です。
この寺には、井上之房の夫人(法名 玉泉院殿光誉法月大姉)と之房の娘(法名 覚修院殿享誉涼心妙大姉)が葬られています。
夫人は、播州志方城主櫛原氏の娘で、娘は、黒田長政の従兄弟の黒田修理正基に嫁ぎましたが、若くして死別したため、ここに葬られています。お二人とも元和4年(1618)に亡くなられています。
夫人と娘さんのお墓は、寺の裏側にあります。
尚、井上周防之房の墓は、遠賀郡岡垣町高倉の龍昌寺にあるそうです。
12:43JR黒崎駅にゴールしました。
今日は、朝から中津と黒崎、二つの官兵衛ゆかりの地を訪ねました。