よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く(西広島~瀬野)

2013-07-21 22:39:50 | 山陽道(西国街道)を歩く
7/14 広島駅からJRで昨日のゴール地西広島駅へ。西広島駅8時10分着。
天気は曇りで昨日よりは歩きやすい感じです。
西広島は、広島市西区の中心で昔は「己斐(こい)」と呼ばれていました。
   
太田川の橋の手前に「瀧の観音への道標」があります。ちょっとわかりにくいですが、近所の方に聞いて探し出しました。
安芸高田の方の茶臼山山麓に渓流がありそこに観音様が祀られています。

太田川を渡りしばらく歩くと『天満宮』があります。
   
 
天満宮は、昭和20年8月6日、原子爆弾によって社殿が灰になりましたが宮司・御神霊を天満小学校の防空壕に移し同年9月仮殿を設けて御神霊を奉斎祭祀を続けました。
天満宮の入り口には山陽道の道標。西、己斐、宮島口  東、土橋、平和公園と書かれています。

更に先を歩いていますと右側に『頼山陽煎餅』という看板がありました。
頼山陽は、大阪で生まれ父と共に広島に移りました。頼山陽が広島には煎餅屋さんがないから作ったらどうかということで造られたそうです。
明治44年創業ですので100年以上の歴史を持っています。残念なことに日曜日でしょうかお店は閉まっていました。

本川橋を渡ると平和公園に入っていきます。
平和公園付近は昔中島地区と言って江戸時代から陸海の交通の要衡として栄えていました。明治になると市庁舎、県庁車などが建ち
広島の政治経済の中心でした。
それが68年前の昭和20年8月6日午前8時15分 人類史上初めて投下された原子爆弾がこの地を襲いました。
   
 
     
今度の参議院選挙では憲法改正も争点になっています。戦後68年も経っていますので現状にはそぐわないという感もしますが、やはりこういった悲惨な戦争はもうこりごりです。
改めて「ノー モア ヒロシマ、ナガサキ」と叫びたいです。

元安橋を渡ると『広島市道路元標』が建っています。この辺りに高札所がありました。
  

街道は「本通り」に入ってきました。
この辺りが広島一の繁華街です。 
  

京橋、猿猴橋(えんこうばし)を通ります。
京橋とは京都へ向かう橋ということでその名がつきました。
猿猴橋は昔猿に似たkk河童のような怪物が洪水のたびに人々を川に引きずりこむ猿猴が住んでいる川として名づけられました。
大正15年(1926)完成しました。

 

JRの踏切を渡ると東区に入ってきます。

地名に愛宕がついている『愛宕神社
延宝年間(1673~1681)この一帯にたびたび起こった大火の厄災この災禍を除くため京都愛宕神の分霊をお祀りして
愛宕堂を建設しました。神霊は火産霊神(一名迦具土命)で火の神、火伏の神です。
 

二葉の里に入ってきました。
ここにも街道松がありました。
文禄2年(1593)秀吉が九州名護屋から大阪に帰る途中、広島に立ち寄った際、この道端の左右に並木松を植えさせたという伝説があり
古株3本残っていたのでいつのころともなくこの地を「三本松」と呼ばれるようになったそうです。
 

街道は安芸郡府中を過ぎまた広島市安芸区に入ってきました。
船越では、旧街道ですが道幅が狭い上に車の通行が多く、車の離合もままならない状態です。したがって車が来ると民家に庭先を借り
避難しています。
  

『海田市宿』に入ってきました。


 海田は古来交通の要衝であった.。大化の改新ごろ「乞浦」と称し後に「開田」と呼ばれるようになる。
安元二年(1176)開田荘として文献に登場する。瀬野川の渓口集落であった開田は東に海に面して土地が開かれ
「海田」と呼ばれるようになった。
海田は古くから交通の要所であり西条四日市、廿日市と並んで「市」が開かれ海田市と呼ばれ今日の安芸郡の
政治経済の中心として発展した。
江戸幕府三代将軍家光は五街道と脇街道を設置した。五街道は江戸を起点とした重要街道で山陽道は脇街道に。
その時海田市は西条四日市と広島城下を結ぶ宿駅人馬継立所となり参勤交代、長崎奉行所代官の往来の拠点となった。
元禄12年(1699)熊野神社両側に本陣、高札場、食事処、旅籠、小売商など宿場町としての体裁が整った。
   
  
 
  
 

 

時間も12時を過ぎお腹も減ってきたので役場近くの食堂で食事タイム。
暑いので冷やし中華と餃子を注文。これが結構おいしい。

しばらく休養の後再び出発。
海田にも街道松がありましたが今はもう枯れてありませんでした。
 
海田市の町はずれに「海田ふるさと館」がありました。
このふるさと館の後ろには竪穴住居があります。
海田には竪穴住居ではなく横穴住居が主だったそうです。町には畝観音免古墳、西谷古墳が発掘されているそうです。
 

ちょっと空模様が怪しくなってきました。
雨がポツリポツリと降ってきました。
『出迎えの松』というのがあります。NHK街道てくてく旅で原田早穂さんが歓迎をうけた所です。
 

JR安芸中野駅に着きました。瀬野駅まであと2駅。

ここには蓮華寺登山口の看板が建っています。
 
中野駅界隈は、鏝絵などの旧家が現存しています。
 

 
15時55分瀬野駅ゴール



今日のGPSです。








山陽道(西国街道)を歩く「宮内串戸〜西広島」

2013-07-20 07:02:05 | 山陽道(西国街道)を歩く
7/13から3日間、JR「とくとく広島きっぷ」を使って山陽道(西国街道)を歩きました。

7/13 6:29博多駅発新幹線で一路広島へ。広島7:36着
それから前回ゴール地山陽本線「宮内串戸駅」へ。宮内串戸駅には8:30到着。
今日は、広島市内は非常に暑く、今日の出立は、麦藁帽、サングラス、首にはクールタイをつけています。

宮内串戸駅から30分ぐらい歩くと廿日市市街に入ってきます。
中世以来厳島神社の造営、修理と西中国山地産の木材の集積を基盤とした木材産業の町で廿日市本陣を中心に発展しました。

廿日市宿は、下関から20番目の宿場町です。本陣は寛文期に設けられ中世より鋳物師として活躍した山田家によって代々経営されていましたが、
慶応2年(1866)長州の役で焼失しました。町は最近住宅地として急速に発展しましたがその中でもまだ昔ながらの旧家が残っています。

  
町の商店街を覗くと面白いものがありました。
お盆の飾りでしょうか、私の住んでいる所にはない飾りです。

町の中央には「廿日市天満宮」があります。境内は山の上の方です。まだ歩き出したばかりなので117段の階段を昇っていきます。
廿日市天満宮は、1220年厳島神社の神主として鎌倉幕府に任命され桜尾城に入った藤原親実が1233年に守護神として
鎌倉の天神様を勧請したのが始まりです。頂上には篠尾城跡、淡島神社などがあります。
また、この境内からの眺めは素晴らしくパノラマで撮ってみました。
    


『廿日市の街道松』
西国街道には1里ごとに一里塚松があり道の両側に3間(6m)ごとに街道松が植えられていました。
佐方中橋から桂公園まで文化2年(1819)には68本の松並木があったと記録されていますが、現在廿日市市内ではわずかにこの1本だけとなりました。
  
海老(かいろう)大橋を渡ると広島市佐伯区五日市町に入ります。
先ほどの町が廿日市で今度は五日市、またこの先西条は昔四日市と呼ばれていました。二日市というのもあったような気がします。
広島は「市」がつく町が多いですね。
  
『五日市の街道松』
五日市でも街道松がありました。
  

『五つ神社』
祭神は言代主神、墨江三前大神、宇迦御魂神、火之迦具土神、菅原大神の五柱で「えびすさん」として親しまれています。
伝説では菅原道真が大宰府に流される途中現在の殿山に船を寄せてしばらく休息し、その時持っていた梅の実を自分で植え
その後成長して多くの実を結んだといわれています。
祭神が五つあることから社名となり五日市の出自となったといわれています。
  
『光禅寺誓いの松』
延宝年間(1673~1681)当寺を訪れた備後国殿河内村の住人の石井兄弟は厳島仁王門での仇討ちを光禅寺寺僧の大忍に伝えました。
大忍はそれを意気に感じ自ら手助けして見事に成功させました。当寺の出立の時兄弟は戦勝の誓いを込めて山門前に黒松を植えました。
それが樹齢350年のこの松で後に人たちは功績をたたえて石井兄弟誓いの松と呼びました。

また、この光禅寺の傍らには、原爆慰霊碑があります。
七尾中学校吉野教諭によるデザインは人間が合掌した手を表しています。
  
街道は五日市の町を抜け「井口」に入ってきました。
時間は10時過ぎ今日は太陽の照り返しで非常に暑いです。お茶やポカリスエット、それに冷凍のペットボトルを飲み干しコンビニを見つけると
飲料水を調達します。時にはこんなものも。
 

『餓鬼の首地蔵』
昔、このあたりは一面海だった。ある時船が暴風雨に遭い船頭が亡くなった。その家族が供養のために洞穴を掘りお地蔵さんを祀った。
その場所が餓鬼の首と言われていたので餓鬼の首地蔵と呼ばれ海の安全を願うお地蔵さんだった。
 

『塩釜神社』
塩釜神社は、塩椎神(しおのつちがみ)が祀られている。塩椎神について「古事記」では塩椎神、「日本書紀」では塩土老翁、塩筒老翁と記されている。
「塩」は「潮」のことで潮流を司る神、海路の神、航海の神といわれ海に関した神で海幸彦、山幸彦という兄弟の神の物語にも登場する神である。
瀬戸内海では主として製塩の神として信仰されていた。当神社での創建の時期は定かではないが寛文4年(1664)作成とみられる井口之図には塩釜明神として記載されている。
西国街道の時代、浜で製塩や漁業に従事する人たちが良い塩の出来上がり、航海の安全を、旅人も旅路の安全を祈願崇拝していた。
                                           (ふるさと井口の歴史より)
 

『首なし地蔵』
現在の井口小学校正門近くにあります。案内板によると
その昔、正順寺の裏側を通っていた西国街道の峠からは真下に小己斐明神が見え安芸の小富士(似島)、宮の島(宮島)がくっきりと海に浮かぶ
素晴らしい風景が展望できた。
一里塚傍らの道端に小さな地蔵が安置されていた。伝承によると、ある時そこを通りかかった3人の武士の一人がその地蔵を見て「この地蔵の首を
斬ってみようか」と言ったところ連れの二人が「硬い首が斬れるわけない。地蔵を傷つけたら罰が当たるぞ」と押し止めたが聞こうともせず
首を切り落とした。と同時に斬った武士もバッタリ倒れた。よく見ると折れた刀の先が首先に突き刺さっていた。
それからは誰ともなく首なし地蔵といわれるようになった。
 
このあたりは海岸の埋め立てが進み昔の面影が残っていません。


『井口港跡』
 

旧街道は、JAの横から入っていきます。
  
  
JR新井口駅、広電商工センター前に出てきました。
街道は新井口駅からJRに沿って行くのですが、新井口駅前には大きなショッピングセンターができています。
ちょっと涼を求めて探索することにします。

アイスコーヒーなどで涼をとったあと新井口駅に戻り街道歩きのスタートです。
JR草津の踏切を渡ると「草津」に入ってきます。

   

『西氏公徳碑』
西氏は代々医者で三次藩の侍医でもあった。漢方医、蘭医としての名医であったばかりでなく慈善家でもあり、草津の牡蠣養殖や
牡蠣舟の育ての親とも言われている。また代々書き残された医学書や薬学書は二百余編、七百冊ともいわれ、これら西医学書を
永久に保存しその散逸を防ぎ広く後世医学研究者の資料に供する目的で昭和八年財団法人西医学研究所が設立され保管されている。
 

広電の踏切を渡ると左側に大きな旧家が見えてきます。
これが『小泉酒造』。あまり大きいのでパノラマで撮りました。

  
小泉酒造は天保年間から酒造を始めて、ここで造られた神酒は厳島神社に献上されています。
屋根の上には「煙り出し」があります。大屋根に軒が引っ付いており、また軒が長く低い造りになっています。
正面が入り口になっており正面の左右は格子の大きさが違う格子戸で造られています。
明治18年には明治天皇行幸の時の休憩所に利用されました。
何か記念にと「宮島街道」を買いました。

時間はもうすぐ2時。今日の予定は広島駅までですが、こう暑いと歩く速度が遅くなってしまいます。
熱中症予防のためにこまめに給水をとっていますが、飲むとすぐ汗になってしまいます。

街道を歩いていると「被爆建物」という看板を目にしました。ここは『鷺森神社』。被爆地から4.93kmの地点だそうです。
神社の由緒を見てみると
當社は天徳年間(957-960)に勧請されたと伝えられており、爾来一千年余の歴史を有する御社である。
往古、この一帯は海辺であり、西方から延びる半島(城山)と背面の力箭山(通称行者山)に抱かれた湾内の東端に在り、漁船の船着場として栄え、
海人(うみんど)達は日頃尊敬する市杵島姫命をお祀りする、鷺森神社を建て御祭神が女神なるがゆえに、弁天社と呼称し豊漁と海上の守護を祈願した。
近世、干拓が進むに伴ない内陸の神社となり漁業との関わりはなくなったが、現在は町内鎮守社の一つとして、草津東町を中心に広く篤く崇敬が寄せられている。
                                                         (境内由緒書き)
 

『海蔵寺』
  

『草津八幡宮』
古来、この草津、古江の地は深い入江であって天然の良港をなし、神武天皇、神功皇后の伝説を多く残している。社伝によれば、
推古天皇御宇(五九三-六二八)宮島の厳島神社とほぼ同じくして、この入江の奥に多紀理姫命を海路の守護神として祭ったのが当神社の創祀という。
八幡神の奉斎の時期については、諸説が社伝として残り定かではないが、鎌倉時代に武蔵国渋谷郷(現、東京都渋谷区)から当地に所領を得て来住した
社家始祖(右衛門大夫または右京大夫と伝える)が宇佐八幡宮より勧請し、古くより当地に祀られていた「多紀理の宮」と合祀して八幡宮を創建し、
後に力箭八幡宮と称したと言われる。また一説によると、宇佐八幡宮の社人、宇佐彦が土佐に赴き、七代目の渋谷右衛門大夫という者が当地に来り、
宇佐八幡宮より金交石の御分霊を戴き、これを宇佐来山麓に勧請したとも伝えられる。その後、大永四年(一五二四)するに修造。
なお、往古は当社の崇敬範囲は己斐より廿日市に至る沿岸部一帯に及んでいたという。昭和六年、近郷六箇村の氏子により境内地の造成と共に総ての社殿が再建造営された。
相殿神の宗像三女神の内、市寸島姫命と湍津姫命は明治二十五年厳島神社より御分霊を神馬にお乗せして正式に勧請され、
素盞嗚神、倉稲魂神、金刀比羅神は明治末期神社統廃合の折、合祀されたものである。あお、古くは社殿は海浜の近くにあったと伝えられるが、
再建の度に高所へ遷され、現在では力箭山の中腹に鎮座している(神社HPより)


『幸神社と大銀杏』
  

『慈光寺』
  

街道は「古江」に入ってきました。
ここでも旧家が残っています。
また左側には大きな建物が・・・・・・ここは「上田宗箇流」といって茶道の家元です。芸州浅野家の家老であった上田家に伝わる武家茶道の流派です。
  

時刻は3時を過ぎました。今日は広島駅まで歩く予定でしたが、この暑さのため少々ばて気味です。
地図を見ると1km先に「西広島駅」があります。
今日はそこまでにします。

『別れの茶屋』
広島城下から約1里。見送りの人もここまで送ってきて別れを惜しんだという。


15時20分西広島駅到着。

今日のGPS















山陽道(西国街道)を歩く(玖波~宮内串戸)

2013-06-13 20:23:54 | 山陽道(西国街道)を歩く
山陽道(西国街道)歩き15日目
朝、徳山のホテルを出発し昨日ゴール地JR玖波駅へ。9:30ウオーキング開始。
天気予報は北部九州は雨とのことですが、ここ大竹では午後3時ぐらいから雨との予報。
今日は3時ぐらいまで歩こうと思っています。

玖波駅を出て海岸側に出ると玖波宿に入ります。
玖波宿本陣跡は、JAの向かい側にありました。
玖波宿は、町内を23丁30間(約2,6km)に渡っていました。
寛永12年(1635)に参勤交代制度が確立されると本陣は幕史や大名の宿泊にあてられました。
慶応2年(1866)征長の役では、激戦地となり民家423軒焼失、1688人罹災しました。
そのため防火袖壁(うだつ)を備えた家が多くなりました。
現在の街並みは明治になってからです。
    

この本陣跡の並びには「起こり(むくり)屋根」と呼ばれる屋根の中ほどが盛り上がる形式の旧家があります。
  
玖波宿の街並みです。「うだつ」のある家が見られます。
   

町並みを抜けるとトンネルがあります。ここから海岸線に出てきます。さて、街道は???

近くで草刈り作業されている方に聞くと途中まで案内してくれるということです。
民家と民家の間を抜け(これも街道です)、土手を上ります。
見ると草茫々です。ひょっとして「マムシ?」が出るのでは・・・・一瞬私の脳裏にそれがかすみました。
私がそう思ったのを察知されたのか、野菜支柱用の「イボ竹」をくださいました。
そのイボ竹をたたきながら山道を歩きます。
  
5分ぐらい歩くと山陽本線トンネルの上を歩くようになっています。道幅50cmぐらいでしょうか?
このフェンスからはみ出たら・・・などと余計なことを考えたりします。
  
それから約5分ぐらいで「鳴川の石畳」に出てきました。なんとかこの峠越せたようです。
地元の方には大変お世話になりました。

一旦平地に出て次は「残念社」を目指します。
残念社と何か珍しい社ですが、これは
「慶応2年(1866)7月9日四十八坂を単騎で西に向かって馳せやる幕府軍の武士がいた。
これを見た長州軍は戦闘員だと勘違いをして狙撃してしまった。その武士は「残念」といって倒れた。
この武士は丹後宮津藩士の依田伴蔵で軍使として長州軍営に赴く途中であったことがわかり長州軍は
遺憾の意を表した。残念社は村人が伴蔵の戦死を悼んで祭った。」
    命を奉じて単騎敵営に向かう哀心願う所は只和平
    惜しいかな涙を呑んで中道に斃る幕畔長に留る残念の声

   
地元の方は「残念さん」と呼んでいるそうです。

その残念社の横に「吉田松陰腰掛の石」があります。
   
ここは、三県一望の地と詠んでいますが、現在は木が茂り見えません。

雨がポツリポツリと降ってきましたがまだ傘をさすぐらいではありません。街道は「宮浜温泉」を過ぎました。

この西国街道には、応安4年九州探題に任ぜられた今川貞世(了俊)が下るときに歌を残しています。
「古代山陽道の道」という案内板の所を行ってみると昔の石畳が残されています。
その先には今川貞世の歌碑があります。近くの民家の庭先には珍しいお花がさいていました。「フェイジョア」というそうです。

  浪の上に 藻塩焼くかと 見えつるは あまの小舟に たき火なりけり
  

12:14JR大野浦駅に着きました。
駅の横には一里塚と今川貞世の歌碑があります。
   
   おおのうらを これかととえば やまなしの かたえのもみじ 色に出でつつ

「大野浦」の地名はこの歌からとったそうです。

雨は小雨ですが身体に感じるぐらいになりました。このまま駅から電車に乗って帰ろうか、いや折角来たのだから傘をさしても今日の目的地まで
行こうかと家内と相談しましたが、折角来たのだから行こうという結論に達しました。これからは傘をさしてのウオーキングです。

大野浦駅から1kmぐらい歩いたところに「道標」が建っています。
見てみると「右 宮島・広島  左 宮内 妹背滝道?」

JR山陽本線もここからは海沿いに宮島方向へ、西国街道は山陽自動車道沿いの山側になります。

滝の下の信号を左に入ると前面に大きな鳥居があります。
新幹線、高速のガードを潜ると「大頭(おおがしら)神社」があります。
大頭神社は、厳島神社の攝社として推古天皇の11年(603)に創建されたものです。
平清盛が安芸の守であった当時から毛利・福島・浅野の三家を経て廃藩にいたるまで社領米を付せられていた。
 
ここには「妹背(いもせ)の滝」があります。
雄滝と雌滝の夫婦滝で雄滝は、高さ30m、雌滝は、高さ50mです。
このところ雨が少なく滝量も減っているように見られます。
  
再び滝の下の信号に戻り西教寺の所から新幹線沿いに歩きます。しばらく行くと山手の方に行きます。
  
征長の役の「陣馬跡」、大野で一番古い「高畑溜池」を通ります。

この高畑には貝塚など史跡が多く昔はこの辺りまで海だったのでしょうか?
   

孝子久蔵の碑があります。
久蔵は江戸末期の人で高畑に住み孝子の誉が四隣に高かった。特に父の死後盲の母に仕えては自らの食を減じてその好物を求め常に母を背負うて
寺院に参詣する等 母の喜びを以って己が喜びとした。
寛政5年七月藩主が米三俵を贈り孝子の鑑みとして之を賞した。

この地区には大頭神社縁起書に「大野次郎伝説」があります。
それによると
 推古天皇(593~628)の時代 勅命で太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が大野町に降り、
 田畑を開いて農業を始めました。
 総領の次郎は土井、兄の太郎は鳴川、弟三郎は原、四郎は中山、十郎は鯛の原を夫々開墾したと伝えられています。
 太郎峠、十郎峠という地名が現存しています。

次郎を祀ったお宮が「新宮神社」です。地元では「新宮さん」と呼ばれているそうです。
  

更に先に進むと街道は山手の方に向かいます。
すぐ横を高速道路が通っています。
今までこの街道を歩いて感じたのですが、どうもこの山陽自動車道は旧街道を走っているように思えます。
ここには「三槍社(みやりしゃ)」がありました。
三槍社は、大頭神社の攝社の一つで祭神は葉山祇尊。西北の山麓に三つの谷があり、槍状の谷間から命名されたそうです。
  

一里塚を過ぎ高速の方を見ると大きな建物があります。
何だろうと思うと看板に「海の見える杜美術館」と書いてあります。
  

中山という地区にも今川貞世の歌碑がありました。
  

雨は小雨ですが本降りになってきました。地図を見ると宮内駅まではあと少しです。
廿日市JCTのガードを越え畑口の信号の所に「道標」があります。
この道標は古くて読めませんが、津和野街道分岐点だろうと思います。
 

宮内交番の交差点に「専念寺」があります。昔はここにお茶屋さんがあったそうです。その向かい側には一里塚です。
この一里塚昭和57年に建てられました。
  

15:12JR宮内串戸駅にゴール。


今日のGPSです。次回は広島市内に入ります。




 




























山陽道(西国街道)を歩く(関戸から玖波)

2013-06-12 06:50:51 | 山陽道(西国街道)を歩く
6月8、9日と2日間 山陽道を歩きました。
福岡の自宅を車で5時に出て岩国駅には9時半に着きました。岩国駅に車を置き前回ゴール地の「関戸」までは
バスでいきます。関戸に着いたのは10:15。まず客神社(くろうど)で旅の安全を祈願します。
   
今回より私のDバックには、新しい風車がついています。これから暑くなる時期、扇風機代わりになるのではないでしょうか?

客神社をあとに小瀬峠に向かいます。途中「山陽道」の碑があります。近くの方に尋ねますと途中で行き止まりになっているそうです。
したがってまっすぐ歩きます。この峠長い上り坂で汗だくだくです。
    
頂上付近にも「山陽道」の碑がありました。

下りてくると右側にも「山陽道」の碑があります。本当はこの道でしょうが、そのまま真っ直ぐ行きました。
  
関戸を出発してから約40分、小瀬の町に着きました。小瀬は昭和30年に岩国市と合併し、街道沿いに合併記念碑が建っています。
この記念碑の先が小瀬川です。ここに「吉田松陰の歌碑」が建っています。

      夢路にもかへらぬ関を  打ち越えて今をかぎりと 渡る小瀬川
安政の大獄で幕府の召喚をうけ籠で護送されながら小瀬川に差し掛かり防長二州と最後の別れをされるときに詠まれたものです。
安政6年5月28日です。それから1か月後江戸に着き幕府の調べを受けられましたが国を思う姿勢が幕府には通ぜず同年10月27日
江戸伝馬町の獄舎で処刑されました。30歳の若さでした。
この書を書いたのが安部首相の祖父の「岸 信介」元総理です。

両国橋に差し掛かりました。この橋の真ん中が県境です。
  
広島県に入ってきました。昨年12月8日下関を出発し、14日目で達成しました。
然し、兵庫西宮まではまだ400km余り・・・・・・・先は長いです。

街道は広島県大竹市木野(この)に入ります。
小瀬川は木野側では木野川と呼ばれています。地図表記は「小瀬川」。また山陽道も広島側では西国街道になります。
両国橋を渡り右の方に行くと「木野の渡し」があります。
    
渡し賃は、武士が無料、一般の人は米1合でした。
小瀬川では洪水が起こるたびに川の流れを変えていました。このため安芸では洪水から村を守るため「福島堤防」と呼ばれる「まき石護岸」や
その上流に「小林三角和久(こばやしさんかくわく)」と呼ばれる三角形の石組みの堤防を築きました。
これらの堤防は何百年もの間洪水に耐えながら今もその役割を果たしています。
  

木野の町は宿場町ではありませんが、小瀬川が雨などで渡れなく足止めされされたようです。
そのために仮の宿場になっていました。
  

更に小瀬川沿いの西国道を歩きます。


途中「長州戦跡 苦の坂」入り口の案内板があります。
  
案内板によると

ここは、西国街道苦の坂です。木野側に4町9間(453m)の急坂を持つこの天剣は古くから大河原山・立戸山とともに、防長に対する戦陣の敵地として注目されました。
芸防の国境がにわかに戦雲につつまれ、二分された国論を背景に、幕府軍と長州軍が、小瀬川を挟んで合戦の布陣を終わったのは、慶応2年(1866年)の6月13日でした。

幕府方は、正面軍として、彦根藩と高田藩の一手を大竹口へ、側面軍として、高田藩の主力を立戸山から苦の坂に進めました。
これに対して、長州軍は、本藩(萩)の一手と岩国藩の主力を幕府正面軍に配置し、本藩の有力な遊撃軍を要所に配備して機会を待ちました。
翌14日の明け方、幕府軍正面軍の先攻により合戦のひぶたが切られました。長州軍は直ちに烈しい砲火と銃撃をもってこれに応じました。

遊撃軍も未明に行動を起こし、まず住民の立ち退いた中津原に進入し、ここで部隊を二手に分けて、一手は、幕府軍正面軍の側面に向かい、
もう一手は、小瀬村小原道を進んだ他の一体と共同して、幕府軍側面軍の主力に攻撃をかけました。

この苦の坂をめぐる両軍の攻防は、烈しい白兵戦でした。ついに勝敗は決し、勝を制した長州遊撃軍は更に立戸山に進出して、幕府正面軍の背後を抑えました。
この為、このときすでに敗退しつつあった幕府正面軍も退路をたたれて総崩れとなり、逃げ送れた多くの兵士を残して船で逃走しました。

この旧街道を歩いて行こうと思いましたが、何年か前まで頂上付近で通行止めになっているそうで(現在は知りません)もし通行できなかったら、ということと
現在、入り口には1mぐらいの草が茂っており危険看板には「マムシ、ハチ注意」となっており安全面を考えトンネルの方を行くことにしました。

長州戦跡の碑の先には「滕池(ちきりいけ)神社」があります。
  
言い伝えによると推古天皇(600年ごろ)厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸に移るとき2歳の嬰児を連れてこの坂に差し掛かった。
あまりにも急坂で「えらや苦しやこの坂は金の滕も要らぬものを」と呟かれ持っていた滕を投げられたら麓の池に飛んで行った。
その場所に今の神社を建てた。そうして坂の名前も苦の坂といわれるようになった。
※滕とは何か辞書で調べると  織機の部分品。経糸を巻く中央がくびれた棒状のもの。となっています。

滕池神社を過ぎると国道186号線の油見トンネルになります。隣は高速道御園トンネルです。西国道はこのトンネルの上を通るようになっていますが
途中通れるかどうかわかりませんので油見トンネルを通ることにします。
  
総延長1120mのトンネルを渡り大竹駅を経由して高速道路付近にある西国道に向かいます。

山陽自動車道の横に「橋姫神社」があります。よく気をつけてみないとわかりませんがこの神社は
旧西国街道一の坪馬ころ橋の下に鎮座の姫神様は昔からセキ、ゼンソクまた交通の守護神として広く尊崇されていた。
山陽自動車道建設にあたりこの地に遷座されたそうです。
  

旧小方町に入ってきました。
町の入り口に芭蕉の「けごろもの歌碑」が建っています。※「けごろも」と変換しようとしましたがこの字がありませんでした。
         けごろもに 包みてぬくし 鴨の足
  
「けごろも」とは毛皮でつくった防寒着だそうです。

小方町を歩いていると旧家が残されています。
ウダツのある家、白壁の蔵・・・・・・こんな風景を見るとうれしくなってきます。
    
玄関先にはきれいなお花が咲いています。
もう時の記念日ですね。トケイソウも咲いています。この花は面白い形をしていますね。なんという名前だろう?
    
山陽本線の歩道橋を渡りそこから急な坂道を上ると「亀居城址」があります。

 慶長5年(1600年)、関が原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は領国八カ国のうち防長二カ国を与えられ、その本城広島を去り、
東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備二カ国を与えられて、そのあとに入りました。広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、
小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。このとき小方の城将には甥の福島伯耆(一万石)を配備して、
慶長8年(1603年)から築城をはじめました。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。
五年の歳月を経た慶長13年(1608年)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島伯耆は完成の前年他界したので、
これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました
なお、この城が亀居城と称されたのは城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。
かくして亀居城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃、正則に対する幕府の圧力は非常にきびしく、
完成間もない慶長十六年(1611年)、この城は取り壊される運命となりました。(案内板より)
    
ここは大竹市の桜の名所になっており桜の季節には約700本の桜が咲くそうです。

今日のゴール地「JR玖波駅」には15:04に到着しました。駅に着くとすぐ岩国行の電車がありそれに乗って岩国へ。
それから約1時間かけ宿泊地徳山に戻りました。明日は宮内ぐらいまで歩こうと思います。



本日のGPSです。

































山陽道(西国街道)を歩く(錦帯橋~関戸)

2013-04-01 19:01:17 | 山陽道(西国街道)を歩く
3月30日旧山陽道(錦帯橋~関戸)まで歩きました。錦帯橋の桜が満開になったそうで今回はこの桜を見て街道歩きをしたいと思います。
博多駅朝一番(6:00)の新幹線で徳山へ。それから岩徳線で川西駅下車。川西駅には8:10ごろ着きました。
青春18きっぷを使うと5時間以上かかりますが、さすが新幹線速いし乗り心地も満点でした。
錦帯橋の満開の桜を満喫した後、旧山陽道へ戻ります。
  
※錦帯橋の桜は、デジブックにて公開中です。こちらです。
http://www.digibook.net/d/8dc4a7ffa0598ac5b283d5366ab25a18/?viewerMode=fullWindow


川西では、作家宇野千代さんの菩提寺と生家を見ました。
子供のころはここから高森の方まで行かれたそうですが、結構な距離がありますね。
    
川西トンネルを通りますとまた柱野トンネルです。思案橋がもうそろそろありそうなんですが、それらしきものが
見当たりません。
   
そこでこの道で合っているかどうか、近くの方に聞きますと最初のトンネルを過ぎた所から右折しなければ
行けなかったそうですので、すぐ引き返します。

錦川鉄道 錦川清流線のガードを何回かくぐりやっと思案橋に着きました。思案橋を渡ると旧山陽道です。
思案橋は昔街道を歩いていた旅人が錦帯橋を見に行こうかこのまま山陽道を歩こうかと思案したからその名がついたそうです。
  
 
錦川鉄道は、国鉄時代の「岩日線(岩国~日原)」を引き継ぎ第三セクターで運営されています。

歩いていると中学の校庭や道路並木の満開の桜が迎えてくれます。

街道はここから新幹線のガードをくぐり、錦川鉄道新岩国駅の方へ出ます。
ここからの場所が桜の撮影スポットだそうです。時計を見ると2時10分。あと20分で列車が来るそうですのでちょっと待つことにしました。


新幹線新岩国駅を過ぎ御庄(みしょう)の町を歩きます。

この辺りは新幹線ができたためでしょうか、昔の街並みはもうなくなっているみたいです。
  
御庄の本陣跡を探します。たしか教蓮寺の近くだと思いますがわかりませんので近くで家庭菜園されている方に聞くと教えていただきました。
ここが本陣跡です。

新幹線沿いに歩くと錦川に出てきます。昔はここが「御庄の渡し」があった所です。

錦川を渡ると国道2号線と合流します。岩国IC入口です。
左山手には、本庄八幡宮が。八幡宮の横には古い蔵があります。ここが「紙蔵跡」だそうです。
  
   

多田の中心部に来ました。道路の右側に「多田の一里塚」があります。
そして旧山陽道は郵便局の向こう側の鳥居の方に行くよう矢印が付いています。
  
見てみると道はありません。どうやって行くのだろう?としばし立ち止まりますがわからないので大きな道を歩きます。
あとで調べてみるとフェンスの隙間から入りロープを使って行くそうです。
  
関戸の町に入りました。旧街道は関戸の信号を左折します。
 
しばらく歩くと「関戸本陣跡」「吉田松陰東遊記念碑」が立っています。
    
  

ここから小瀬峠を越えれば広島県との県境になりますが、時計を見ると4時半になっています。
今日はここまでとし、バスで岩国駅に向かいました。
岩国駅からは青春18きっぷを利用しました。岩国発17:45~博多着22:45  5時間かかって帰りました。

今日のGPSです。
道を間違えてばかりいました。











山陽道(西国街道)を歩く(周防高森~柱野)

2013-03-23 18:52:46 | 山陽道(西国街道)を歩く
3/20  旧山陽道12日目(周防高森~柱野)

山陽道もここまで来ると来る時間も博多から約5時間かかってしまいます。
今日も6:00に博多駅を出て前回ゴール地の周防高森駅に10時40分に着きました。
おまけに朝から小雨模様。傘をさしてのウオーキングです。

高森の駅前の信号を左折します。
すぐ目につくのが「宇野千代文学碑
  
「おはん」「生きていく私」などの小説を書かれた宇野千代さんは、岩国・川西で生まれましたが、お父さんの実家がここ高森だったそうです。
文学碑には下記のことが書かれていました。
 私の生ま故郷は周防の岩国である。父の俊二は岩国から4里ほど奥の高森という町の造り酒屋から分家して岩国へ出た。
 私は子供のころからうちの本家は高森にあるということを知っていた。
 その高森までの4里の道を歩いたり、人力車に乗ったり、また馬の背に乗ったりして本家に行ったからである。
 時には一年もの間そこで暮らしたこともある。本家は分家の私の家とは較べものにならないほどの分権者であった。
 この地方随一の多額納税者であった。私の家は貧乏だったけどその分権者の分家であるというので
 町の人からなんとなく特別な家と思われていた。よその家のむすめであったら「千代さん」と呼ばれるのに
 「千代さま」と呼ばれていた。  (以下
略)

文学碑の横には淡墨桜(薄墨桜)が満開でした。

高森宿の本陣は文学碑のすぐ横にありました。
高森本陣は相川家が務め別名相川本陣と呼ばれていました。
また、第二次長州戦争の幕府と長州の休戦協定になった所です。
隣にはなまこ塀の家があります。元酒屋さんだったそうです。
   
椙杜(すぎのもり)八幡宮

椙杜氏は大江広元同様朝臣であったが、鎌倉幕府に仕えて問注所初代執事となった三善康信を祖とする。
鎌倉時代中期、三善康連は下野国太田庄を領して太田氏を称した。建武の新政の後、太田時直は足利尊氏に従って活動し、
祖父の太田貞連から玖珂郡椙杜郷の地頭職を譲られた。
時直の孫・太田正康は南北朝時代に南朝勢力の強い九州を平定すべく、筑後国に所領を得て、西国に下り、
その後周防国椙杜郷に移り、椙杜を名字として、大内氏の被官となった。(ウィキペディアより)
故郷鎌倉より鶴岡八幡宮を分身し祀りました。


旧街道は国道2号線と合流します。
このあたりはホームセンターなどの大型ショッピングセンターが立ち並んでいます。
雨も小雨から幾分強くなってきました。折り畳み傘では間に合わなくなり、ドラッグストアで大きめの傘を買いました。

しばらく岩徳線、2号線沿いに歩きますが、須佐神社の先で右折します。(県道144号)
間もなく「玖珂市」に入っていきます。左側には菅原道真を祀った「菅原神社」があります。
  
玖珂市の旧家には、網代みたいな妻壁の家が多く見られます。
  
水無川を渡ると玖珂町の中心部にやってきます。
   
右側を見てみますと近代的な建物が目につきます。
これは「Kid Museum」といって玖珂子供の館です。

岩国市役所玖珂支所の所には代官所、小学校の所にはお茶屋がありました。
   
旅館もあります。昔は旅籠だったのでしょうか?
 
玖珂駅を過ぎると道が二手に分かれておりこれを左に向かうと、「義民 田坂市良右衛門 碑」があります。
それによると
 田坂家は代々町方大年寄格を世襲していた。安政年間(1854~1859)玖珂は岩国吉川藩領の代官所として玖珂など七ヶ村を統括していた。
 代官は政治、産業、租税、刑罰を掌って強大な権勢を有し村民に重税を課し度を超えた贅沢にふけり、七ヶ村民の怨みの声は巷に
 満ちていた。
 市良右衛門は村民のこの窮状を排しなくては丈夫でないと決意して代官に面接して悪政を改めるように進言説得した。
 代官は大いに怒り彼は役人の悪口を言う者として法の力で岩国山の北獄に265日間幽門し、柱島へ流して田坂家を
 没収するといわんばかりであった。
 村民有志の訴えによって官は市良右衛門の無実の罪を知り刑を軽くして釈放した。
 その後市良右衛門は年寄格に復し刀根取(庄屋の助役)に任ぜられ税を軽くして積年の弊害を取り除いた。
  と書いてます。
  
更に岩徳線沿いに進みます。道のそばには菜の花が満開です。
 
欽明路駅を過ぎると左側に面白い建物が見えてきます。
これは東部コミュニュティセンターで旧玖珂小学校です。
   
先には「学制頒布50年記念」という碑が建てられていました。建てられたのが大正11年というから明治5年の学制改革から50年ということでしょうか?
この旧小学校と何か関係がありそうですね。

周防源氏武田氏屋敷及墓所
   
 戦国時代の天文9年(1540)11月安芸源氏の武田小三郎公は、毛利元就公の援助により欽明路に移り、周防源氏の祖となり刑部少輔を称しました。
 その後織田、豊臣時代を経て徳川時代に至り代々功績をあげましたが、文政元年(1818)12世武田宗左衛門公は文武両道の稽古屋敷をこの地に
 設けました。この稽古屋敷は明治時代の中野口小学校の前身になりました。
 その後も武田氏は郷土の育英事業に尽力し、明治、大正時代に玖珂実業補修女学校、大正学校の設置、16世武田甲斐人氏(1894~1976)は
 玖珂町英正学校理事として中等教育の向上に努めてきました。
 大正6年(1917)武田氏は広島呉市に移転して大正中学を設置しその後も呉港学園として現在に至っています。
 屋敷内には歴代の墓を始め井戸、稽古屋敷跡の碑があり屋敷跡の前面には門と白壁の築地があります。/
>
その先には欽明路の名の元になった欽明寺があります。今日はお彼岸の中日でお参りに来られる人もいました。
欽明寺は、欽明天皇(540~571)が御幸の際、ここに休息され欽明の名をいただいて寺号にしたと伝えられています。
 
欽明寺前から欽明路峠にさしかかる峠は、山陽道の中でもかなりの難所であった。
万葉集に「周防なる盤国山を越えむ日は手向けよくせよ荒らしその道」とありますが峠をっ欽明路峠と称するのはこの寺号にちなみます。
境内には天皇が座られたという「腰掛の石」があります。

しとしと降っていた雨も止んできました。欽明寺を過ぎるといよいよ山陽道の難所「欽明路峠」に差し掛かります。雨のためか峠は霧です。
  
途中には山陽道欽明路トンネルがあります。
  
中峠へ
  
中峠からの下りは急です。東から来た人はこの坂きついでしょうね。そばには不法投棄禁止の鳥居がたくさん立てられています。
欽明路バイパスのトンネルを過ぎると山里の風景に出合います。
   

旧街道は「柱野」に入りました。
この中学校は廃校になっていますが、屋根の形が面白いですね。
  
そろそろ帰りの時間が気になります。岩徳線は1時間半に一本ぐらいですので前もって調べておきました。
14時45分柱野発岩国行。時計は14時半を示しています。
歩いていては間に合わないみたいですので柱野駅まで走ります。
14時40分柱野駅到着。間に合いました。
  

肝心の錦帯橋の桜は1分から2分咲きだそうです。24日に錦帯橋を予定していましたが、来週には満開になると思い次回は来週に延期します。

本日のGPSです。距離は15.3kmになっていました。






 















山陽道(西国街道)を歩く(周防久保から周防高森)

2013-03-19 20:15:24 | 山陽道(西国街道)を歩く
3月16日今日も青春18きっぷを使って旧山陽道を歩きました。
今日は朝5時に起きて博多発6:00の門司港行で出発、途中乗り換え乗り換えで前回ゴール地のJR周防久保駅には10:08に到着しました。
今日の予定は周防久保~周防高森迄約15kmです。今日からJRのダイヤが改正になり帰りの電車の時間も控えてきました。

10時15分スタート。しばらく歩くと2号線に合流します。

更に進むと「郡境碑」が立っています。
西 都濃郡、東 熊毛郡 。

更に進みますと確かこの辺りに秀吉が朝鮮征伐の時に陣を張った所があるのですが、見つけられませんでした。
それでもこの辺りは御所尾原という所、御所は陣を示す所でしょうか?

街道は国道2号線沿いに進みます。
JR勝間駅の左側に鳥居が見えてきました。
これが「熊毛神社」です。
 式内神社であるが、創立年代は不詳である。奈良時代の天平十年(七三八)の『周防国正税帳』に、「熊毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とある。
 その後、大内・内藤・毛利氏等の厚い崇敬を受け、安土桃山時代の天正十七年(一五八九)の検地には、
 「田六町五反十歩、畠四反」の神領があった(熊毛神社文書)。 
 また、江戸時代には社殿の再建や修理に、藩主の多額の寄進がみられる。明治六年(一八七三)郷社に列し、大正四年(一九一五)県社に昇格する。現在の社殿は、 
 本殿を明治十九年(一八八六)、拝殿を同三十年(一八九七)に再建したものである。宝物として、大内弘貞・内藤興盛・毛利輝元等、多くの古文書を有する。
                                                             -『山口県神社誌』-

江戸時代には勝間八幡宮と称していました。
  

ガソリンスタンドの所を右に曲がると「呼坂宿」に入ります。

防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け万葉集に歌われ、また南北朝時代(約600年前)の旅日記「道ゆきぶり」に
現在の呼坂が「海老坂」と記されています。
脇本陣は、「西善寺」です。こちらには「呼坂小学跡」もあります。
 
呼坂町並み
  
吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の地
安政6年(1859)5月、松陰は江戸に送られることになり、25日檻輿は萩を発し小郡を経て山陽道を東進し、高水村を通過した。
松陰の弟子の忠三郎は、当時高水におり、呼坂において松陰と無言の別れを告げた場所です。
 
  松陰 :かりそめの今日の別れは幸なりき ものをば言はば思ひましなん
  寺嶋 :よそに見て別れゆくだに悲しきを言にも出ては思ひみだれん

尚、寺嶋忠三郎は、元治元年(1864)蛤御門の変にて幕府軍に敗れ自刃しました。

呼坂宿本陣
江戸時代河内家は代々庄屋や大庄屋を務め、天明年間(1781)七左衛門が本陣を引き受け参勤交代の大名や幕府の上役が宿泊や休憩をしました。
河内家には今も「お休み札」、「宿泊の部屋」があり、安政3年(1856)より約30年間の萬日記には当時の屋敷見取り図などが
保存されています。
   
橿原神宮参道を通りますと駄菓子屋さんがあります。
また、このあたりは庭先にお花を植えられているところが多いです。きれいな花を見ていると和みますね。
  
 
旧街道はJR高水駅を通ります。
民家のベランダに鬼瓦がたくさんつけられているお家を見つけました。瓦屋さんでしょうか?
 
「今市宿」にやってきました。呼坂宿とは1kmあまりしか離れていません。
  
「西覚寺」
ここが脇本陣だった所です。
横には「高水村塾之址」の碑があります。岩国の高水高校の元になった所でもあります。
   
旧街道は、中山の踏切を渡り中山峠に向かいます。JR岩徳線は1410mのトンネルになります。
  
民家には木蓮の花が咲いています。

ふと、横を見ると「クマ出没注意」の看板が・・・・・・
    
慌ててDバックからクマよけの鈴をつけて歩きます。
中山峠頂上には「郡境碑」があります。ここから「岩国市」に入ります。

峠を下りるともう12時半。ここで少し休憩します。

一服し再び歩き始めます。すると道路の右側に「旧山陽道」の矢印が・・・・・・
それに沿って歩き出します。右には川のせせらぎが聞こえます。

然し先に行くと藪が・・・・・・道らしきものもありません。
ここで先ほどの「クマ出没注意」の看板が頭にひらめき、怖くなって前来た道に引き返しました。

観音様を過ぎると差川の町に出ます。天王社、米川駅を通ると街道は島田川沿いになります。
  
島田川、岩徳線と並行します。
道路には桜が植えられています。まだつぼみの段階ですが満開になると綺麗でしょうね。

島田川沿いの街道には「孝行塚」もあります。
昔、元文、寛保(1736~1743)差川村の旧家三右衛門に仕え主家の恩に酬いるため、一意専心働いて主家の没落を救った
六松の彰徳碑です。
  

旧街道は、高森宿に入りました。
ここの川沿いにも桜並木が植えられています。桜のつぼみももうそろそろほころびそうです。
  

高森天満宮
高森天満宮 は、は遠石八幡宮、防府天満宮と並ぶ周防ノ国三大天神のひとつで、学問の神様・菅原道真公が祀られています。
社殿は1961年 (昭和36年) の改築、鳥居は1982年 (昭和57年) に建立されました。毎年11月下旬に行われる秋の大祭は大勢の参詣者でにぎわいます。
  
今年の「花神子祭」は4月14日に行われるそうです。
また、幼年期をここ高森で過ごした作家「宇野千代」さんの句もありました。
 

高森宿は、道幅も広く旧家も立ち並んでいます。
  

時計を見ると2時を過ぎました。
帰りの列車は2時25分です。これに乗り遅れると1時間半ぐらい待たなければいけません。
高森宿は次回に回し急いで駅に駆け込みました。
  

本日は約4時間の街道歩きでした。
今日のGPSです。





















山陽道(西国街道)を歩く(徳山から周防久保)

2013-03-15 10:34:29 | 山陽道(西国街道)を歩く
3月9日 今日も青春18きっぷを使って徳山に来ました。


旧山陽道は、ここからはJR山陽本線とは外れ岩徳線沿いになります。
岩徳線(岩国〜徳山)は1920年代に建設が始められ1934年に全通となりました、。全通後は直ちに山陽本線の一部とされ
元の山陽本線部分は柳井線と改称されました。その後山陽本線複線化が計画されると勾配やカーブが多く長いトンネル(欽明路トンネル)を
もう一本掘らねばならないことから複線化は元の山陽本線である柳井線経由で実施されることになりました。
柳井線は1944年に複線化が完了し山陽本線に編入されました。

10時10分徳山駅をスタート。
駅前の商店街を通ります。ここが銀座通りです。そういえば徳山には東京の地名と同じ地名があります。
有楽町、千代田町、青山町、漢字は違いますが糀町・・・・・・・

線路の右側には出光のコンビナートがあります。


「孝女阿米(およね)の碑」
1791年、徳山の貧しい家に生まれる。1796年、母が死去し、母方の祖父である茂左衛門に引き取られて養育された。1802年に父が病気となったので、
父の看病のために帰宅し、父の看病をしながら、昼は近所の米つきに雇われ、夜は父の側で糸を紡ぐという生活が続いた。
米つきをする際には、体が軽いため、石を腰につけたと伝えられている。
阿米は純孝な性格で、労苦を厭わず、父が満足するのを自分の楽しみとした。このことが藩主・毛利広鎮の耳に入り、たびたび表彰され、米穀や恩賞を賜った。
1832年、阿米の31年にわたる看病の末、父の金左衛門は68歳で死去する。
後に阿米が病にかかり、病状が重くなると、近所の人々に多年の厚意を拝謝し、自分の死後に遺骨を父母の墓の傍に埋めるよう頼み、
1852年に62歳で死去する。法名を慈順といい、川端町の徳応寺に葬られた。

旧山陽道を歩き始めて3つ目の孝女の碑です。下関清末には「お政」、防府には「於石」そしてここには「阿米」の碑。
記念碑には昭和34年阿米 百七回忌と、平成14年には阿米 百五十回忌が建っています。
  

旧街道は遠石(といし)宿に入ってきました。遠石は遠石八幡宮の門前町として栄えました。

ここにも白壁の旧家が立ち並んでいます。
  
県道側にはまるで3Dみたいな鏝絵があります。

ここでGPSのスイッチを入れるのを忘れていたことに気づき慌てて入れます。

遠石の地名の元となった「影向石」(えいこういわ)
推古天皇30年(622)春の夜、豊前国より宇佐八幡大神が神馬に跨りこの地の磯浜に降臨された。
その時神風静まりて光明と共に忽然と現れた一つの大石に降り立たれ
「吾は宇佐八幡大神なり、この地に跡を垂れて国民を守らんため今ここに顕わる。嗚呼遠し」と神託された。
八幡宮創建に由来するこの大石を「影向石(えいこういわ)」と称し石上に今猶神馬の蹄跡を残す神岩として
広く崇信されている。


石を見ていると蹄跡のように見えます。

影向石の先には「遠石八幡宮」があります。
    

旧街道は、県営住宅の先がちょっと分かりずらくなっています。そのまま真っ直ぐ歩きますがここは庭球場、どうも道を間違えたようです。
近くの方に地図を見せ教えてもらいやっと旧街道に戻りました。
「早乙女の碑」があります。
案内板によると
「当地は田植えの時期、側を通行する人に早苗打ちといって稲の苗を投げつけご祝儀をいただくという風習がありました。
 ある日、九州からの飛脚が通りがかった時早乙女の一人が手に持っていた早苗を投げつけた所飛脚は無礼と激怒して
 早乙女を刺殺してその場を立ち去りました。近所の人は殺された早乙女を哀れみこの場所に像を立てて弔いました。」
このあたりが早乙女坂になっています。昔は田んぼだったのでしょうね。
 
旧街道は「久米」に入ってきます。
   
坂の上から来た道を見ると徳山の町が見渡せます。

末武川に来ました。この川を渡ると「下松市」になります。
末武川には桜が植えられています。この桜が満開になると綺麗でしょうね。
 
2号線、山陽新幹線ガードを渡ると「花岡」に入ります。
  
花岡八幡宮の入り口に「金分銅本店」という造り酒屋があります。
明治33年の創業ですが、寛政9年(1797)に徳山毛利藩絵師によって描かれた「花岡八幡宮例祭御神幸絵馬」には金分銅本店が描かれているそうです。
明治よりもっと前からあったのでしょうね。

花岡八幡宮」は和銅2年(709)豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請して祀られました。
  
祭神は誉田別尊(応神天皇)。
この街道で八幡宮に遭ったのは3つ目、下関亀山八幡、遠石八幡そして花岡八幡。またこの先に切山八幡がありますので4つかな?
八幡宮の祭神は応神天皇で神武皇后が三韓征伐に行った頃お腹にいた子供です。父親が仲哀天皇。
この仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀っている神社は北部九州にたくさんあります。
仲哀天皇が亡くなられたのが香椎宮、応神天皇がお生まれになったのが宇美八幡宮、まだまだ調べてみればたくさんあるかもしれません。

話は横道にそれましたが、花岡八幡宮には「閼伽井坊塔婆(あかいぼうとうば)」(多宝塔)があります。
八幡宮日本十六塔の一つで高さ13m、柿葺屋根です。
閼伽は仏に供える清浄な水、閼伽井はこれを汲む井戸です。
  

時間は1時近くになりました。先ほどコンビニで買ってきたお弁当をここでいただきます。

再び出発します。左側に法静寺があります。この寺の横を覗いてみると「福徳稲荷」があります。
福徳稲荷は、毎年11月3日稲穂祭では「狐の嫁入り」が行われています。狐のお嫁さんになられた方は
良縁に恵まれるそうです。
  

花岡勘場跡
毛利時代(1610~1871)この地方の19ヵ村を都濃宰判と称し萩本藩領で萩から役人(代官)が来て治めていました。
この役所を勘場といい、花岡は当時この地方の政治文化の中心でありました。
また山陽道の交通の要衝であったので御茶屋(本陣)も側に建てられました。
  
勘場跡には「春雨桜」の案内板もありました。
それによると、毛利敬親(たかちか)公は天保8年(1837)に13代藩主を継ぎ幕末混乱の時期に防長三州を統括し明治維新における
中心指導者として活躍された人である。その敬親公が文久元年(1861)9月16日に萩を出発し江戸に行かれる途中、福川で病にかかり
花岡の本陣で静養された。その時敬親公の心を慰めたのがこの桜である。
「春雨」は敬親公の雅号で敬親公遺愛の桜ということで「春雨桜」と呼んでいる。

先に進みます。「生野屋」という駅があります。
どういう地名なのかわかりませんが生野屋神社という石碑がありました。
   

旧街道は岩徳線、2号線を横断し再び2号線と並行して行きます。
   
国道には大型ショッピングセンターなどが立ち並んでいます。
岡市を過ぎ久保市に入ってきました。
久保市は山の谷あいの窪地にできた町ということで窪市→久保市になったそうです。
街道沿いに旧家がありましたのでちょっと覗いてみますとギャラリーでした。
可愛いお雛様などが飾られていました。
  
「由加神社」があります。
天保9年(1838)12月久保市に大火があり今の久保農協付近を中心に東西へ広く焼失するという惨事が起こったことから
火除けの神様 由加神社の遷宮を歓請して創建されました。
   

14時半周防久保駅に到着。
駅の時刻表を見ると徳山行が15時08分。博多着は20時半ぐらいになりそうです。
青春18きっぷを使っての街道歩きですがローカル線になると前もって列車の時間を調べてみた方がいいですね。
  

本日のGPS。徳山駅から遠石までGPSをオンにしていませんでした。






















山陽道(西国街道)を歩く(戸田~徳山)

2013-03-12 10:21:27 | 山陽道(西国街道)を歩く
3月3日今日も青春18きっぷで旧山陽道の街道歩きです。
博多発6:35で出発し前回ゴール地JR戸田(へた)駅には10:00に着きました。

戸田駅には産直店がありちょっと覗いてみます。中に入っていなり寿司の所で目に付いたのが「あさみ ちゆき」の写真。
このいなり寿司の社長が、あさみ ちゆきの後援会の会長をされているそうです。そういえば、あさみ ちゆきさんは
山口県の出身だったな。おいしそうでしたので今日のお昼にと思いこのいなりを買いました。

山陽線の踏切を渡り旧山陽道は夜市川に沿っています。

左手の山側には、大内氏の重臣であった陶(すえ)氏が築いた山城跡があります。

夜市川沿いに歩いていくと福川宿に入ります。この辺りが合併する前の新南陽市になります。
福川宿の案内板によれば
福川の本陣・脇本陣はともに御茶屋と称して代々福田家がこれを預かり西町にある本陣は表口17間(30,6m)、奥行14間(25,2m)で
門構えのある大規模な屋敷でした。
享保6年(1721)に幕府の参勤交代における随行員制限令が発せられた頃から山陽道においてもそれまでの海路から陸路による
通行が激増し福川本陣は幕府の要人や西国大名などの宿泊や休憩のための場所を提供する重要な宿駅としての役割を
担いました。現在の本陣門は天保9年(1838)に建て替えられたもので昭和48年に改修したものです。
  
脇本陣は近くの眞福寺に設けられました。
  
福川宿には、旧家も立ち並んでいます。
薬屋さん、酒造屋さん・・・・・
   
その中でも「男自慢」という銘柄の松田本店があります。ネーミングが素晴らしいですね。
松田本店のHPを見てみますと、
 大正末期、東京銀座の料理屋「男じまん」に多くの画家が集っていた。その中の一人に若き日の岸田劉生がいた。
 酒豪で知られた劉生が「清酒・男自慢」をいたく気に入り、座右の酒として愛した由が伝えられている。
清酒のラベルに使われている文字~男じまん~は、岸田劉生自らが筆をとった自筆の書である。
 1929年、劉生はここ徳山(現・周南市)を訪れ、当地で38年の短い生涯を終えることとなった。
(松田本店HPより)

旧道は、県道347号線と合流します。
海岸沿いには、化学工場の煙突が立ち並んでいます。
  
スーパーから左折すると富田(とんだ)市に入ります。
浄眞寺は、幕末から明治維新にかけてのめまぐるしい政局に対応して農町民の中から士気旺盛な者を選んで編成した
「山崎隊」が駐屯していました。お寺の柱には当時の傷跡が残っているそうです。

富田市は、今でも白壁の家など旧家が残っています。
  
このあたりに本陣があったのでしょうか?
また今回行きませんでしたがJR新南陽駅近くには「勝栄寺」があり、毛利元就が3人の子に「三本の矢」の教訓状を書いたところとしても知られています。

先に進むと「山崎天満宮」があります。
 
由来書によると
新南陽市富田河内(とんだこうち)の神室山(みむろやま)に神が降臨され、これを祀った。
また一説には、豊前国宇佐より御分霊を祀ったとも言われている。
その後、和銅2年(709年)8月に、現地に御鎮座され[江宮(えのみや)」と称した。神仏習合の時代になると真言宗の荘宮寺と習合し「荘寺八幡宮」と呼ばれていた。
明治維新により 神仏分離の時、山崎八幡宮と御社名を改めた。
その間平安時代の大同元年(806年)と江戸時代の宝暦7年(1757年)に再度火災があり、社殿・宝物・古文書等はすべて焼失している。現在の社殿は明治9年(1871年)に再建されたものである。
明治4年に郷社となり、昭和5年には県社に昇格された。
  (山崎八幡宮HPより抜粋)
また「本山神事」として藁縄をとりつけた山車が裸坊によって中央鳥居前まで引き上げられたあと落とされます。
「連歌奉納」も行われています。
   
八幡宮の入り口には山陽道道標がありました。

更に先へ進むと「永源山公園」入口があります。
この上にはオランダ風車が建っています。

音羽橋を渡ると川崎に入ります。
左手上の方に「川崎観音」が見えてきます。
   
安産とお乳の観音様として霊験あらたかで毎月17日の縁日には接待があります。また春の桜、秋の紅葉には観光客が訪れるそうです。

旧山陽道は新幹線、県道347号線と合流します。
徳山はもうすぐです。
徳山は昭和20年大空襲に遭いました。旧山陽道など失われてしまったものが多いそうです。
 
13時51分徳山駅に到着。
今日の行程はここまでとしますが、ブログ友達のYさんの息子さんが4月より徳山の学校に赴任されますのでちょっと駆け足で市内を廻ってみます。

徳山駅前ロータリー  ここに高札所があったそうです。

近鉄松下デパート   残念ながら2月末をもって閉店です。

動物園横には周南市民会館があります。ここに毛利徳山藩邸があったそうです。
  
日露戦争時の陸軍大将の児玉源太郎氏もここ徳山の生まれです。


時間も3時近くなりました。これから約4時間かけて博多に帰ります。
今日のGPS




 














山陽道(西国街道)を歩く(防府から戸田)

2013-03-08 14:43:17 | 山陽道(西国街道)を歩く
3月より青春18きっぷが使用開始となり3月2日山陽道を歩いた。
博多駅から前回ゴール地の防府まで3時間余り。
山陽道出発地下関からは1時間半もかかる。我ながらよく歩いたなと感心する。

JR防府駅に9時44分到着。
駅から前回ゴール地防府天満宮まで歩く。
10時ちょうどに今回の街道歩きを始める。

  
歩いていると古い大きな門が見えてくる。
これが防府八幡宮宮司武光家屋敷跡です。

その先を行くと長い土塀があります。
ここが「周防国国分寺」
  

周防国分寺は、天平13年(西暦741年)聖武天皇の勅願により、国ごとに建てられた官寺のひとつで、
創建当初の境内に今も伽藍を残すきわめて珍しい例として知られています。
境内地は国の史跡に指定されており、また重要文化財の金堂には、藤原時代初期の木造日光・月光菩薩立像をはじめ
多くの仏像、宝物があります。(周防国分寺HPより)

金堂は何か奈良東大寺に似ていますね。

その先には「佐波神社」があります。
佐波神社の隅には「大村能章顕彰碑」が建っています。
大村能章は、防府・多々良出身の作曲家で野崎小唄、麦と兵隊、旅笠道中、明治一代女、同期の桜
などの曲を作曲しています。
  
「毛利氏庭園」
敷地面積53000㎡。中に入ってみようかなと思いましたがちょっと時間がかかりそうでしたので
入口までにしました。

 
毛利庭園の先には「多々良大仏」があります。説明文を見ますと
奈良の都を模して周防の国衙(こくが)の立場場に建立されたのが辻福寺の大仏殿で
遠く大平、矢筈、多々良の峰々に映え渡っています。
この大仏殿はそこが明治25年毛利邸用地に定められたときこの地に移転したもので
坐像の高さ3mの仏像は阿弥陀如来。周防の国司俊乗坊重源上人(826年前)の作品と伝えられ
今日広く信仰を集めている。
   
多々良大仏を右に行きますと「周防国衙(こくが)跡」があります。
国衙とは、7世紀後半ごろから中国の律令制度を取り入れて中央集権的な国づくりを進めた朝廷は
国ごとに国司と呼ばれる役人を中央から派遣して地方を治めた。
国司が政務をおこなった場所が国衙。敷地は92500�というからすごい広さです。
今日、国指定になっており、周りは史跡公園になっています。
    
ここで私たちと同じ街道を歩いている方に出会いました。この方は今日徳山から来られ、下関まで行かれるそうです。
途中走られているそうです。

先に進むとJA牟礼が見えてきます。この辺りに一里塚があったそうですが、現在何もありません。

柳川を渡ると「浮野」の町に入ってきます。
牟礼郷土誌同好会の方が浮野の町案内の看板を作られています。
街道を歩く者にとって非常にありがたいです。
  
その案内板によると
「都と九州大宰府を結ぶ山陽道に沿う浮野町は早くから開け江戸時代には浮野半宿として旅をする者に人足と馬を用意し次の宿場まで
継送りする仕事をしていた。そのため藩主からの援助を受け人夫8人、馬10頭を交替で用意していた。
浮野半宿は町の長さ4町5間(450m)で往還に面して45軒の屋敷があった。
明治4年継場が廃止されるまで富海(とのみ)、宮市両宿場町の中継地としての役目を果たしてきた。」
 

   
  

浮野の町を抜け防府バイパストンネルの上を行くと浮野峠に差し掛かります。
ここも案内板が整備され迷わずに歩けます。
  
  
最初のビューポイントを見て順調に歩いていたのですが、途中で山陽道(右の指さしマーク)の表示があります。
右の方を進んでいると獣道見たいです。更に先に行くと行き止まり。道がありません。
 
もう一回確かめるため戻るとやはり右の矢印。時間のロスになるからと間違ってもいいからと広い道の方を歩きます。
すると山陽道改修記念碑が立っています。あの矢印は何だったんだろうか? 

先に進むと「茶臼山古戦場跡」があります。

茶臼山古戦場 大内義隆を滅ぼした陶晴賢は、厳島の戦いで毛利元就に敗れた。大内氏の旧領地を手中に収めた毛利氏は豊後の大友氏と対戦し筑前立花城の攻撃にかかった。
この時大友宗麟は、大友家に寄食していた大内輝弘に大内氏再興を図る好機であるといって手兵二千を授け山口占拠を目指して立ち上らせた。
輝弘は総大将となり本隊は秋穂浦に上陸し、永禄十二年(一五六九)十月十二日山口へ乱入し旧大内氏の居館に陣地を構えた。
これを見た毛利軍は筑豊を放棄し、吉川元春を追討軍の総大将とし一万の兵をもって山口に急行した。輝弘は秋穂浦に逃れたがすでに船はなく、
やむなく海岸沿いに東上したが右田岳の城兵の要撃に遭い、辛うじて脱出した一行は、浮野峠を越えて富海に出たが、ここにも一雙の船影さえない。
しかしその前方椿峠には徳山野上庄の杉次郎左衛門、海岸からは由宇正覚寺の別当周音が、各々手兵を率いて待機している。
輝弘は茶臼山に引き返して最後の抵抗を試みたが、後ろからは吉川軍が追ってくるし、遂に力つきて大内氏再興の夢もむなしく自害して相果てた。
ここにある石祀は、正面に大内菱の紋を彫刻した笠石があり、内部には別富と刻まれた自然石がありさらに石祀の奥壁に「大内霊神」と彫り込まれているところから、
輝弘の石祀と言い伝えられている。   平成三年一月吉日 牟礼郷土誌同好会 富海史談会


浮野峠も下りに入ります。
右側に視界が開けてきます。
ここが第二のビューポイントです。周防灘と瀬戸内海の島々・・・・・本当に絶景ポイントです。これをパノラマにしてみました。



尾張の菱屋平七は「筑紫紀行」の中で東海道の薩捶(さった)峠に似ていると書いています。

旅人が瀬戸内海の絶景にしばし足をとどめこの前にある岩に手をかけて休んだといわれる「手懸石」

橘坂を下ると今度は富海(とのみ)の海岸が見えてきます。
  

2号線に合流しすぐ右に折れます。しばらく歩くと富海に入ります。
  
富海は山陽道の中でも陸と海が隣接した交通の要衝で古くからの漁港です。
江戸時代には「飛船」と呼ばれるスピードの速い船があり、瀬戸内海沿岸に荷物や人を運んでいました。
江戸末期には、少々の悪天候でも出港したため、高杉晋作、吉田松陰などの志士の移動にも使われました。

「飛船問屋大和屋政助の船蔵」という看板がありましたので立ち寄ってみました。
この辺りは、ここまで海だったそうで1階に船が入れるようになっています。
     
船蔵の前の案内板には
・元治元年(1864)10月、攘夷に固執する藩の俗論党に追われ徳地小野から富海へとたどり着いた高杉晋作を
 あらしの中、飛船を出させて馬関(下関)へと逃がす。
・文久3年(1863)10月 明治天皇の叔父にあたる中山忠光卿は8月18日の堺町御門の変後、
 幕府に追われる身となり同10月長州を頼って大阪から飛船で富海に落ち延びこの土蔵の2階に
 しばらく潜伏していた。
富海の駅の近くに大和屋政助の墓があります。墓には「攘夷義侠大和屋政助」と書かれています。

時計も12時半を過ぎお腹もすいてきました。近くに食堂やコンビニを探すがありません。
ふと見ると「スーパーはらだ」の看板が・・・・・
3年前のNHK街道てくてく旅でシンクロの原田早穂さんが立ち寄った所です。
中に入りおにぎりと惣菜を買い大和屋政助の土蔵近くでいただきました。
  

お腹も一段落し再び街道を歩きます。
「富海宿本陣跡」
 
現在は門だけが当時を忍ばせていますが、この富海宿案内板によると、
「富海宿は宮市から福川本宿への途中の半宿(宮市から2里、福川へ2里半)で大名行列の休憩、あるいは長崎奉行やオランダ人(出島居留)、
 日用御用金運送などの比較的小規模な人数の宿泊に利用された。徳山藩に属し町年寄が支配していた。
  ・元禄16年(1703)10月 長崎奉行宿泊
  ・弘化3年(1846)7月   島津斉彬下向の際休憩
  ・嘉永6年(1853)     薩摩天障院篤姫江戸へ向かう途中休憩  」

富海宿を過ぎると左側に「白菊」と書いた煙突が見えます。昔の造り酒屋でしょうか?


再び2号線に合流。この辺りは交通量も多く横断歩道も歩道もありません。警察がネズミ取りの準備をしていました。
車がスピードを出してくる所なんですね。必死の思いで国道を横断しました。

 
椿峠に差し掛かります。ここからが「周南市」に入ります。
周南市は、平成に入り、徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町と合併し約15万人の市になり、合併により市の名称も新しく「周南市」と改められました。

椿峠の頂上に差し掛かるとドライブインがあります。
その一つに「天野屋利兵衛」というのがあります。天野屋利兵衛というとすぐ思い出すのが忠臣蔵の「天野利兵衛は男でござる」。
何でも天野屋利兵衛の生誕地がここ周南市戸田(へた)だそうです。
このドライブイン残念ながら5年ぐらい前に防府駅近くに移転されており、この場所では営業されていません。
 
旧街道は、天野屋利兵衛の所から左折し国道と並行し、再び国道に合流します。
合流したところから左折すると「湯野温泉」に行きます。
湯野温泉は夏目漱石「坊ちゃん」のモデルと言われる「弘中又一氏」の出身地です。


戸田(へた)の信号から旧道に入ります。
橋を渡ると「辻地蔵」があります。
 
戸田の町は国道から外れたためか昔ながらの家並みが残っています。

「戸田市観音」
  
「宮島様」(戸田恵比寿)
   
宮島様の迎えには戊辰戦争の碑、日清戦争の碑が建っています。
  
光西寺は大名などが休憩した所です。

「船山神社」と「いかり石」
案内板によれば、平地に船形の山ありそれを船山という。往古は舮田と書いたがいつの間にか書き違い今は戸田(へた)と書いている。
戸田の地名の発祥の地でもある。
   

旧道は赤坂峠を越えます。
越えるとまた、2号線、山陽本線に合流します。
今日の予定は隣の福川宿まででしたが、時間も3時近くなりました。
戸田駅も近いので今日はここまでとします。
  

本日のGPS