唐津街道は、国道202号線横町信号を左に入る。
このあたりが今宿上町。町並みを見ると古い家が立ち並んでいます。
その先、筑肥線のガードを潜ると女原、徳永の町に入ってくる。
ここは、九州大学伊都キャンパスの玄関口として今、市役所によって
区画整理工事が施されています。
10年ぐらい前は、福岡大学の総合運動場だったのですが、
九大学研都市駅開業とともにショッピングセンターをキーに周辺には、
マンションが建ち並んでいます。
伊都の丘病院の横を通ると、周船寺(すせんじ)の町にはいってきます。
昔は、このあたりまで湾が入り込んでいて、ここに「主船司」といって
太宰府政庁の船舶の管理事務所が置かれていました。
その主船司が訛って「周船寺」になったそうです。
周船寺の町に入ってすぐ左側に「丸隈山古墳」があります。
5世紀前半の横穴式石室を持つ前方後円墳です。
この地方を統括していた人の墓と伝えられています。
この古墳の先には、この人を祀ったといわれている「伊覩神社」があります。
このお宮のソメイヨシノは、もう何輪か花を付けています。
日当たりがいいからでしょうか?
周船寺小学校の先を右に曲がると国道202号線に再び合流します。
ここから、糸島市に入ります。
この糸島市、今年1月1日より前原市(まえばる)と周辺の志摩町、
二丈町と合併し、新しく「糸島市」として発足しました。
街道は国道と平行しています。
街道は、前原の「産の宮」に差し掛かりました。
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、この前原は、魏志倭人伝に
出てくる「伊都国」の中心地です。
この産の宮の近くの雷山川上流には、伊都国王がいたとされる
「平原遺跡」下流には「志登支石墓群」があります。
平原古墳では、漢鏡37面など多くの副葬品が発見されています。
志登支石墓群では、朝鮮半島で見られるような遺体を埋葬した上に
大きな上石を置くやり方で上石は花崗岩、玄武岩を使っています。
石の大きさは長さ2m、幅1,5m、厚さ60cmぐらいです。
また、志登からは、糸島の象徴の「可也山(かやさん)」(糸島富士)がきれいに
見ることが出来ます。この可也山も韓国の「伽耶(かや)」注)(日本では任那)
と発音が似ています。
昔は、大陸から渡来人がここにやってきていたのではないでしょうか?
時計を見るともう4時半を過ぎています。
予定では、3時半には、前原宿に着くはずだったんですが、地元を歩くと
いろいろ知っているものでついつい寄り道が多くなります。
折角、街道ブログを書くのであれもこれも皆さんに紹介したいからでしょうか、
一回で終わらせればいいのに、その1、その2・・・となってきます。
私って、文章のまとめ方が下手くそなんです。
そうこうするうち、今日のゴール地前原宿にやってきました。
この前原宿は、地元の有志の方たちで「前原宿研究所」というのを
作っておられます。商店街には「前原宿通り」の幟や、各店には、
屋号の下に「前原宿」と入れられています。商店街の中心地にある
時計は昔の亥の刻、酉の刻とわかる時計です。
また、本陣、脇本陣などは現存しています。
この脇本陣の綿屋は、喫茶店になっており、ちょうどコーヒーも飲みたくなり
入ってみました。この綿屋は予約すれば「街道御膳」というのを用意してくれる
そうです。3000円だったかな?
また、近くの名店街では幻のお饅頭の「くりまんじゅう」を土、日限定で
販売しているそうです。(残念ながら売り切れでした)
綿屋でしばしくつろぎ、お店の方に前原宿について質問していましたら、詳しい人を
呼んで来ると言ってそのまま帰ってこられません。
もう時間も遅くなったので諦めて帰ろうとすると、出口で若い方が待っておられます。
お名前を伺うと、何か聞いたことのある名前・・・・
もしかして「街道歩き」の項の「唐津街道」を書かれた○○さん?
○○さん「はい」という返事。実は私、今日の街道歩き予習の意味で「唐津街道」
の項を昨晩読んでいました。
イヤー感激しました。この街道歩きの際にもこの○○さんのブログも読んでいました。
私もウオーキング名刺を渡そうとしますが、今日は近場だったので
いつものDバックでなく違うDバックを持ってきていました。
名刺もあの中にはいったままです。
私もこの唐津街道ブログにしていることを伝え、アクセス先を教えました。
○○さん見たかな?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
唐津街道もあと35kmになりました。
次回は、唐津城のゴールまで寄り道をせず、完歩したいと思ってます。(笑)
※志登支石墓群 http://blog.goo.ne.jp/yokkun1949/e/f005e695158a9e8f55feb092fb71652b
このあたりが今宿上町。町並みを見ると古い家が立ち並んでいます。
その先、筑肥線のガードを潜ると女原、徳永の町に入ってくる。
ここは、九州大学伊都キャンパスの玄関口として今、市役所によって
区画整理工事が施されています。
10年ぐらい前は、福岡大学の総合運動場だったのですが、
九大学研都市駅開業とともにショッピングセンターをキーに周辺には、
マンションが建ち並んでいます。
伊都の丘病院の横を通ると、周船寺(すせんじ)の町にはいってきます。
昔は、このあたりまで湾が入り込んでいて、ここに「主船司」といって
太宰府政庁の船舶の管理事務所が置かれていました。
その主船司が訛って「周船寺」になったそうです。
周船寺の町に入ってすぐ左側に「丸隈山古墳」があります。
5世紀前半の横穴式石室を持つ前方後円墳です。
この地方を統括していた人の墓と伝えられています。
この古墳の先には、この人を祀ったといわれている「伊覩神社」があります。
このお宮のソメイヨシノは、もう何輪か花を付けています。
日当たりがいいからでしょうか?
周船寺小学校の先を右に曲がると国道202号線に再び合流します。
ここから、糸島市に入ります。
この糸島市、今年1月1日より前原市(まえばる)と周辺の志摩町、
二丈町と合併し、新しく「糸島市」として発足しました。
街道は国道と平行しています。
街道は、前原の「産の宮」に差し掛かりました。
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、この前原は、魏志倭人伝に
出てくる「伊都国」の中心地です。
この産の宮の近くの雷山川上流には、伊都国王がいたとされる
「平原遺跡」下流には「志登支石墓群」があります。
平原古墳では、漢鏡37面など多くの副葬品が発見されています。
志登支石墓群では、朝鮮半島で見られるような遺体を埋葬した上に
大きな上石を置くやり方で上石は花崗岩、玄武岩を使っています。
石の大きさは長さ2m、幅1,5m、厚さ60cmぐらいです。
また、志登からは、糸島の象徴の「可也山(かやさん)」(糸島富士)がきれいに
見ることが出来ます。この可也山も韓国の「伽耶(かや)」注)(日本では任那)
と発音が似ています。
昔は、大陸から渡来人がここにやってきていたのではないでしょうか?
時計を見るともう4時半を過ぎています。
予定では、3時半には、前原宿に着くはずだったんですが、地元を歩くと
いろいろ知っているものでついつい寄り道が多くなります。
折角、街道ブログを書くのであれもこれも皆さんに紹介したいからでしょうか、
一回で終わらせればいいのに、その1、その2・・・となってきます。
私って、文章のまとめ方が下手くそなんです。
そうこうするうち、今日のゴール地前原宿にやってきました。
この前原宿は、地元の有志の方たちで「前原宿研究所」というのを
作っておられます。商店街には「前原宿通り」の幟や、各店には、
屋号の下に「前原宿」と入れられています。商店街の中心地にある
時計は昔の亥の刻、酉の刻とわかる時計です。
また、本陣、脇本陣などは現存しています。
この脇本陣の綿屋は、喫茶店になっており、ちょうどコーヒーも飲みたくなり
入ってみました。この綿屋は予約すれば「街道御膳」というのを用意してくれる
そうです。3000円だったかな?
また、近くの名店街では幻のお饅頭の「くりまんじゅう」を土、日限定で
販売しているそうです。(残念ながら売り切れでした)
綿屋でしばしくつろぎ、お店の方に前原宿について質問していましたら、詳しい人を
呼んで来ると言ってそのまま帰ってこられません。
もう時間も遅くなったので諦めて帰ろうとすると、出口で若い方が待っておられます。
お名前を伺うと、何か聞いたことのある名前・・・・
もしかして「街道歩き」の項の「唐津街道」を書かれた○○さん?
○○さん「はい」という返事。実は私、今日の街道歩き予習の意味で「唐津街道」
の項を昨晩読んでいました。
イヤー感激しました。この街道歩きの際にもこの○○さんのブログも読んでいました。
私もウオーキング名刺を渡そうとしますが、今日は近場だったので
いつものDバックでなく違うDバックを持ってきていました。
名刺もあの中にはいったままです。
私もこの唐津街道ブログにしていることを伝え、アクセス先を教えました。
○○さん見たかな?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
唐津街道もあと35kmになりました。
次回は、唐津城のゴールまで寄り道をせず、完歩したいと思ってます。(笑)
※志登支石墓群 http://blog.goo.ne.jp/yokkun1949/e/f005e695158a9e8f55feb092fb71652b