№1からの続きです。
日見峠を下ってくると「界」という町に入ってきた。
「界」どう読むんだろう?と同行の家内と話すが、わからない。
思い切って近くに女性がいらっしゃったので聞いてみた。
「さかい」と読むそうで、パソコンで「さかい」と書いて変換してみると「界」がある。
また一つ勉強になった。
街道歩きの楽しみは、その地区の遺跡や建物などを見るのもいいが、また、その地区の伝説にも
会えるので面白い。
今回の日見宿にはいろいろな伝説があった。
歯痛(はつつき)観音(岩這薬師堂)
この観音像は片手を頬にあてており、遠い永い未来に想いを馳せ、何かを待ちつつ瞑想に
ふけっている姿があたかも歯が痛いのを押さえているように見える。
この観音像に願いをかけると歯の痛みが治るといわれています。
街道は、日見宿に入ってきました。
日見宿は長崎街道にあった25の宿場の一つでしたが、長崎に近いため宿泊する旅人はめったにおらず、
継ぎ場と呼ばれる人馬の中継所で一息ついていました。
その継ぎ場の近くにあるのが
三国屋橋です。
その昔、この宿場に三国屋という酒屋さんがあり、三代に渡って五郎七の名を襲名し、酒屋の傍ら
状待ち(飛脚)を務める人がいました。二代目五郎七は、江戸からの書状を長崎奉行に届ける際、
降りしきる雨で川が氾濫していた為、意を決して裸になり書状を頭に巻いてこの濁流を泳ぎきり無事
代官所に届けました。これを知った代官は五郎七の行為を称え、褒美に切り石で組んだアーチ式の橋を
かけ五郎七の屋号をとって「三国屋橋」と命名したそうです。
腹切坂
熊本細川候の家臣「某」、長崎より熊本へ帰郷の際、つづれ組の高名を聞き、途中、一手の試合を
申し込んだ。その結果は意外にも武士は敗れ、その昔は武士なれど今は町人の作右衛門の棒術に
凱歌が揚がった。この武士は、如何にしても無念やる方なく宿を見下ろす場所で武士の面目上、
とうとう腹を切って果てた。
村人達は哀れに思いこの武士を丁重に葬った。
ここを「腹切坂」と呼ぶようになった。
腹切坂を進むと団地の中に入っていく。
ここに「領境石」がある。天領日見と別れ
ここから佐賀藩矢上(現在長崎市矢上)です。
ここには大きなマンションが建ち並んでいる。
遠くに長崎総合大学のキャンパスが見える。
マンションが建ち並ぶ中、街道を見失ってしまった。
大体の見当をつけ歩いているが、ちょっと不安。
向こうから来た女子高校生に聞いてみるが「わからない」とのこと。
仕方なくその道を進んでいくと左側のお宅にご婦人がいらっしゃったので聞いてみた。
そのご婦人、私たちが今歩いているのが長崎街道で、この先の矢上神社まで詳しく教えていただいた。
ありがたい。
その教えどおり歩いていると「東望入口」という信号になった。
何か公園になっているらしい。
その信号の所に濱之大王神社がある。
この神社は、この先の矢上神社の分社です。
更に進むと番所橋が見えてくる。
この辺りが佐賀藩矢上の番所があったところだ。
矢上番所は、長崎街道の要所で平屋瓦葺の建物と門があり弓矢、槍、鉄砲等を置くなど役人が往来者の
警備や取締りを行っていた。
番所橋は、慶応3年(1867)の洪水により流失したが、この石材を使って明治初期に建替えられた。
現在の橋は昭和61年10月に架設され由緒あるごとく、擬宝珠の親柱になっている。
この番所の裏に諫早領役屋敷跡があった。
いまでいう区役所みたいなものでしょうか?
敷地内には、武道場もあったとされる。
番所橋の先が矢上宿
本陣は向こう側の自動車学校になっており、この矢上小学校が「脇本陣」になっている。
(続く)
日見峠を下ってくると「界」という町に入ってきた。
「界」どう読むんだろう?と同行の家内と話すが、わからない。
思い切って近くに女性がいらっしゃったので聞いてみた。
「さかい」と読むそうで、パソコンで「さかい」と書いて変換してみると「界」がある。
また一つ勉強になった。
街道歩きの楽しみは、その地区の遺跡や建物などを見るのもいいが、また、その地区の伝説にも
会えるので面白い。
今回の日見宿にはいろいろな伝説があった。
歯痛(はつつき)観音(岩這薬師堂)
この観音像は片手を頬にあてており、遠い永い未来に想いを馳せ、何かを待ちつつ瞑想に
ふけっている姿があたかも歯が痛いのを押さえているように見える。
この観音像に願いをかけると歯の痛みが治るといわれています。
街道は、日見宿に入ってきました。
日見宿は長崎街道にあった25の宿場の一つでしたが、長崎に近いため宿泊する旅人はめったにおらず、
継ぎ場と呼ばれる人馬の中継所で一息ついていました。
その継ぎ場の近くにあるのが
三国屋橋です。
その昔、この宿場に三国屋という酒屋さんがあり、三代に渡って五郎七の名を襲名し、酒屋の傍ら
状待ち(飛脚)を務める人がいました。二代目五郎七は、江戸からの書状を長崎奉行に届ける際、
降りしきる雨で川が氾濫していた為、意を決して裸になり書状を頭に巻いてこの濁流を泳ぎきり無事
代官所に届けました。これを知った代官は五郎七の行為を称え、褒美に切り石で組んだアーチ式の橋を
かけ五郎七の屋号をとって「三国屋橋」と命名したそうです。
腹切坂
熊本細川候の家臣「某」、長崎より熊本へ帰郷の際、つづれ組の高名を聞き、途中、一手の試合を
申し込んだ。その結果は意外にも武士は敗れ、その昔は武士なれど今は町人の作右衛門の棒術に
凱歌が揚がった。この武士は、如何にしても無念やる方なく宿を見下ろす場所で武士の面目上、
とうとう腹を切って果てた。
村人達は哀れに思いこの武士を丁重に葬った。
ここを「腹切坂」と呼ぶようになった。
腹切坂を進むと団地の中に入っていく。
ここに「領境石」がある。天領日見と別れ
ここから佐賀藩矢上(現在長崎市矢上)です。
ここには大きなマンションが建ち並んでいる。
遠くに長崎総合大学のキャンパスが見える。
マンションが建ち並ぶ中、街道を見失ってしまった。
大体の見当をつけ歩いているが、ちょっと不安。
向こうから来た女子高校生に聞いてみるが「わからない」とのこと。
仕方なくその道を進んでいくと左側のお宅にご婦人がいらっしゃったので聞いてみた。
そのご婦人、私たちが今歩いているのが長崎街道で、この先の矢上神社まで詳しく教えていただいた。
ありがたい。
その教えどおり歩いていると「東望入口」という信号になった。
何か公園になっているらしい。
その信号の所に濱之大王神社がある。
この神社は、この先の矢上神社の分社です。
更に進むと番所橋が見えてくる。
この辺りが佐賀藩矢上の番所があったところだ。
矢上番所は、長崎街道の要所で平屋瓦葺の建物と門があり弓矢、槍、鉄砲等を置くなど役人が往来者の
警備や取締りを行っていた。
番所橋は、慶応3年(1867)の洪水により流失したが、この石材を使って明治初期に建替えられた。
現在の橋は昭和61年10月に架設され由緒あるごとく、擬宝珠の親柱になっている。
この番所の裏に諫早領役屋敷跡があった。
いまでいう区役所みたいなものでしょうか?
敷地内には、武道場もあったとされる。
番所橋の先が矢上宿
本陣は向こう側の自動車学校になっており、この矢上小学校が「脇本陣」になっている。
(続く)