2月6日
博多発6:02の特急かもめに乗り諫早へ。諫早から大村線に乗り換え前回ゴールの大村へ。
大村駅に着いたのが8:10。
先ず、大村駅から商店街をめざして歩き出す。
商店街はまだ早いのか開いているお店が少ない。この商店街の一角に「浦川豆店」というのがあります。
ここの「塩茹でピーナツ」が美味しくてお店が開いていれば是非買っていきたいのですが・・・・
私の日頃の行いがいいのか、「浦川豆店」はもう開いていました。
すぐ、「塩茹でピーナツ」と「殻付きピーナツ」をゲット。
お店の方と少しお話すると大村では給食の「筑前煮」などにこの塩茹でピーナツが使われているそうです。
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お店をあとに前回ゴールの大村宿本陣(大村浜屋デパート)へ。
この本陣は、鯨長者「深沢義太夫」が寄進したそうです。建坪200坪の本陣だったそうです。
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「脇本陣」は、アーケードの終った所にあった。
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アーケードを抜けるとそこは「水主町(かこまち)」。昔水夫さん達が住んでいた町だそうだ。
そういえば、鯨長者が本陣の所でしたからやはり鯨の仕事だったでしょうか?
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水主町、観音寺跡を過ぎると「杭出津町(くいでづ)」に入ります。ここは、昔からの家並みが多く、
「あんこ屋」さんなんか何か懐かしさがこみ上げてきます。
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「追分石」を抜けて右の方に行くと本経寺があります。
ここは、大村藩主歴代の墓所。石屋さんの角を曲がるとずーっと続く百軒の白壁。
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大村家は、中世から大村を治め江戸時代には大村湾一帯を統治した。27000石の大名となりこれが明治まで
続いた。
戦国時代末期、領主大村純忠は、日本の最初のキリシタン大名となり、領内のキリスト教布教を強力に支援したこと
から領民の殆どがキリスト教信者となり、領内の神社仏閣は破壊された。
秀吉、家康によりキリスト教禁教となり、大村藩は、藩の存続の為キリスト教の禁止と仏教の復興を行うことが
求められた。初代藩主大村喜前は加藤清正の薦めで日蓮宗への改宗を決め、肥後・本妙寺より日眞上人を招き
日蓮宗の布教と寺院の復興を行った。こうして最初に建立したのがこの「本経寺」だ。
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大村家藩主のお墓を見ていると6mもある塔や五輪塔など私が今まで見た墓の中でもホント立派なお墓だった。
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大村の歴史を見てみると郡崩れというのがある。
「1657年大村領内で「郡崩れ」という事件があった。これは、大村の郡というところに天草四郎の生まれかわりと
いう神童が現れその神童は、萱瀬の山奥に不思議な絵を隠し持って人々に布教しているというものだった。
これを人伝いに聞いた長崎奉行の黒川与兵衛は、約20数年前に起きた島原の乱のようなキリシタンを中心にした
一揆が起こることを恐れ、大村藩に命じて領内のキリシタンを摘発した。その結果、大村の郡村を中心に
キリシタン608人が捉えられた。このうち411人に斬首という処罰が下された。
翌年には411人の内131人が大村の放虎原で処刑された。そして長崎街道沿いの獄門所で131人の首を
塩漬けにして20日間ほどさらし首にした。そしてその後遺体が蘇らないよう首と胴体を別々にして
首塚、胴塚を作って葬った。」
妻子別れの石
大村で処刑されることになった131人は大村牢から200人の武士の厳しい警護をうけて斬罪所に連行された。
この信者達が家族との最後の別れを惜しみ水盃を交わした場所がここである。
地面に半分埋まっている石がこれにあたる。
言い伝えによるとこの石はとめどなく流れた悲しみの涙で濡れたので「涙石」と呼ばれ苔が生えないと言われている。
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獄門所跡
聖母マリアと子どもの像があった。
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胴塚跡
八坂神社の近くにあり、像は天空に向かって祈っています。
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首塚跡
街道沿いの「カトリスーパー」の裏手に建っています。
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この長崎街道(大村)を歩き、江戸時代こんな悲しい出来事があったなんてとても心が痛みます。
では、領主の大村純忠はどうしてキリシタンになったのでしょうか?
キリシタン大名は、島原の有馬、豊後の大友など昊海に面した領地です。
私見ではありますが、キリシタンになって諸外国との交易を有利にするためだったのでしょうか?
悲しみに沈んだ心を取り戻し再び街道を歩き始めます。
街道は国道34号線と合流しています。
道路標識には鳥栖まであと95kmの表示があります。今日のゴール地嬉野宿まではあと23km。
時間を見ると10時50分。だいぶん道草をしたので今日のゴール嬉野まで着けるだろうか?
特に彼杵から嬉野までは山道だし・・・・同行している家内と少し急ごうと話し合う。
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右側に大きなお宮が見えてきました。
看板には昊天宮(こうてんぐう)と書いてあります。
この街道歩き、何か興味があるものを見つけると「折角だから」という言葉をよく家内と使います。
「折角来たんだし何でも見てみよう。今度はいつ来るかわからないし・・・・・」
これだから予定時間を大幅にオーバーするんですね。(笑)
今回も折角だからといって昊天宮に入っていきます。
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この昊天宮 旧肥前国彼杵郡の大村藩総鎮守で、由緒を見ると
文明6年(1474)大村領主純伊候は島原の有馬氏との合戦で敗れ松浦の加唐島に潜居し7年も及びました。
この間日夜御祈願になりご自身本堂川において身を清め千日参拝すると誓願を立てられところ、伊勢参宮せよと
霊夢を得て参拝の途次援護者が現れ大勝利となって無事大村へ帰還されました。
この領主のご帰還を祝って領民が歓迎のため食事を振舞おうとしたが食器が足りず木箱に炊き立てのご飯を広げ
肴の切り身や野菜のみじん切りをのせ、更にそれを挟むように飯や具をのせた押し寿司を作り、兵が脇差で
四角に切って食べたのが大村寿司の始まりです。
再び街道を歩く。
街道は国道に入ったり少し出たりする。
郡川の手前長崎惣兵衛の墓がある。
長崎惣兵衛は、玖島城(大村城)築城の時の奉行を務めた。
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長崎惣兵衛の墓を過ぎると郡川がある。
川を見ると飛び石になっている。
昔は飛び石で渡っていたのだろうか?
私も渡って行こうかなと思ったが、すべりでもして怪我したら嬉野までは行けないので
福重橋を渡っていった。
ここから「松原宿」に入ります。
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博多発6:02の特急かもめに乗り諫早へ。諫早から大村線に乗り換え前回ゴールの大村へ。
大村駅に着いたのが8:10。
先ず、大村駅から商店街をめざして歩き出す。
商店街はまだ早いのか開いているお店が少ない。この商店街の一角に「浦川豆店」というのがあります。
ここの「塩茹でピーナツ」が美味しくてお店が開いていれば是非買っていきたいのですが・・・・
私の日頃の行いがいいのか、「浦川豆店」はもう開いていました。
すぐ、「塩茹でピーナツ」と「殻付きピーナツ」をゲット。
お店の方と少しお話すると大村では給食の「筑前煮」などにこの塩茹でピーナツが使われているそうです。
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お店をあとに前回ゴールの大村宿本陣(大村浜屋デパート)へ。
この本陣は、鯨長者「深沢義太夫」が寄進したそうです。建坪200坪の本陣だったそうです。
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「脇本陣」は、アーケードの終った所にあった。
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アーケードを抜けるとそこは「水主町(かこまち)」。昔水夫さん達が住んでいた町だそうだ。
そういえば、鯨長者が本陣の所でしたからやはり鯨の仕事だったでしょうか?
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水主町、観音寺跡を過ぎると「杭出津町(くいでづ)」に入ります。ここは、昔からの家並みが多く、
「あんこ屋」さんなんか何か懐かしさがこみ上げてきます。
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「追分石」を抜けて右の方に行くと本経寺があります。
ここは、大村藩主歴代の墓所。石屋さんの角を曲がるとずーっと続く百軒の白壁。
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大村家は、中世から大村を治め江戸時代には大村湾一帯を統治した。27000石の大名となりこれが明治まで
続いた。
戦国時代末期、領主大村純忠は、日本の最初のキリシタン大名となり、領内のキリスト教布教を強力に支援したこと
から領民の殆どがキリスト教信者となり、領内の神社仏閣は破壊された。
秀吉、家康によりキリスト教禁教となり、大村藩は、藩の存続の為キリスト教の禁止と仏教の復興を行うことが
求められた。初代藩主大村喜前は加藤清正の薦めで日蓮宗への改宗を決め、肥後・本妙寺より日眞上人を招き
日蓮宗の布教と寺院の復興を行った。こうして最初に建立したのがこの「本経寺」だ。
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大村家藩主のお墓を見ていると6mもある塔や五輪塔など私が今まで見た墓の中でもホント立派なお墓だった。
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大村の歴史を見てみると郡崩れというのがある。
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いう神童が現れその神童は、萱瀬の山奥に不思議な絵を隠し持って人々に布教しているというものだった。
これを人伝いに聞いた長崎奉行の黒川与兵衛は、約20数年前に起きた島原の乱のようなキリシタンを中心にした
一揆が起こることを恐れ、大村藩に命じて領内のキリシタンを摘発した。その結果、大村の郡村を中心に
キリシタン608人が捉えられた。このうち411人に斬首という処罰が下された。
翌年には411人の内131人が大村の放虎原で処刑された。そして長崎街道沿いの獄門所で131人の首を
塩漬けにして20日間ほどさらし首にした。そしてその後遺体が蘇らないよう首と胴体を別々にして
首塚、胴塚を作って葬った。」
妻子別れの石
大村で処刑されることになった131人は大村牢から200人の武士の厳しい警護をうけて斬罪所に連行された。
この信者達が家族との最後の別れを惜しみ水盃を交わした場所がここである。
地面に半分埋まっている石がこれにあたる。
言い伝えによるとこの石はとめどなく流れた悲しみの涙で濡れたので「涙石」と呼ばれ苔が生えないと言われている。
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獄門所跡
聖母マリアと子どもの像があった。
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胴塚跡
八坂神社の近くにあり、像は天空に向かって祈っています。
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首塚跡
街道沿いの「カトリスーパー」の裏手に建っています。
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この長崎街道(大村)を歩き、江戸時代こんな悲しい出来事があったなんてとても心が痛みます。
では、領主の大村純忠はどうしてキリシタンになったのでしょうか?
キリシタン大名は、島原の有馬、豊後の大友など昊海に面した領地です。
私見ではありますが、キリシタンになって諸外国との交易を有利にするためだったのでしょうか?
悲しみに沈んだ心を取り戻し再び街道を歩き始めます。
街道は国道34号線と合流しています。
道路標識には鳥栖まであと95kmの表示があります。今日のゴール地嬉野宿まではあと23km。
時間を見ると10時50分。だいぶん道草をしたので今日のゴール嬉野まで着けるだろうか?
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右側に大きなお宮が見えてきました。
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この街道歩き、何か興味があるものを見つけると「折角だから」という言葉をよく家内と使います。
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これだから予定時間を大幅にオーバーするんですね。(笑)
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この昊天宮 旧肥前国彼杵郡の大村藩総鎮守で、由緒を見ると
文明6年(1474)大村領主純伊候は島原の有馬氏との合戦で敗れ松浦の加唐島に潜居し7年も及びました。
この間日夜御祈願になりご自身本堂川において身を清め千日参拝すると誓願を立てられところ、伊勢参宮せよと
霊夢を得て参拝の途次援護者が現れ大勝利となって無事大村へ帰還されました。
この領主のご帰還を祝って領民が歓迎のため食事を振舞おうとしたが食器が足りず木箱に炊き立てのご飯を広げ
肴の切り身や野菜のみじん切りをのせ、更にそれを挟むように飯や具をのせた押し寿司を作り、兵が脇差で
四角に切って食べたのが大村寿司の始まりです。
再び街道を歩く。
街道は国道に入ったり少し出たりする。
郡川の手前長崎惣兵衛の墓がある。
長崎惣兵衛は、玖島城(大村城)築城の時の奉行を務めた。
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長崎惣兵衛の墓を過ぎると郡川がある。
川を見ると飛び石になっている。
昔は飛び石で渡っていたのだろうか?
私も渡って行こうかなと思ったが、すべりでもして怪我したら嬉野までは行けないので
福重橋を渡っていった。
ここから「松原宿」に入ります。
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