3/20 旧山陽道12日目(周防高森~柱野)
山陽道もここまで来ると来る時間も博多から約5時間かかってしまいます。
今日も6:00に博多駅を出て前回ゴール地の周防高森駅に10時40分に着きました。
おまけに朝から小雨模様。傘をさしてのウオーキングです。
高森の駅前の信号を左折します。
すぐ目につくのが「宇野千代文学碑」
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「おはん」「生きていく私」などの小説を書かれた宇野千代さんは、岩国・川西で生まれましたが、お父さんの実家がここ高森だったそうです。
文学碑には下記のことが書かれていました。
私の生ま故郷は周防の岩国である。父の俊二は岩国から4里ほど奥の高森という町の造り酒屋から分家して岩国へ出た。
私は子供のころからうちの本家は高森にあるということを知っていた。
その高森までの4里の道を歩いたり、人力車に乗ったり、また馬の背に乗ったりして本家に行ったからである。
時には一年もの間そこで暮らしたこともある。本家は分家の私の家とは較べものにならないほどの分権者であった。
この地方随一の多額納税者であった。私の家は貧乏だったけどその分権者の分家であるというので
町の人からなんとなく特別な家と思われていた。よその家のむすめであったら「千代さん」と呼ばれるのに
「千代さま」と呼ばれていた。 (以下略)
文学碑の横には淡墨桜(薄墨桜)が満開でした。
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高森宿の本陣は文学碑のすぐ横にありました。
高森本陣は相川家が務め別名相川本陣と呼ばれていました。
また、第二次長州戦争の幕府と長州の休戦協定になった所です。
隣にはなまこ塀の家があります。元酒屋さんだったそうです。
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「椙杜(すぎのもり)八幡宮」
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椙杜氏は大江広元同様朝臣であったが、鎌倉幕府に仕えて問注所初代執事となった三善康信を祖とする。
鎌倉時代中期、三善康連は下野国太田庄を領して太田氏を称した。建武の新政の後、太田時直は足利尊氏に従って活動し、
祖父の太田貞連から玖珂郡椙杜郷の地頭職を譲られた。
時直の孫・太田正康は南北朝時代に南朝勢力の強い九州を平定すべく、筑後国に所領を得て、西国に下り、
その後周防国椙杜郷に移り、椙杜を名字として、大内氏の被官となった。(ウィキペディアより)
故郷鎌倉より鶴岡八幡宮を分身し祀りました。
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旧街道は国道2号線と合流します。
このあたりはホームセンターなどの大型ショッピングセンターが立ち並んでいます。
雨も小雨から幾分強くなってきました。折り畳み傘では間に合わなくなり、ドラッグストアで大きめの傘を買いました。
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しばらく岩徳線、2号線沿いに歩きますが、須佐神社の先で右折します。(県道144号)
間もなく「玖珂市」に入っていきます。左側には菅原道真を祀った「菅原神社」があります。
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玖珂市の旧家には、網代みたいな妻壁の家が多く見られます。
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水無川を渡ると玖珂町の中心部にやってきます。
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右側を見てみますと近代的な建物が目につきます。
これは「Kid Museum」といって玖珂子供の館です。
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岩国市役所玖珂支所の所には代官所、小学校の所にはお茶屋がありました。
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旅館もあります。昔は旅籠だったのでしょうか?
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玖珂駅を過ぎると道が二手に分かれておりこれを左に向かうと、「義民 田坂市良右衛門 碑」があります。
それによると
田坂家は代々町方大年寄格を世襲していた。安政年間(1854~1859)玖珂は岩国吉川藩領の代官所として玖珂など七ヶ村を統括していた。
代官は政治、産業、租税、刑罰を掌って強大な権勢を有し村民に重税を課し度を超えた贅沢にふけり、七ヶ村民の怨みの声は巷に
満ちていた。
市良右衛門は村民のこの窮状を排しなくては丈夫でないと決意して代官に面接して悪政を改めるように進言説得した。
代官は大いに怒り彼は役人の悪口を言う者として法の力で岩国山の北獄に265日間幽門し、柱島へ流して田坂家を
没収するといわんばかりであった。
村民有志の訴えによって官は市良右衛門の無実の罪を知り刑を軽くして釈放した。
その後市良右衛門は年寄格に復し刀根取(庄屋の助役)に任ぜられ税を軽くして積年の弊害を取り除いた。 と書いてます。
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更に岩徳線沿いに進みます。道のそばには菜の花が満開です。
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欽明路駅を過ぎると左側に面白い建物が見えてきます。
これは東部コミュニュティセンターで旧玖珂小学校です。
先には「学制頒布50年記念」という碑が建てられていました。建てられたのが大正11年というから明治5年の学制改革から50年ということでしょうか?
この旧小学校と何か関係がありそうですね。
「周防源氏武田氏屋敷及墓所」
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戦国時代の天文9年(1540)11月安芸源氏の武田小三郎公は、毛利元就公の援助により欽明路に移り、周防源氏の祖となり刑部少輔を称しました。
その後織田、豊臣時代を経て徳川時代に至り代々功績をあげましたが、文政元年(1818)12世武田宗左衛門公は文武両道の稽古屋敷をこの地に
設けました。この稽古屋敷は明治時代の中野口小学校の前身になりました。
その後も武田氏は郷土の育英事業に尽力し、明治、大正時代に玖珂実業補修女学校、大正学校の設置、16世武田甲斐人氏(1894~1976)は
玖珂町英正学校理事として中等教育の向上に努めてきました。
大正6年(1917)武田氏は広島呉市に移転して大正中学を設置しその後も呉港学園として現在に至っています。
屋敷内には歴代の墓を始め井戸、稽古屋敷跡の碑があり屋敷跡の前面には門と白壁の築地があります。/>
その先には欽明路の名の元になった欽明寺があります。今日はお彼岸の中日でお参りに来られる人もいました。
欽明寺は、欽明天皇(540~571)が御幸の際、ここに休息され欽明の名をいただいて寺号にしたと伝えられています。
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欽明寺前から欽明路峠にさしかかる峠は、山陽道の中でもかなりの難所であった。
万葉集に「周防なる盤国山を越えむ日は手向けよくせよ荒らしその道」とありますが峠をっ欽明路峠と称するのはこの寺号にちなみます。
境内には天皇が座られたという「腰掛の石」があります。
しとしと降っていた雨も止んできました。欽明寺を過ぎるといよいよ山陽道の難所「欽明路峠」に差し掛かります。雨のためか峠は霧です。
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途中には山陽道欽明路トンネルがあります。
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中峠へ
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中峠からの下りは急です。東から来た人はこの坂きついでしょうね。そばには不法投棄禁止の鳥居がたくさん立てられています。
欽明路バイパスのトンネルを過ぎると山里の風景に出合います。
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旧街道は「柱野」に入りました。
この中学校は廃校になっていますが、屋根の形が面白いですね。
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そろそろ帰りの時間が気になります。岩徳線は1時間半に一本ぐらいですので前もって調べておきました。
14時45分柱野発岩国行。時計は14時半を示しています。
歩いていては間に合わないみたいですので柱野駅まで走ります。
14時40分柱野駅到着。間に合いました。
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肝心の錦帯橋の桜は1分から2分咲きだそうです。24日に錦帯橋を予定していましたが、来週には満開になると思い次回は来週に延期します。
本日のGPSです。距離は15.3kmになっていました。
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山陽道もここまで来ると来る時間も博多から約5時間かかってしまいます。
今日も6:00に博多駅を出て前回ゴール地の周防高森駅に10時40分に着きました。
おまけに朝から小雨模様。傘をさしてのウオーキングです。
高森の駅前の信号を左折します。
すぐ目につくのが「宇野千代文学碑」
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「おはん」「生きていく私」などの小説を書かれた宇野千代さんは、岩国・川西で生まれましたが、お父さんの実家がここ高森だったそうです。
文学碑には下記のことが書かれていました。
私の生ま故郷は周防の岩国である。父の俊二は岩国から4里ほど奥の高森という町の造り酒屋から分家して岩国へ出た。
私は子供のころからうちの本家は高森にあるということを知っていた。
その高森までの4里の道を歩いたり、人力車に乗ったり、また馬の背に乗ったりして本家に行ったからである。
時には一年もの間そこで暮らしたこともある。本家は分家の私の家とは較べものにならないほどの分権者であった。
この地方随一の多額納税者であった。私の家は貧乏だったけどその分権者の分家であるというので
町の人からなんとなく特別な家と思われていた。よその家のむすめであったら「千代さん」と呼ばれるのに
「千代さま」と呼ばれていた。 (以下略)
文学碑の横には淡墨桜(薄墨桜)が満開でした。
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高森宿の本陣は文学碑のすぐ横にありました。
高森本陣は相川家が務め別名相川本陣と呼ばれていました。
また、第二次長州戦争の幕府と長州の休戦協定になった所です。
隣にはなまこ塀の家があります。元酒屋さんだったそうです。
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「椙杜(すぎのもり)八幡宮」
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椙杜氏は大江広元同様朝臣であったが、鎌倉幕府に仕えて問注所初代執事となった三善康信を祖とする。
鎌倉時代中期、三善康連は下野国太田庄を領して太田氏を称した。建武の新政の後、太田時直は足利尊氏に従って活動し、
祖父の太田貞連から玖珂郡椙杜郷の地頭職を譲られた。
時直の孫・太田正康は南北朝時代に南朝勢力の強い九州を平定すべく、筑後国に所領を得て、西国に下り、
その後周防国椙杜郷に移り、椙杜を名字として、大内氏の被官となった。(ウィキペディアより)
故郷鎌倉より鶴岡八幡宮を分身し祀りました。
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旧街道は国道2号線と合流します。
このあたりはホームセンターなどの大型ショッピングセンターが立ち並んでいます。
雨も小雨から幾分強くなってきました。折り畳み傘では間に合わなくなり、ドラッグストアで大きめの傘を買いました。
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しばらく岩徳線、2号線沿いに歩きますが、須佐神社の先で右折します。(県道144号)
間もなく「玖珂市」に入っていきます。左側には菅原道真を祀った「菅原神社」があります。
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玖珂市の旧家には、網代みたいな妻壁の家が多く見られます。
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水無川を渡ると玖珂町の中心部にやってきます。
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右側を見てみますと近代的な建物が目につきます。
これは「Kid Museum」といって玖珂子供の館です。
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岩国市役所玖珂支所の所には代官所、小学校の所にはお茶屋がありました。
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旅館もあります。昔は旅籠だったのでしょうか?
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玖珂駅を過ぎると道が二手に分かれておりこれを左に向かうと、「義民 田坂市良右衛門 碑」があります。
それによると
田坂家は代々町方大年寄格を世襲していた。安政年間(1854~1859)玖珂は岩国吉川藩領の代官所として玖珂など七ヶ村を統括していた。
代官は政治、産業、租税、刑罰を掌って強大な権勢を有し村民に重税を課し度を超えた贅沢にふけり、七ヶ村民の怨みの声は巷に
満ちていた。
市良右衛門は村民のこの窮状を排しなくては丈夫でないと決意して代官に面接して悪政を改めるように進言説得した。
代官は大いに怒り彼は役人の悪口を言う者として法の力で岩国山の北獄に265日間幽門し、柱島へ流して田坂家を
没収するといわんばかりであった。
村民有志の訴えによって官は市良右衛門の無実の罪を知り刑を軽くして釈放した。
その後市良右衛門は年寄格に復し刀根取(庄屋の助役)に任ぜられ税を軽くして積年の弊害を取り除いた。 と書いてます。
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更に岩徳線沿いに進みます。道のそばには菜の花が満開です。
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欽明路駅を過ぎると左側に面白い建物が見えてきます。
これは東部コミュニュティセンターで旧玖珂小学校です。
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先には「学制頒布50年記念」という碑が建てられていました。建てられたのが大正11年というから明治5年の学制改革から50年ということでしょうか?
この旧小学校と何か関係がありそうですね。
「周防源氏武田氏屋敷及墓所」
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戦国時代の天文9年(1540)11月安芸源氏の武田小三郎公は、毛利元就公の援助により欽明路に移り、周防源氏の祖となり刑部少輔を称しました。
その後織田、豊臣時代を経て徳川時代に至り代々功績をあげましたが、文政元年(1818)12世武田宗左衛門公は文武両道の稽古屋敷をこの地に
設けました。この稽古屋敷は明治時代の中野口小学校の前身になりました。
その後も武田氏は郷土の育英事業に尽力し、明治、大正時代に玖珂実業補修女学校、大正学校の設置、16世武田甲斐人氏(1894~1976)は
玖珂町英正学校理事として中等教育の向上に努めてきました。
大正6年(1917)武田氏は広島呉市に移転して大正中学を設置しその後も呉港学園として現在に至っています。
屋敷内には歴代の墓を始め井戸、稽古屋敷跡の碑があり屋敷跡の前面には門と白壁の築地があります。/>
その先には欽明路の名の元になった欽明寺があります。今日はお彼岸の中日でお参りに来られる人もいました。
欽明寺は、欽明天皇(540~571)が御幸の際、ここに休息され欽明の名をいただいて寺号にしたと伝えられています。
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欽明寺前から欽明路峠にさしかかる峠は、山陽道の中でもかなりの難所であった。
万葉集に「周防なる盤国山を越えむ日は手向けよくせよ荒らしその道」とありますが峠をっ欽明路峠と称するのはこの寺号にちなみます。
境内には天皇が座られたという「腰掛の石」があります。
しとしと降っていた雨も止んできました。欽明寺を過ぎるといよいよ山陽道の難所「欽明路峠」に差し掛かります。雨のためか峠は霧です。
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途中には山陽道欽明路トンネルがあります。
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中峠へ
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中峠からの下りは急です。東から来た人はこの坂きついでしょうね。そばには不法投棄禁止の鳥居がたくさん立てられています。
欽明路バイパスのトンネルを過ぎると山里の風景に出合います。
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旧街道は「柱野」に入りました。
この中学校は廃校になっていますが、屋根の形が面白いですね。
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そろそろ帰りの時間が気になります。岩徳線は1時間半に一本ぐらいですので前もって調べておきました。
14時45分柱野発岩国行。時計は14時半を示しています。
歩いていては間に合わないみたいですので柱野駅まで走ります。
14時40分柱野駅到着。間に合いました。
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肝心の錦帯橋の桜は1分から2分咲きだそうです。24日に錦帯橋を予定していましたが、来週には満開になると思い次回は来週に延期します。
本日のGPSです。距離は15.3kmになっていました。
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