よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№35「沼津宿~三島宿」(静岡県沼津市~三島市)

2018-04-15 15:00:06 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/9(月)晴れ。前日福島から移動し、今日から3日間東海道を歩きます。今回の最大のテーマは、この東海道最大の難所「箱根峠」を越えることです。

三島発8:15の電車で前回のゴール地、沼津に向かいます。

  

 三枚橋城は、「北条氏政書状」によると天正7年(1579)、武田勝頼が築城したとされる。武田氏の滅亡後の天正10年(1582)、徳川家康の命により松井忠次(松平康親)が城主となり、

天正18年(1590)には豊臣秀吉の家臣中村一氏の弟中村一栄が城主となっている。その後、慶長6年(1601)大久保治右衛門忠佐が城主となるが、同19年(1614)、

忠佐の死後跡継ぎがないため三枚橋城は廃城となり、以後160余年間沼津に城はなかった。

安永6年(1777)に、後に老中となる水野忠友が同じ地に沼津城を築城する。沼津は城下町として発展し、城の南北は現在の静岡銀行沼津支店から沼津駅の手前までで、

大手門は静岡銀行の西向い側に造られ、本丸は中央公園辺りにあった。歴代藩主は忠友・忠成(ただあきら)・忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)・忠敬(ただのり)と続くが、

忠敬の時明治に至り、徳川氏の駿河移封に伴い、水野藩は菊間(千葉県市原市)に移り、明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用された。(沼津市HPより)

広重の東海道浮世絵の「沼津」は、夕刻、狩野川を渡る親子連れ、天狗の面を背負った人が描かれています。また、広重の東海道浮世絵の中で唯一「満月」が描かれています。 

  

  

前回2月に沼津を歩いた時は、風が強く、私の相棒の風車が飛んでいきましたが、今回も風が強く、二代目の風車も勢いよく廻っています。

沼津の一里塚の所に「玉砥石」が」二つ置かれています。奈良・平安時代に玉を研ぐために使ったもので日枝神社の参道脇に江戸時代から置かれていたそうです。

  

 

日枝神社に行くため県道に出ると、沼津警察署の前に「友情の碑」が建てられています。何だろう?と見てみると、

昭和29年 5月5日 こどもの日
こどもの日という事で、町内会の催し物があったのですが、中学生の少年は、家の手伝いで、木材をリヤカーで、運ぼうとしていました。

そんな彼を、みんなで運べば速く終わって、みんなで催し物に参加出来ると3人の友だちが(中学生1人、小学生2人)手伝っていました。

しかし、そこに 飲酒運転のトラックが突っ込み、彼らを畑に突き落としました。2人の少年が即死、1人が重体という、悲しい事故が起こったのです。

少年達の友情と、彼らの命を奪った、飲酒運転事故を、忘れてはいけない。そうして、この≪友情の像≫がたてられました

この日からもう60数年経ち、飲酒運転には厳罰が科せられるようになりましたが、変わらず飲酒運転での事故が絶えません。「飲んだら乗るな」を守ってほしいものです。

  

平作地蔵尊」があります。

歌舞伎や人形浄瑠璃の「伊賀越道中双六沼津の段」の中に、平作・呉服屋十兵衛・お米の織りなす悲劇の場面がある。「伊賀越」は、歌舞伎や人形浄瑠璃における三大仇討ちとして

「忠臣蔵」「曾我」とともに、広く知られているものの一つである。
この物語は、寛永11年(1634)備前岡山藩池田の家中、渡辺数馬が、姉婿である剣客荒木又右衛門の助けをかりて、弟の仇河合又五郎を伊賀上野城下鍵屋の辻で討った史実を脚色したものである。
複雑な事情と人間関係が織りなすこの物語は、義理と人情の板挟みの物語として当時の人々に受け入れられ、平作じいさんの胸中は、後々の人々の心をうち、語り伝えられてきた。

この地蔵尊は子育て延命地蔵であるが、「伊賀越道中双六」の名場面として知られる沼津の段にちなみ、「平作地蔵」とも言われている。(沼津市HPより)

  

大岡の町に入りました。しばらく歩くと「沼津藩領東榜示杭」があります。

榜示とは支配関係者が杭または石などによって、領域や領田の表示としたものを意味すると考えられ、境界のしるしに立てた杭を榜示杭と呼んでいる。江戸時代に入り、人の往来の激しい街道筋で、

天領や私領の入り込んでいるところは人々に領域の存在をはっきり知らせるため、街道の傍らに榜示杭が立てられていた。

安永6年(1777)、水野出羽守忠友は、2万石の大名として10代将軍徳川家治から沼津に城地を賜り、築城を命じられた。沼津の地は韮山代官支配領であったので、

代官江川太郎左衛門から城地を正式に請け取っている。翌7年(1778)、沼津藩の領域を示す榜示(ぼうじ)を設けたと考えられる。これは、沼津藩の東限を示すもので、沼津市西間門の

八幡神社前に残る榜示杭に対応している。碑の西側を除く3面に「従是西沼津領」と刻まれている。破損もなく、保存状態は非常によい。藩の領域を示す貴重な史料である。(沼津市HPより)

  

潮音寺に亀鶴姫の碑があります。説明文によると、黄瀬川村に小野善司左エ門政なる長者あり、子なきを悲しみ、祈願。一子を授る。亀鶴姫と名付く。七歳の春、両親に死別、

十八歳の時、源頼朝公富士の牧狩も宴に再度召されたが、応ぜず、この世を憂き事と思い、黄瀬川の水上、百沢の滝の畔に立ち、「み仏の深き恵みぞ頼みなる。身は滝きつ瀬の

あわと消ゆとも」と一首の歌を残して飛泉に身を沈む。この時建久四年(1193年)5月27日なり。姫は駿河の三美人と言われ賢女にて亀鶴草紙を残す。(説明文より)

また、一説では、曽我兄弟の仇「工藤祐経」の愛人が亀鶴とも言われています。調べてみると、仇討と身を投じた日が一緒ですね。

  

 智方神社: ご祭神は後醍醐天皇の皇子護良親王です。倒幕に貢献したものの謀反の容疑をかけられた護良親王は鎌倉に幽閉され殺害された。寵姫、南の方は親王の首を密かに持ち出し、

東海道を西へ逃れたものの黄瀬川の氾濫で断念、この地に首を葬り、クスノキを植えて標としたと伝わっています。境内にはそのクスノキの大木がそびえています。

 

 清水町には、八幡神社に対面石があります。治承四年(1180)十月、陛下の軍勢が富士川辺りまで押し寄せた時、鎌倉にあった源頼朝は、この地に出陣した。たまたま奥州から駆け付けた

弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い懐旧の涙にくれたという。この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。また、この時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、

渋柿だったので傍らに捨てた。すると、後に芽をだし二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹を絡ませねじりあっていたのでいつしか、ねじり柿と呼ぶようになった。(説明文より)

  

八幡の信号の先の玉井寺、また道の反対側の宝池寺に一里塚があります。このようなお寺の両側に一里塚があるのは、初めて見ました。

玉井寺の一里塚は、江戸時代のものがそのまま現存、宝池寺の一里塚は、昭和60年(1985)に改修されたものです。

  

境川にかかる所に「千貫樋」があります。この川で駿河国と伊豆国の境です。

千貫樋(せんがんどい)は、三島の楽寿園に湧水を清水町まで灌漑用水として利用する為にかけられた疎水(樋)です。千貫樋の名前は、架樋の技術が素晴らしく、金千貫に値することから

その名がつけられた、との話が残っています。初めは、木樋でしたが、関東大震災で崩落し現在のコンクリート製になりました。

  

三島市に入ってきました。三島広小路には、伊豆箱根鉄道駿豆線(三島~修善寺)の駅があります。このあたりが三島市の中心部です。

  

踏切を渡ると鰻屋さんの所に「時の鐘」があります。江戸時代に朝と夕、時刻を知らせるため鳴らされていました。大戦の時に供出されましたが、昭和25年(1950)市民の有志により

平和の鐘として復興しました。時の鐘の裏手には、「三石神社」があります。三石神社は、元御殿川の川辺に三ツ石と称する巨石があり、その上に社殿を建てて稲荷の神を祀ったそうです。

  

時の鐘の横には、源兵衛橋があります。源兵衛川は、楽寿園・小浜池を起点として1,5kmの農業用水路です。きれいな水「三島」の元にもなっています。

   

本町交差点の所に三島宿の本陣「樋口伝左衛門本陣」、その向かいには、「世古六太夫本陣」があります。

江戸時代の三島宿は、家数1025軒(本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠74軒)、人口4084人でした。

   

長圓寺の山門には、世古本陣の門が移設されていました。

  

本町郵便局の角には、「問屋場跡」があります。先に進むと、築後140年の丸平商店です。昔は、金物店だったそうですが、現在は、食べ物屋さんになっています。

時間も11時半を回りましたのでここでランチをいただくことにしました。

  

丸平のランチ「源兵衛膳」。