4/9(月) ランチの後、三嶋大社に行ってきました。三嶋大社は、三島の地名の由来となった、伊豆国の一宮です。祭神は、「三嶋大明神」。
創建の時代は、不明ですが、延喜式神名帳(927年)にその名が記載されています。源頼朝が挙兵の時、祈願して以来、多くの武家、庶民の信仰を集めています。
「三嶋暦」を発行し、全国に名を知られていました。
三嶋大社は、桜は盛りを過ぎ、つつじが咲き始めていました。広重の三島宿は、朝霧の中、三嶋大社の前を行く旅人の姿が描かれています。
三嶋大社の縁起餅として知られる「福太郎餅」。生命力を宿すという餅と、邪気を払うとされるヨモギを使用した縁起物。カルシウム含有量や滋養に富むことでも知られるヨモギを含んだ草餅を、
烏帽子の形にした甘さ控えめのこしあんで包み、一口でも食べられる丁度良い大きさになっています。これで200円です。広重の描いた旅人も福太郎餅を食べたのでしょうか?
さあ、箱根峠に向かって出発です。新町橋があります。ガイドマップには、富士山のビューポイントと書かれていますが、生憎富士山は雲の中でした。
箱根旧街道に入ります。
箱根旧街道は、1601年から江戸幕府により江戸から京都まで整備された東海道の一部です。この旧街道は、急な坂道なので人も馬も滑って大変な所でした。そこで幕府は、1680年、
それまでの竹を敷いてあったものから、石を敷き詰めて「石畳の道」に改修したものです。その石畳を1769年に改修した記録によると「愛宕坂では長さ140m、幅3,6mを修理した」とあります。
箱根旧街道には、三島側から、今井坂ー愛宕坂ー臼転坂ー題目坂ー大時雨坂ー小時雨坂ーこわめし坂(下長坂)ーかみなり坂(上長坂)-小枯木坂ー大枯木坂ー石原坂ー
石荒坂ー兜石坂ー挟石坂ー風越坂ー釜石坂ー赤石坂ー向坂の18の坂があります。
途中で「大根の碑」があります。「箱根八里の馬子唄消えて 今は大根を造る歌 源水 」。1889(明治22)年、東海道線が開通すると、箱根旧街道を通る人の数は激減して、
今まで街道に生活の糧を求めていた箱根西坂の人びとも農家に転業をせざるを得なくなりました。ここでは、大根、牛蒡、人参などの根野菜を造っていました。
この碑は農業生産の向上に寄与した平井源太郎を記念して建てられたものです。源水は平井源太郎の歌号です。また、平井源太郎は農兵節に歌をつけた人でもあります。
初音ヶ原も富士山のビュースポットですが、まだ富士山は雲の中です。
錦田一里塚は江戸日本橋から28番目の一里塚です。街道の両側に一対で残っています。
一里塚の横には、鈴木宗忠氏の「日さらさら歩々道場の一里塚」の歌碑が建っています。
街道は、塚原の所で一旦1号線と合流します。1号線を渡るとすぐ左折。向かい側には、伊豆フルーツパークが見えてきます。これから臼転坂です。
臼転坂・・・牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたことなどからこの坂の名がついたそうです。
法善寺の所に六地蔵があります。数えてみると12~13体あります。
階段を登っていくと、題目坂です。ここには、征夷大将軍足利尊氏建立の「七面堂跡」があります。七面堂とは日蓮宗の護神七面大明神を安置する堂のことです。
坂公民館の所も富士山のビューポイントですが、まだ富士山は雲の中です。
歩いていると前方に「スカイウォーク」が見えてきました。
松雲寺は、江戸時代東海道を通行する尾張徳川家や紀伊徳川家が休息所として用い、「寺本陣」と呼ばれました。明治11年(1878)明治天皇は、東海道行幸の節、ここで休憩されました。
下長坂(こわめし坂)・・・急勾配で背負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、ついに強飯(こわめし)のようになることからこわめし坂と呼ばれました。
スカイウォークに着きました。スカイウォークは、2015年(平成27年)12月に完成し、全長400mの歩行者専用吊橋としては日本最高吊橋です。
階段を登って一旦国道に出ます。富士見平ドライブインの所に芭蕉の句碑が建っています。「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」
意味は、今日は霧が深くかかって、草庵から幾たびもながめたあの富士山が見られない。けれども、こうして霧の中に聳える富士を思い描くというのも一興であるよ。
箱根旧街道は、富士見平から入るのですが、ここから先は、工事の為通行止。1号線を迂回します。
富士山がようやく顔を出してきました。やはり富士山は、素晴らしいですね。
歩いていると、左側に「菊池千本槍の碑」があります。菊池というと、熊本の菊池?と思いながら説明文を見ると、
建武2年(1335)この付近であった水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命をうけた先鋒菊池肥後守武重の一千余の兵は、槍の原型となる竹竿の先に短刀を括りつけた武器で足利勢に大勝利しました。
九州に帰国したのち、武重は刀工延寿に槍を造らせ後にこれが菊池千本槍と呼ばれました。
再び箱根旧街道に入ります。途中、司馬遼太郎の歌碑があります。「幾億の跫音が坂に積もり吐く息が谷を埋めるわが箱根にこそ」
山中城址に着きました。山中城は永禄年間(1558~1570)に小田原の北条氏康により築城され、天正17年(1589)豊臣秀吉によって落城しました。
碁盤型に掘った「障子堀」や土塁が連なっている「畝堀」が遺構として残っていることで有名です。国指定史跡。
お城跡にに行ってみようかと思いましたが、城址まで約15分ぐらいかかるそうです。時間がありませんのでここはパスします。
「芝切地蔵尊」には、こんな話が残っています。ある夜、巡礼の旅人が宗閑寺(そうかんじ)に一夜の宿を頼みますが、突然腹痛に襲われ亡くなりました。
旅人は亡くなる直前に「私をこの地で地蔵尊として祀(まつ)ってください。そして芝を積んで芝塚をつくり、故郷の常陸国〈ひたちのくに(茨城県)〉が見えるようにしてください。そ
うすれば村の人や世の中の人々の難病を救いましょう」と言い残したそうです。
こうして旅人は芝切地蔵尊として葬(ほうむ)られ、今でも毎年7月中旬にお祭りが催されています。そこで 売られる「お札」や「腹掛け」は、お腹の病に効くと評判です。
また、戦前は伊豆一円や富士・沼津など遠方からもこの日に多くの信者が集まり、参拝者の列が三島まで続いたといわれています。
山中のバス停で時刻表を見ると、5分ぐらい待てば「三島駅」行のバスが来ます。今日の街道歩きは、ここ迄とします。
バスは、三島まで約30分ぐらいで着きました。何時間もかけて歩いたのに・・・・・・
三島に着いて「楽寿園」に行こうと思いましたが、今日月曜日は定休日でした。