11/7 日本スリーデーマーチが行われた埼玉県東松山市から宇都宮に移動してきました。台風の影響やコロナ禍で歩けなかった「日光街道」を2年半ぶりに再開します。
11/8(月)宇都宮から前回ゴール地の小山駅へ。小山駅は、学生さんの姿が多くみられます。駅の近くに白鳳大学があるからでしょうか?駅前には白鳳大学のスクールバスが止まっています。
駅前本町の交差点を右へ。これから宇都宮に向かって歩きます。
結城街道は、水戸城下と奥州街道の小山宿を結ぶ街道で、街道沿いには、笠間藩の藩庁が置かれた笠間城、下館藩の藩庁が置かれた下館城、結城藩の藩庁が置かれた結城城の城下町を結んだ
ことから参勤交代でも利用されて重要視されました。人や物資の往来も多く、各宿場町や城下町も繫栄しました。
興法寺は、嘉祥2年(849)創建の古刹で本尊は阿弥陀三尊。元は小山城内にあり、小山氏代々の祈願寺でした。境内の地蔵尊には、戊辰戦「小山の戦い」の碑弾痕があります。
蛸屋総本店は、元禄11年(1698)創業のお菓子屋さんです。まだ、開店前なのか、静かでした。先を行きます。両毛線の踏切を越えます。両毛線は、小山から新前橋まで結ぶJRの路線です。
日枝神社のケヤキは、樹齢400年以上です。
喜沢の交差点に来ました。昔は、ここに立場茶屋がありました。男體山の下に「右奥州、左日光」の文字が刻まれています。裏に行くと、馬頭観音、日清、日露、日支出征馬碑があります。
喜沢の信号から旧道に入ります。喜沢の一里塚は、ホテルの向かい側にあるとガイドブックに書いてますが、説明看板もなく、このあたりと推測してみました。
旧街道は、東北新幹線沿いに歩きますが、途中、工事中で4号線の方に迂回します。
「新田(しんでん)宿」は、江戸日本橋から数えて13番目の宿場。日光街道の中でも最も小さな宿場でした。現在は栃木県小山市羽川に相当します。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)ありました。
宿内の家数は59軒、人口は244人(男127人、女117人)でした。
本陣は、青木本陣。本陣の近くの民家には、昔の屋号が付けられています。
下野(しもつけ)市に入りました。下野市は、2006年(平成18)河内郡西河内町、下都賀郡国分寺町、下都賀郡石橋町が合併して「下野市」が誕生しました。
小金井一里塚:江戸日本橋より22里目。保存状態が良く、日光街道で唯一、国指定史跡です。
領主陣屋跡:現橘屋菅井製菓。この地を領した下総佐倉藩の出張陣屋跡です。代官を務めた大槻氏の位牌を残しています。
その隣には、「俳諧の句碑」が立っています。この碑は、文化4年(1807)に小金井宿蔵田屋(大越家)の屋敷内に建てられた俳諧の句碑。
句碑の一面には、慈眼寺三十世住職である宣照による四季の発句と江戸談林俳諧の頂点にあった、谷素外の発句の下に小金井宿俳人12人の発句が刻まれています。
慈眼寺は、建久7年(1196)新田一族の祈願寺として創建された真言宗の古刹です。本尊は、勢至菩薩。境内には、御成御殿(御座所)がありました。
日光社参の将軍は、ここで昼食を摂りました。
慈眼寺の隣には、「金井神社」があります。小金井宿の鎮守です。
小金井という地名は、近くに小金井という湧水の池があり、旱魃(かんばつ)の時にも枯れることがありませんでした。池の中から黄金が出てきたという伝承に由来します。
この井から「金井村」という村名が生じ、のちに小金井村になりました。
「小金井宿」は、延宝9年(1681)宿の西側にあった金井村を移住させて宿駅としました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、小金井宿の宿内家数は、165軒、
うち、本陣1,脇本陣1,旅籠43軒で宿内人口は、767人(男374人、女393人)でした。
本陣は、大越家が務め、本陣門を残しています。
蓮行寺は、元徳元年(1329)の創建、足利尊氏の古文書が所蔵されています。宇都宮藩主は、当寺に控え、日光社参の将軍を出迎えました。
薬師堂の本尊は、行基作「木造薬師如来立像」でしたが、今は、慈眼寺に保管されています。
歩いていると、桑の木があります。この地でも蚕を飼っていたのでしょうか?
先の方に下野市役所が見えてきました。ここで休憩します。
「石橋宿~雀宮宿~宇都宮宿」につづく