№11からのつづき。
下野市役所から旧道を歩きます。
道中「パパイアの木」を見かけました。南国でもないのに栃木で見るとは、正直びっくりしました。
「下石橋の一里塚」は、標識は立っているのですが、どこにあったかは不明です。
右側のとんかつ屋さんの横に「長屋門」があります。これは下総関宿(せきやど)藩の門を移設したそうです。
丸大食品正門に大きな「慈母観音像」が立っています。理由はわかりません。
その先、夕顔橋の所には、10体の石仏が立っています。夕顔橋の石仏群というそうです。
本町の信号の先に愛宕神社がありましたのでここで休憩します。
愛宕神社には、「二十三夜塔」「勝善神(そうせんしん)」の石碑があります。
二十三塔とは、陰暦の23日の夜に人々が集まって神仏を祀り、飲食を共にしながら月の出を拝み、その信仰の深さを形に表す為に造立した塔です。
勝善神とは、蒼善神とも書き、馬の神を祀ったものです。主に関東、東北地方で信仰の対象でした。
石橋宿の本陣跡は、現在の伊沢茶舗にありました。脇本陣は、伊沢写真館でした。(写真撮り忘れました)
石橋の地名は、池上明神前の石橋に由来します。宿は、幕府領で代官北条雄之助が支配しました。天保14年(1843)の日光道中大概帳によると宿内家数は、79軒。
うち本陣1,脇本陣1,旅籠30軒、宿内人口は、414人(男192人、女222人)で干瓢、瓢箪細工が名物でした。
旧石橋町は、グリム兄弟の出身地のドイツ・ヘッセン州にある旧シュタインリュッケン(ドイツ語で石橋)と姉妹都市です。
石橋地区は、「グリムの里」として街づくりを行い、駅の北北西1,5kmには、グリムの森、グリムの館があります。
街の中には、メルヘンチックな街灯、駅には、時計台が立っています。
開雲寺は、将軍日光社参の際、「御殿所」となりました。慶長9年(1604)幕府から寺領7石を賜り、葵の紋の使用が許されました。
先を行きます。「石仏石塔群」があります。このうち「十九夜塔」は、女の人を助ける如意輪観音のことです。主に安産の神様として地元の人たちの進行を集めています。
毎月旧暦の19日の夜に地区の女の人が十九夜様のまわりに集まって灯篭や蝋燭、線香などを上げました。そして十九夜念仏を唱えてお産が軽く済むよう祈ったそうです。
この近くには、近くで採れる大谷石を使った蔵や家の壁が目につきます。
河内郡上三川町(かみのかわまち)に入りました。上三川町は、現在河内郡の中で唯一の自治体です。
鞘堂地蔵尊は、康暦2年(1380)小山宇都宮の戦い(茂原合戦)で小山義政が宇都宮基綱を破りました。村人が戦死者の鞘を拾い集め、ここに埋葬し堂を建て石造地蔵を安置しました。
八代将軍吉宗日光社参の際に休息所となりました。
星宮神社は、鞘堂新田村の鎮守です。人々の背負う星々(一生)を守護しています。
街道は、宇都宮市に入りました。
雀宮(すずめのみや)宿は、日光道中の整備に伴い、雀宮村が開かれ宿駅になりました。天保14年(1843)の日光道中大概帳によると雀宮宿の宿内家数は、72軒、うち本陣1,
脇本陣1,旅籠38軒で宿内人口は、268人(男138人、女130人)でした。
本陣は、小倉半右衛門が勤め、名主、年寄を兼ね、建坪は115坪でした。小倉家は宇都宮氏の家臣として二万石を領しましたが宇都宮氏が没落するとこの地に土着しました。
本陣は、現在ありませんが、酒屋さんの前に石碑が立っています。
脇本陣は、芦谷治左衛門が勤め、名主、年寄を兼ね、建坪は94坪余でした。明治14年(1858)明治天皇奥州巡幸の際、休息所となりました。
現在でも門構えや式台等を残しています。
仮本陣の先の方に雀宮の地名の由来になった「雀宮神社」があります。長徳3年(997)八幡太朗義家の創建されました。歴史と趣のある神社として、地元民に敬愛されています。
この地域を治めていた宇都宮氏の信仰は篤く、雀宮神社を、城を守る四神の内、南の『朱雀』と位置づけ、城主がしばしば遠乗りをしてお参りに来たそうです。皇族である御諸別王を
祭神としていることから、1713年(正徳三年)東山天皇から金文字で『雀宮』と書かれた勅額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、諸大名は下馬して参拝したと
伝えられています。
【雀宮由来】百人一首の歌人藤原実方が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾女が夫のもとに向かいましたが、この地で病死してしまいました。夫も任地で死亡しましたが、
霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て息絶えました。里人が憐み塚上に綾女神社を祀り供養しました。
また、このような民話も残されています。昔々、食っては寝てを繰り返すばかりで、仕事もせず怠けている男がいた。ある日、村人は男を少し懲らしめてやろうと、針の入った饅頭を男に与えた。
男が饅頭を食べると、針でお腹が痛くなった。しばらく苦しんでいると、雀がニラをついばんでいるのを見つけた。珍しがって見ていると、雀の糞から縫い針が出てきた。
男は雀を真似てニラをたくさん食べると、お腹から針を出すことに成功した。これ以来、男は改心して働き始め、雀に感謝してお宮を建てた。これが雀宮の由来なのだと。
雀宮神社の所が東京から100kmの地点です。私の日光街道は、旧道を廻ったり、寄り道をしたりしているので100km以上にはなっていると思います。
「一里」という信号の所に江曾島の一里塚があったそうですが、東北線施設のため取り壊されたそうです。
時間は4時半を過ぎたばかりですが、だんだん暗くなってきました。まだ九州では明るい時間です。(1時間ぐらい違うのかな?)
先を急ぎます。国道4号線もこのあたりから「東京街道」という名称に変わりました。
SUBARUの所に来るとまだ5時前ですが、もう真っ暗です。暗い中歩くのは危険ですので今日はここで終わりにします。
ちょうどSUBARUの所にバス停がありましたのでここからバスで宇都宮駅に帰ります。