6/25 午前7:40 四日市のホテルを出発し前日のゴールJR朝日駅に向かいます。朝日駅8:15到着。
天気は、曇っていますが、雨は大丈夫みたいです。
朝日町は、天武天皇が壬申の乱の際、付近で朝日を拝んだということから町名になりました。
朝日町にも大きな寺院があります。
浄土宗本願寺派の寺院浄泉坊。徳川家にゆかりのある桑名藩士の奥方の菩提寺になって いたこともあり、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っています。
参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられています。
橘 守部(もりべ)(1781~1849)生誕地の碑があります。
守部は、江戸時代の国学者です。国学とは、古典を研究することにより、日本固有の生活や精神を理解しようとする学問で、その代表として、松阪の本居宣長がよく知られています。
守部は、天明元年(1781)小向に生まれました。守部の父飯田長十郎元親は、亀崎、金井などの村々を支配する大庄屋格で、津の国学者、谷川士清の門人であったといわれています。
17歳のとき、一家離散のため江戸に下り、20歳を過ぎてから学問を志すという、当時としては晩学でした。その後、武州幸手(現在の埼玉県幸手市)に居を移し学問に励み、
49歳の時、再び江戸に戻りました。当時の国学界が本居宣長を中心とした学説が主流であったのに対し、守部は宣長の学説を批判し、古事記よりも日本書紀を重んじるという
独自の学説を展開しました。 『稜威道別』『稜威言別』など多数の著作があり、その業績は、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに「天保の国学四大家」の一人に数えられています。
すぐ近くの「小向(おぶけ)神社」には、この橘 守部が祀られています。
朝日町役場の横に「朝日町資料館というのがあるので見学していこうかと思いましたが、開館が10時からでまだ開いてなくパスしました。建物は大正年間の建築です。
江戸時代、東海道小向・柿、富田村周辺には茶店が並び、焼蛤が提供さ れていました。この焼蛤は浮世絵などの出版物をとおして「桑名=焼きはまぐり」として広く知られるようになりました。
ことわざで「その手は桑名の焼き蛤」という言葉があります。「うまいこといってもだまされない、その手は食わない」という意味ですが、朝日町は江戸時代に大部分が桑名藩に属し、
縄生(なお)村(現朝日町縄生)から富田村(現四日市市富田)にかけて、東海道沿いの茶店や酒屋で旅人に提供されていました。ベストセラーになった十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも、
縄生(なお)村で女性がハマグリを焼く挿絵が掲載されています。
近鉄名古屋線の踏切を越えると、右側に「縄生(なお)の一里塚」があります。江戸から97里。
員弁川にかかる「町屋橋」です。この川を渡ると「桑名市」に入ります。江戸時代には、中州を利用して2つの木橋が架かっていたそうです。
町屋橋を渡ると「桑名市」に入ります。桑名市は、人口約14万人。)
町屋橋北詰には、伊勢両宮常夜燈があります。この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の道標として、また、伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名。岐阜の材木商によって寄進されました。
「安永餅」は、つぶ餡(あん)の入った細長く平らな焼餅で、四日市の「なが餅」に似ている所があります。江戸時代は、こういった餅が街道周辺で売られていたのでしょう。
「城南神社」:由緒を見ると、当神社は元神明宮にて、第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大御神を永遠におまつり申し上げるべき宮地を求めて、 御神慮のまにまに南勢へ御巡幸されたとき暫時御停座の御旧地と伝承されております。故に古来、神宮式年御遷宮ごとに、 皇大神宮一ノ鳥居、古殿舎の一部が御下賜になり改築の慣例になっております。
「江場松原跡」 江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていました。眺望がよく、西には、鈴鹿の山脈が遠望され、東は、伊勢の津が見られました。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風頃までは、松並木も残っていましたが、現在では、家が建ち並び、一本の松も残っていません。
矢田立場 立場とは、宿場と宿場の間にある、旅人が休憩する茶店などが集まっている所です。この近くには、現在でも馬を繋ぎとめた鉄環のある家や、連子格子のある家が見られます。
立坂神社:桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受けました。もともと矢田八幡社と称していますが、明治以後は式内立坂神社と称しました。
中川梵鐘店は、江戸末期創業の鋳造会社です。全国各地の梵鐘を手がけており、永平寺や、名古屋の日泰寺、三河の鳳来寺、それに故岡本太郎のデザインによる名古屋久国寺の角がたくさん突き出た「歓喜の梵鐘」もここで創られました。
一目連神社は、多度大社の別宮として鎮座。御祭神の「天目一箇命」は、御本宮・天津彦根命の御子神であり、伊勢の天照大御神の御孫神にあたります。古書(古語拾遺)では、天照大御神が天の岩屋戸にお隠れになった際、刀や斧などを作って活躍された神として伝えられており、このことから、鉄工・鋳物等をはじめとする日本金属工業の祖神・守護神として崇められています。毎年11月8日には、「ふいご祭り」というお祭りが斎行され、桑名近辺の会社はもとより全国の関連業者の方々が参拝に訪れます。
天武天皇社は、天武天皇を主祭神として祀る日本で唯一の神社です。
桑名は、鋳鉄業が盛んです。現在では、マンホール、格子蓋、グレーチング、ルーフドレン、鋳鉄管などの建築・土木製品がこの桑名で造られています。
慶長六年(1601年)、徳川四天王の一人に数えられた本多忠勝公が、 伊勢国桑名藩十万石の初代藩主となりました。「くわな鋳物」は忠勝公からの 鉄砲の製造の命をうけ、
鋳物師の広瀬氏を招き、藩の奨励策のもとで、本格的な、生産が始まったと 言われています。写真は、広瀬鋳物工場跡。
日進小学校の所から斜左に入ります。このあたりは、慶長年間の町割りの際、城下の外郭を固めるために計画的に寺院が集められました。
【長円寺】
桑名の特産品として「桑名の千羽鶴」があります。今から200余年前の寛政9年(1797)に『千羽鶴折形』という本が刊行されました。ここには、一枚の紙から、2羽から最高97羽までの
連続した鶴を作る方法が49種類紹介されています。横に繋ぐだけの簡単なものから、五層に積み上げて折る立体的なものまで、実に驚異的な内容で、当時も話題をさらったらしく、
『千羽鶴折形』は寛政12年(1800)に再販されています。この驚くべき連鶴を考案した魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)は、桑名(現在の三重県桑名市)の長円寺の住職でした。
僧侶がなぜ鶴を?という疑問はありますが、彼は変化に富んだ鶴を考案する決意のもと、18年という歳月をかけてこの折形を完成させています。義道は49種類だけではなく、
もっと多くの種類を考案し、その中の一部を選んで刊行したと思われますが、残念ながら、考案の原本は残されていません。(桑名千羽鶴を広める会より抜粋)
桑名市のマンホールにもこの千羽鶴がデザインされています。
【寿量寺】 江戸城の障壁画を描いた狩野光信は江戸から京都へ帰る途中に、慶長13年(1608)6月4日桑名で没し、当寺に葬りました。
入口すぐ南側に「狩野光信墓」の小さな五輪塔があります。境内には明治2年(1869)銘の仏足石があり、寺宝として「銅磬」、「日蓮聖人御本尊」があります。(桑名観光ナビより)
【十念寺】 十念寺の創建は天平宝字元年(757)、行基菩薩により開かれたのが始まりと伝えられています。当初は現在の菰野町にありましたが、慶長年間(1596~1615)、
桑名城築城の際、新たに城下町が町割され現在地に移ってきました。十念寺に埋葬されている森陳明は幕末の桑名藩士で幕府側に付いた藩主松平定敬に随行し
函館戦争に参戦しました。函館戦争が終結すると桑名藩が窮地に立たされた為、自らが切腹することで全責任を負い十念寺に葬られました。
墓には松平定敬の書によって「森陳明之墓」と刻み込まれ昭和41年に桑名市指定史跡に指定されています。 (桑名観光ナビより)
【光徳寺】 浄土宗。古くは泡州崎念仏道場と称していました。明治7年(1874)、進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれました。境内墓地には、桑名船場町の商人で
萬古焼の創始者である沼波弄山(1718~77)の墓、大坂の市岡新田を開発した市岡宗栄(1664~1714)や、萬古焼継承者加賀月華(1888~1937)の墓があります。(桑名観光ナビより)
【泡洲崎八幡宮】 本多忠勝が町割りをして城下を整備する以前、このあたりは町屋川の流れで、自凝洲崎(おのころすざき)、加良洲崎(からすざき)、泡洲崎(あわすざき)の三洲に
分かれていて、この一帯を泡洲崎と称していました。神社の名前はそこから来ています。
吉津屋(よつや)通りを過ぎると、京町の信号の所に「石取会館」があります。
石取会館内に入ると、「石取祭」に使う祭車が展示されています。
石取祭(いしどりまつり)は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を浄(きよ)めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に
執り行われています。町々から曳き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り回ります。 全国的に見ても単一の神社、一神事でこれほどの山車が一堂に会する祭りは非常に珍しく鉦や太鼓を打ち鳴らし、「日本一やかましい祭り」と言われ、平成19年3月には「桑名石取祭の祭車行事」の名称で、「国指定重要無形民俗文化財」に指定されました。
試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、祭車は各組(地区)に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。
本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、渡祭(神社参拝)のための順番に曳き揃えを行います。
浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、
午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。(石取祭りHPより)
石取会館を出て左折すると「桑名宿」です。
桑名は、木曽三川の河口部に位置し、古くから港町として栄えてきました。美濃方面から川船で運ばれた物資は、ここで大船に積み替えられ、江戸、大坂方面に送られたことで
この地域屈指の港町・商業都市になりました。江戸日本橋から42番目の宿場町で、江戸時代には、松平氏11万石の城下町でもありました。
江戸時代の資料によると、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠数120、家数2544、人口8848人で旅籠の数は、東海道の中で宮宿に次ぐ2番目の規模だったそうです。
「歴史をかたる公園」は、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られた公園です。道中をイメージした道標や案内板などが設置されています。
桑名城は徳川四天王のひとり、本多忠勝の居城として知られています。本多氏が姫路城に移ってからは松平氏が桑名藩主を務めました。忠勝の孫である忠刻と徳川家康の
孫娘である千姫はこの城で結婚しています。現在は本丸・二之丸一帯を九華公園として整備されており、蟠龍櫓が外観復元されています。他に三之丸の城壁が一部残っており、
市内にある了順寺の山門は桑名城の城門を移築したものと伝えられています。
春日神社の銅鳥居: 「勢州桑名に過ぎたる者は銅の鳥居に二朱女郎」と歌われた日本随一の青銅鳥居で、神社境内から東方25mの所、片町通に面して立っている。
寛文7年(1667)、桑名城主 松平定重が寄進、慶長金250両を費し鋳物師 辻内種次に命じて建立させたもので、桑名の名物として今も昔を語っている。(桑名宗社HPより))
「しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。同じものが多度神社の鳥居の横にもあります。自分の子どもが迷子になると、左側面「たづぬるかた」に子どもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、心当たりのある人が右側面の「おしぬるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼ります。
桑名神社(春日神社)と中臣神社の両社を合わせて桑名宗社といい、古来から桑名の総鎮守として崇敬されてきました。永仁4年(1296)に奈良から春日大明神を勧請して合祀したため、
「春日さん」の名で親しまれています。前述の「石取祭」は、この春日神社のお祭りです。
「舟会所」:桑名港は東海道の渡し場であったため、宿駅制度の一つである船会所が設けられ、渡船の手配・旅人の受付を行ないました。また入港船から入港料を徴集していました。
ここは町衆のなか船年寄が責任者となり、数人の職員がいた。また桑名藩の役人が常駐する船番所が設けられていて、渡船を乗り降りする旅人を監視していました。
七里の渡し跡: 東海道における唯一の海上路。七里とは、桑名宿と宮宿(名古屋市熱田神宮近く)の距離(約28km)で当時3~4時間かけて渡ったと言われています。
ここは、伊勢国の東入口に当たるため、天明年間(1781~1789)に伊勢国の「一の鳥居」が建てられ、今では、伊勢神宮遷宮ごとに建て替えられています。
明治になり、東海道制度は廃止されましたが、揖斐(いび)川上流の大垣との間の客船や荷物船の発着場になっていました。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風以後の高潮対策工事の為、渡船場と道路の間に防波堤が築かれ、景観は変化しましたが、往時の名残を感じることができます。(東海道三重道中案内より)
広重の東海道の浮世絵「桑名宿」は、この七里の渡しを描いています。
同じ場所とみられる所をパノラマで写しました。
桑名宿の本陣は、大塚本陣(現 船津屋)、丹羽本陣がありました。
時間もお昼近くになってきました。せっかく桑名に来ましたので「蛤料理」を食べてみたいと思います。
このハマグリの味・・・・・・・懐かしいですね。ハマグリ丼は、初めてでした。
早速削除しました。申し訳ございません。
「福江町町並み」となっている写真は正しくは「西矢田町町並み」ですね。
突然のコメント失礼しました。