4/23(日)第31回飯田やまびこマーチ2日目。今日は、朝が寒いです。放射冷却のせいか、朝5時の気温は3度です。
気温はこれから徐々に上がって20度ぐらいまでにはなるそうです。
今日は、「野底山森林公園から元善光寺を抜け田園地帯を巡るコース20km」に参加します。
今日も30k、20k同時スタートです。
スタートの時には、「長野県民の歌 信濃の国」が流れてきます。長野県民は、皆さん歌えるそうです。 信濃の国は、十州に 境つらぬる国にして・・・・・・
この信濃の歌は、福岡では、ラジオで信濃観光PRのCMで時々流れています。力強い歌が印象に残っています。
長野県民の歌 信濃の国はこちらです。
https://www.youtube.com/watch?v=F-VWrBooua8
大宮諏訪神社を通り、中央道のガードを潜り、風越高校付近から坂道になります。
約5km地点の山田公民館が最初のチェックポイント。中学生がボランティアでチェックのスタンプを押してくれました。
気温もだいぶん上がって、暑くなりました。出発式の時に着ていたジャンバーをここで脱ぎます。
この近くには、野底山森林公園になっており、キャンプなどが楽しめます。また、日本固有の「モリアオガエル」の生息する場所としても知られています。
少し休憩して再び歩き出します。真っ青な空、桜、リンゴの花など楽しみながら歩きます。途中、「熊出没注意」の看板を発見!
浅間塚(せんげんつか)の一本杉です。樹高22m、胸高周囲4,2m、樹齢600年以上で飯田市の天然記念物に指定されています。
コースは、段々山の中に入って行きます。
「ふるさと大橋」では、ウオーキング会場近くにあった人形とけい塔と同じ人形がありました。
ここからは、南アルプス「仙丈ケ岳」(3032m)が見られます。
下伊那郡高森町に来ました。高森町のマンホールは、不動の滝、瑠璃寺、市田柿、天竜を下るカヌーなどが描かれています。
干し柿のブランド名「市田柿」も高森町生まれだそうです。
更に先へ進むと、20k、30kの分岐点です。分岐点から中央道を潜ると、桜の綺麗な神社があります。「牛牧神社」です。
牛牧神社の沿革によれば、永享十二年(1440)次郎城主牛牧氏は信濃守護小笠原政康に従い下総国結城城攻略の戦役の従軍のおり武人の守護神たる八幡宮を祭祀した。
その後何時の世か諏訪明神を合祀し今日に至っている。
神社境内には、樹高32m、幹周り5,5mの大杉がまっすぐ一直線に立っています。樹齢600年とか。
このあたりが、南アルプスのビューポイントです。
拡大すると、
このうち、「北岳」は、あまり知られていませんが、日本で富士山に次ぐ2番目の高さを誇っています。(日本で2番目に高い山はどこか?とクイズ番組でよく出題されます)
間ノ岳は、日本で4番目です。このように、3000m級の山々が連なっています。
高森町の松源寺は、大河ドラマ「おんな城主直虎」ゆかりの地です。
松源寺の案内看板を見ると、松源寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、永正8年(1511年)~永正10年(1513年)頃、松岡城主伊予守貞昌によって創建されました。
開山の文叔瑞郁禅師は、京都妙心寺の24世住持になられた名僧で、井伊家の菩提寺である龍潭寺を開山した黙宗瑞淵禅師は、文叔瑞郁禅師の弟子になることから、文叔瑞郁禅師を
龍潭寺拝請開山に迎えています。
天文4年(1545年)、直虎の許嫁であった亀之丞(後の井伊直親)は、今川義元に命を狙われたため、この法縁により、信州・市田郷の松源寺に逃れました。そして弘治元年(1555年)に井伊谷に戻る迄の
10年余をこの市田郷で過ごしました。
現在の松源寺は、江戸時代(寛文6年(1666年)とされる)に現在地(松岡城西総構跡)に再興されたもので。亀之丞が逃れた当時は、ここから西方2kmほどの地、牛牧の「寺山」地籍にありました。
3月に浜松の井伊谷に行きましたが、井伊谷から高森町まで直線距離で120km。今でこそ車でしたら2時間半ぐらいで行けますが、当時は、山をいくつも越さないと行けません。
少年期病弱だった亀之丞が、よくここまで歩いて逃がれて行きましたね。
春は、桜の名所としても知られています。
松源寺の朱印には、「望郷」と書かれています。この地から井伊谷を思いながら「青葉の笛」を奏でていたのでしょうか?
松源寺を出ると、「松岡城址」です。
平安末期から天正16年(1588年)、徳川家康により改易されるまでおよそ500年間に渡り、この地を支配した松岡氏の居城で、高森町史跡に指定されています。
段上の突端に位置し、西北は、自然の深谷に、東側は、急峻な傾斜地で、まさに自然の城壁といえます。更に多くの空堀や土塁などが施され、防備を強固にしています。
松岡城址を下りていくと、急な坂道です。これは、「帯曲輪(おびくるわ)」と言って城の山腹に設けられた帯状の細長い曲輪のことで、斜面を急にして敵が攻め上るのを困難にすることを目的に築かれました。
どうにか、降りてきました。高森町のマンホールは、「市田柿」がデザインされたものもありました。しばらく歩くと、「元善光寺」です。ここの花桃も綺麗です。
元善光寺は、推古天皇十年に信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人本多善光(ほんだよしみつ)公が、国司の供をして都に上がった時に、
難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。
その後、阿弥陀如来様の御告げにより芋井の里(現在の長野市)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん」との
御誓願を残されました。そもそも善光寺の名は善光公の名を以って付けられたものです。
御詠歌「月半ば毎にきまさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来長野の善光寺と、こちら飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われております。(元善光寺HPより)
元善光寺の横の坂を上って行くと、「麻績(おみ)の里」です。ここが2回目のチェックポイント。
麻績神社は、一村一社として長年受け継がれています。
座光寺地区の約1400戸が氏子となり、毎年、元旦祭、春祭り、秋祭り、勤労感謝祭の4大祭を開催しています。
麻績という言葉は、麻を積むというところから来ていて、麻を作ることができる豊かな場所という意味で、飯田市松尾から松川町までを指します。
元々は八幡社とだけ呼ばれていましたが、座光寺地区の大地主で、有力者であった、北原稲雄氏が"麻績"という言葉を大変気に入り、明治6年から神社の名称に使うようになり、現在に至っています。(信州JAより)
旧座光寺小学校(麻績学校)は、歌舞伎舞台と学校が一体となった珍しい建物です。
この麻績学校の前にあるのが、舞台桜です。普通の枝垂れ桜は、花弁が5枚ですが、舞台桜は、半八重紅彼岸枝垂れという、希少種で花弁が5枚~10枚までの咲き分けで
様々な数の花びらを持つ枝垂れ桜で、全国でもここだけしかないそうです。
飯田の市街地に戻ってきました。今日は、リンゴ並木を会場に、各地のゆるキャラが飯田に集合しているそうです。歩いている時もいろいろなゆるキャラに出会いました。
11:25 ゴール
3月の倉敷ツーデーマーチから始めました「日本マーチングリーグ(JML)」、久留米、飯田と、3回完歩しましたので「銅メダル」を頂きました。
お腹もすいたので会場のスタッフさんにお薦めのお店を聞くと、「上海楼」を紹介してくれました。
先ずは、ビールです。キリン「信州に乾杯」。
中華そばは、(並)を注文しましたが、麺の多さが凄いです。博多でラーメンを替え玉するより多いみたいです。今まで豚骨ばかり食べていましたので新鮮な味がしました。
今日(4/23)のGPSです。
これでオールジャパン達成まであと3県になりました。
飯田は初めてでしたが、素晴らしい所ですね。
桜も花桃もそして一部ですが、リンゴの花も見れました。
日本で2番目の山ということで「北岳」は知っていましたが、これも初めて見れました。
中華そばは、量が多くて食べるのがきつかったですが、いつも博多ラーメンばかりですので新鮮な味でした。
また来年も行きたいですね。
来週は、八代、6月は倉吉を予定しています。
また、どこかでお会いしましょう!
評判がいい理由がよくわかりました。
ブログの写真、コメント入りで分かりやすいです。そうだったのか!と復習できました。
南アルプスも、バッチリ撮影されてて感激です。
来年も行きたいと、思いを新たにしました。
オールジャパン、今年中に達成されそうですね。
東海道もあるし、益々お忙しいと思いますが、また何処かでお会いできるのを楽しみにしています。
私も初めての長野でしたが、天気も良く本当に大満足のウオーキングでした。飯田は、和菓子も美味しいとのこと。相棒さんがリタイアされたら是非行かれてください。
お薦めです。
二日間(プロローグから言えば3日間ですね)のレポート楽しくそして、うらやましく読みました
本当に雲一つない青空が、写真を見ていても眩しいですね 色々な風景がキラキラ光っていました
そして、川下りなどの観光や、地元の名物もしっかり楽しまれてますよね~良いなぁ
なかなか中部地方へは足が向きませんが、時間が出来たら行ってみたいなぁと思います
<追伸>日本で二番目に高い山 勉強になりました(笑)