)に12月はいろいろ予定があり街道歩きは出来ないかな?と思っていましたら22日の予定が中止となり、急遽山陽道を歩くことにしました。
今回は夜行バスで倉敷に行きました。福岡発21:50分、倉敷には翌日6:15分に着きました。
倉敷駅から伯備線で清音駅へ。清音駅から井原鉄道で前回ゴール地「小田」まで戻りました。小田着8:05分。
倉敷駅では、寝台特急「サンライズ出雲」を見ました。洒落たデザインの電車でした。
小田駅を降りると気温は2度ぐらいでしょうか?、寒いです。駐車している車のガラスにが凍っていました。
小田駅前のコンビニで朝食用の弁当を食べさあ街道歩きのスタートです。
駅前の案内板では、小田川の渡し跡というように書いてあり、小田川の方に向かうがそれらしきものがない。多分この辺りではないかと写真に撮りました。
クリーニング屋さんの所で国道486号線と合流。旧山陽道はしばらく国道を歩く。途中「備中国浅海村官蛇下座所跡」の石碑があったが、多分参勤交代の時ここで下座したということでしょうか?
折角設置されたのなら説明文も欲しかった。この下座所跡は、このあとも何回か出てきました。
国道を歩いているとホームセンター、スーパーなどが立ち並んでいます。道路には矢掛宿、星の里、美星(びせい)町の看板が立っています。
岡山京橋の元標は消防署の出張所の所にありました。
街道は東川面の所から左折、そして右折する。国道の下の所に「常夜灯」がある。この辺りが「大曲」でしょうか、案内板を見逃してしまいました。
高岡製材所の所から再び国道に合流。そして矢掛川から歩道用の栄橋を渡ります。この栄橋には「高通川徒渡り」の碑が建っています。
栄橋は幅4,5m、長さ70mの軽量鉄骨橋で現在は使用されないリベット鋲が使用されています。栄橋を渡ると「矢掛宿」に入ります。
石井家住宅の前はお醤油屋さん。明治42年に本家である本陣石井家から分家し本家の副業の醤油部門を引き継いで開業しました。店に入ると主人のお母さんでしょうか、手作業で醤油の栓付けをされていました。
私達は旅の途中ですが思わず醤油を買ってしましました。
やかげ郷土美術館の前に「矢掛観光協会」があります。中に入ってみると、皆さん食事をされていて一斉に私達の方を振り返られました。そうでしょうね、Dバックには風車、沢山のバッチ、人形などをつけていますので
「怪しいやつ?」と思われたかもしれませんね。(笑)。 実は博多から来て今、山陽道を京都まで歩いています。と伝えると協会の会長さん並びに副会長さんが「矢掛」のことを詳しく説明していただきました。
帰りには「矢掛」のストラップまでいただきました。本当に有難うございました。お陰様で旅のいい思い出になりました。
観光協会をあとにして山陽道を歩きます。
矢掛宿脇本陣「高草家」です。
「脇本陣高草家」は宝暦6年(1756)平田屋から分家して東平田屋と称し寛政期には庭瀬藩の掛屋や藩札所元方を務める傍ら大庄屋も兼ねていた。屋敷間口は17間(約34m)、600坪の敷地です。
白壁や張瓦の堅固な建築が特徴です。裏口に通じる小路は、なまこ壁の美しさを感じることができます。
矢掛町では毎年11月第2日曜日に宿場まつりがおこなわれており、約80人の絢爛豪華な大名行列が圧巻です。
矢掛の一里塚は宿場の終わりの方にありました。その先の和田川を渡ります。
橋を渡ると右側に大きな石碑が見えてきます。なんだろうと近寄ってみると「郷社」と書かれています。
これは、矢掛神社が郷社になった時の記念碑でしょうか?矢掛神社は大化元年創立。本殿の天井、壁には江戸時代を含む大きな絵馬が多数残っています。
矢掛神社を下り旧街道を行くと国道と合流。ここに西国道と玉島道の追分があります。行部の道標があります。右玉しま道、左大坂道。
玉島は、江戸時代より物資の集積地として栄えた港町で備中松山藩や岡山藩の外港としての機能を備えていた。
しばらく進むと街道は左折。ここから国道と並行している。井原鉄道のガードを潜ると「吉備公累代の墓」があります。それから少し上った所には「下道公の墓」があります。
「 吉備真備」は持統9年(695)に真備町で生まれ旧氏名を下道朝臣(しもつみちあそみ)。天平18年(746)に吉備朝臣真備に改称。
吉備真備に関しては、たくさんのことがありますので全部書くことができません。ただ遣唐学問使で中国に渡り18年間唐で凄したくさんの書物を持ち帰ってきた。
また、唐から鑑真を連れてきたことなどが上げられます。
九州との係わりは、太宰少弐になったこと、新羅の侵攻に備え福岡に怡土城を造ったことなどかな?
更に街道を歩きます。国道と合流する所に「吉備大臣館」があります。その入り口には「筆塚」が。
筆塚は、矢掛町出身の書家「田中塊堂」さんが中心となって真備公の遺徳を顕彰するために建立されました。
この一帯は、吉備公の居館跡と推定され「吉備真備公園」となっています。この公園は日本歴史公園百選にもえらばれているそうです。
旧山陽道の北側の平地三万平方メートルは、古代の布目瓦を出土すること等により古来から「壇の内」と呼ばれ、正二位右大臣吉備真備公の居館跡と伝承され、遺跡に指定されています。
遣唐留学生の吉備公が天平七年(七三五)当時世界最高といわれた貴重な文物をもって帰国して以来一、二五〇年になるのを記念して、県民有志により中国西安市へ日中友交のしるしの記念碑を建立しました。
これを承けて吉備公の地元矢掛町ではこの館址に記念公園を建設いたしました。
公園は八〇メートルの石敷参道の正面に、上下二段になった基壇を造り、古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、上壇中央に総高六・四五メートルの吉備公の銅像を安置し、
周囲に絵巻石屏風、大碁盤、日時計を配置し、広場に館址亭、産湯の井戸を整備しました。また背後の林地を古代の丘として前方後円墳を形どった広場に環状列石風にオブジェを建て、
四方を守る方位石、古代風俗を示す風物石、吉備公の功績を示す歴史石を配置、周囲は森林浴を満喫できる憩いの場とし、県下唯一の古代オブジェ公園を造成いたしました。(説明文より)
公園内を歩いていると「囲碁発祥の地」の石碑が建っていました。吉備公が在唐中、唐の囲碁名人と対局し知恵を絞って勝った説話がありこれが日本の著作に現れる囲碁に関する最初の説話であることから
吉備公が日本における囲碁の開祖となったそうです。
時間も1時30分になりました。この公園内のうどんが美味しいと先ほどの矢掛観光協会の方から聞いていたので早速注文してみました。おいしかったです。
吉備公園を出るとすぐ「一里塚」がありました。もうこの先は倉敷市になります。
倉敷市に入りました。ここは倉敷市真備(まび)町。吉備真備は「まきび」ですけど、ここの地名は「まび」です。井原鉄道の駅も「きびのまきび駅」。
歩いていると「赤鳥居」というバス停がありました。見ると左の方に赤い大きな鳥居が・・・・・・。写真を撮って拡大してみますと「穴門山神社」となっています。ここから徒歩で約2時間、山の中にあるそうです。
箭田(やだ)西口の信号の先、左側に「まきび公園」があります。ここにも吉備真備を祀った公園があります。
然し、考えてみれば、通信網のまだ発達していない奈良時代に岡山の地から歴史上の人物になった「吉備真備」はどのような過程で奈良の都に認められるようになったのでしょうか?
先を急ぎます。市役所支所の前を通ると前方に大きなモダンな建物があります。ここは、「真備図書館」で2000年に完成したそうです。併設して「たけのこ天文台」もあります。
タケノコは、真備町の特産品です。因みに真備町は、2005年8月に倉敷市と合併したそうです。
街道は「川辺宿」に入りました。交通量も多くおまけに歩道幅が狭く歩きにくいです。所々に「金田一耕助誕生の地」の看板があります。作家横溝正史さんは戦時中川辺から2kmぐらい入った岡田に疎開し、
この地で本陣殺人事件、八つ墓村、獄門島などの作品を書きました。
川辺交番南口から旧道へ。ここは交通量も少なく静かな街並みです。
「源福寺」に来ました。この源福寺の入り口がわからずウロウロしていましたら近くの方が教えてくれました。街道を歩いていると道がわからなくなったりしますのですぐ聞いたりするのですが
特に岡山の方は、親切に教えて頂けます。ありがたいです。
源福寺の創建は延徳2年(1490)、榎本梅屋が英厳和尚(華光寺2世)を招いて開いたのが始まりとされます。江戸時代に入ると岡田藩主伊東家歴代の菩提寺として庇護され
岡田藩6代藩主伊東長丘が30石の寺領を安堵した「寺料寄進状」が残されています。堂内には歴代藩主の位牌が安置され、境内には9代藩主伊東長裕の墓碑をはじめ6代藩主長丘の弟である伊東長煕や
8代藩主長寛の子である伊東長之など一族の墓碑が建立されています。
又、近くを流れる高梁川は度々洪水で大きな被害を出しており「明治26年大洪水供養塔」が昭和4年に建立されています(明治26年大洪水では死者200余名、365戸流出)。
源福寺の石垣は、一日一石といわれ、蟻の入る隙間もないほど精巧なものです。この石垣の苔が生えている所まで洪水が押しかけてきたそうです。
この洪水のため本陣他多くの建物が流出しました。
艮(うしとら)神社
難しい名前の神社ですが、吉備津神社の丑寅の方向にあるから艮神社というそうです。
神社の門柱の「八雲絶唱・・・・・」は、犬養毅元首相の揮毫です。
川辺宿の本陣は代々難波家でありますが、生業は醤油屋さんだったそうです。
川辺本陣は、明治26年の大洪水で流出し資料も残っていません。兵庫県豊岡市で発見された川辺本陣の間取り図を見ると矢掛本陣によく似ているそうです。
参勤交代の諸大名の川辺本陣での宿泊率はほぼ同じ40%強で2か月に1回の割合でありましたが、高梁川に橋はなく舟や徒による渡しのため
氾濫が続くとしばしば逗留を余儀なくされたことから川辺宿の賑わいは矢掛を凌いでいたのではないでしょうか。(案内文より)
川辺の宿場町を先に進みますと高梁川に出てきます。ここに川辺の一里塚があります。ここには江戸日本橋より180里(707km)と書かれています。
気が遠くなる距離ですね。(笑)
一里塚から左折すると高梁川に橋が架かっています。手前側が自転車、歩行者用。その左側が自動車用です。
歩道橋から高梁川を見ると本当にきれいな川です。これが明治時代氾濫したのですね。橋の中央が倉敷と総社の市境です。
橋を渡り左折し、それから右折するとJR清音駅に着きました。時間も5時近くなりました。今日はここまでにします。
今日のGPSです。途中GPSが作動しませんでしたが、今日は小田宿~清瀬駅まで歩きました。
そうですね。吉備真備が鑑真を唐へ迎えに行った人ですね。真備は私の近くの怡土城も新羅からの侵略に備えて造ったそうです。
九州にも係わりのある方です。
この電車に乗っての東京行きも楽しいでしょうね。
今回歩いた山陽道はやっと全部ブログアップできました。写真ばかりで申し訳ございません。
蒲郡楽しかったです。
まさか、「でんでん虫」の踊りの写真が出るとは
思いませんでした。
吉備真備については鑑真さんとの関連で、NHKの大河ドラマに取り上げて欲しいと思いました。
よっくんさんの踏破されたルートに「鑑真上陸ルート」として加えられても良いのではと思います。
今回も大変勉強になりました。
朝の気温が2度位・・・真冬の街道歩きだったんですね 霜も降りていたのでは???
自分では行く事のない街ですが、教科書で習った歴史上の人物に縁のある町なのですね
やはり、行って見ないと判らないことも沢山あるのだと改めて思いました
サンライズ出雲、今、人気だと新聞で読んだことがあります。特に、出雲大社などのパワースポットに行く「女子」に人気みたいですよ
今回のコースは重要文化財や有名作家の疎開先あり囲碁の発祥地ありと多彩なコースで見所満載でした。(笑)