12/4(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは「田川市内散策ウォーク」でした。
田川と言えば、やはり五木寛之さんの「青春の門」ですね。本嫌いの私が唯一自立編から風雪編まで全部読みました。
映画にもなりましたね。観に行きました。吉永小百合さん、大竹しのぶさん・・・・映画の挿入歌山崎ハコさんの「織江の歌」も良かったです。
私、いろんなところを歩いていますが、田川はもう何年ぶりかな・・・・30年、40年前 確かJRウォークで歩いた時以来かな???
今回、電車で行こうと計画しましたが、乗換、乗換で結構時間がかかるので車で行くことにしました。
田川後藤寺駅に車を置き、日田彦山線で集合場所の田川伊田駅へ。
スタート前まで少し時間がありましたので伊田商店街を散策します。9時になるのにまだオープンしているお店はありません。
風治八幡宮は、毎年5月に行われる福岡五大祭りの一つ「川渡り神幸祭」の舞台です。
今日のウォーク、参加者26名、やはり遠方だったから少ないのでしょうか?
今日のコースです。9:35スタート
先ずは、「石炭記念公園」へ
田川の石炭の歴史と文化を残そうと、旧三井田川鉱業所跡地に整備された公園です。
国登録有形文化財の伊田竪坑第一・第二煙突と伊田竪坑櫓のほか、炭坑節発祥の地の碑などの記念碑やモニュメント、炭坑夫之像が建てられています。
敷地内に「田川市石炭・歴史博物館」もあり、石炭採掘の歴史資料や昭和初期の炭坑住宅の再現、運搬に使用されたSLなどが展示されています。
盆踊りなどで歌われる「炭坑節」の発祥の地は、田川・伊田です。
田川市HPによると
昭和7年(1932)、後藤寺町検番の長尾イノさんら3人が日東レコードに「炭坑唄」を収録したのが炭坑節レコード化の初めである。その前年、隣接する伊田町でも選炭唄をレコード化しようとする動きがあったが、実現しなかった。
炭坑節は、炭都田川の発展に伴い、労働の中で生まれた仕事唄が宴席に持ち込まれ、やがて花柳界で洗練されつつ歌われるようになったものである。大正から昭和初期にかけて、筑豊の炭鉱主たちが博多・小倉などの料亭で豪遊したこともあって、宴席では欠かせぬ唄となり、やがてラジオを通じて全国的にも知られるようになった。
盆踊りの定番 その発祥は炭坑節が爆発的に広まったのは、「戦後の復興は石炭から」という国策に沿って、この唄が毎日のようにラジオで放送されたことによる。その軽快なメロディは一般に親しまれ、やがては盆踊りの定番となった。
炭坑節が広まるにつれ、そのルーツをめぐって本家争いが起こった時期もあった。幸いなことに伊田尋常高等小学校(現鎮西小学校)の小野芳香氏が田川郡内の民謡・童謡調査の際、採集した膨大な数にのぼる歌詞の中に「伊田場打撰炭節」があった。明治43年(1910)には一部改曲したものを補習科の生徒に試唱させている。また、大正14年(1925)に編纂した『福岡県田川郡民謡・童謡の研究』の中にも「炭坑節(伊田町三井炭坑唄)」として収録されている。炭坑節の元唄はまがうことなく田川の炭坑で選炭作業に従事する選炭婦が歌った選炭唄であった。
「月が出た出た月が出た三池炭鉱の上に出た♪♪」→→もともとは、「月が出た出た月が出た三井炭鉱の上に出た♪♪」だったそうです。
三池炭鉱(大牟田)も三井伊田炭鉱(田川)もどちらも「三井」の炭鉱でした。
石炭記念公園から再スタート
国道201号線沿いに相撲茶屋「貴ノ花」があります。貴ノ花が師匠の時は、九州場所の宿舎でした。
「10円あったらチロルチョコ」のキャッチフレーズで有名な「チロルチョコ」は、田川が発祥の地です。
本社工場の近くには、直売店があり、ここにも立ち寄ります。
ディスカウントストアで有名な「Mr.MAX」も田川が創立地です。
田川市役所で休憩。
休憩後再スタート。三井寺(みついでら平等寺)へ
地元では「風鈴寺」とも呼ばれる真言宗御室派平等寺、通称「三井寺」。4月下旬~9月頃、本堂横の庭には夏の風物詩、風鈴のトンネルがお目見えします。幅約2.5m、長さ約50mのトンネルには約10,000個の風鈴がチリンチリンと揺れ、参拝客の目と耳を楽しませます。1時間に2回のしゃぼん玉タイムには、境内にたくさんのしゃぼん玉が舞い、風に揺れる色とりどりの短冊や、きらきらと輝く風鈴とのコラボレーションは幻想的。風鈴を購入し、短冊に願いを書いて吊るすこともできます。
風鈴以外にもユニークなポーズのお地蔵さまが見どころ。ガッツポーズ地蔵や手抜き地蔵、ほほえみ地蔵や親子地蔵などが、訪れる人の心を癒やしてくれます。個性豊かな八本地蔵、八方ふさがりの人千手観世音菩薩などもありますので、境内をゆっくり散策してみてください。(クロスロード福岡より)
ちょうど紅葉の真っ最中でした。
帰りには、皆で記念写真を。
12:35 田川後藤寺駅へゴール
追記
田川は、1943年(昭和18年)伊田町と後藤寺町が合併してできた市です。
田川についての言い伝えはいくつかある。そのうち今でもよく見聞きするのが、現在の鷹ノ巣山(添田町)に光り輝く鷹が降り立ったというもの。鷹ノ巣山の名の由来であるとともに、
「鷹羽」→「高羽」→「田河」→「田川」と時代とともに移り変わって、現在にいたるという。(筑豊百景より引用)
「伊田」の地名の由来は、井田、飯田から転訛したものです。
「後藤寺」には、後藤寺というお寺はありません。江戸初期の1600年代には宮尾弓削田(みやおゆげた)村新町として記録に表れ、1700年代には後藤寺(ごとうじ)町村として記録に表れます。
中世の弓削田荘の鎮守春日神社の門前町として香春(かわら)道(秋月街道)に沿って発達したのでしょう。後藤寺の地名は「藤寺」があったという説、『応永戦乱記』にある「五塔寺」から
転訛したという説、『豊前村誌』に出てくる「牛頭寺」から転訛したという説があります。明治15(1882)年の小名調では、大字池尻に「牛頭寺原」「牛藤寺」「後藤寺原」、大字宮ノ尾に
「後藤寺原」とあります。