3月16日今日も青春18きっぷを使って旧山陽道を歩きました。
今日は朝5時に起きて博多発6:00の門司港行で出発、途中乗り換え乗り換えで前回ゴール地のJR周防久保駅には10:08に到着しました。
今日の予定は周防久保~周防高森迄約15kmです。今日からJRのダイヤが改正になり帰りの電車の時間も控えてきました。
10時15分スタート。しばらく歩くと2号線に合流します。

更に進むと「郡境碑」が立っています。
西 都濃郡、東 熊毛郡 。

更に進みますと確かこの辺りに秀吉が朝鮮征伐の時に陣を張った所があるのですが、見つけられませんでした。
それでもこの辺りは御所尾原という所、御所は陣を示す所でしょうか?

街道は国道2号線沿いに進みます。
JR勝間駅の左側に鳥居が見えてきました。
これが「熊毛神社」です。
式内神社であるが、創立年代は不詳である。奈良時代の天平十年(七三八)の『周防国正税帳』に、「熊毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とある。
その後、大内・内藤・毛利氏等の厚い崇敬を受け、安土桃山時代の天正十七年(一五八九)の検地には、
「田六町五反十歩、畠四反」の神領があった(熊毛神社文書)。
また、江戸時代には社殿の再建や修理に、藩主の多額の寄進がみられる。明治六年(一八七三)郷社に列し、大正四年(一九一五)県社に昇格する。現在の社殿は、
本殿を明治十九年(一八八六)、拝殿を同三十年(一八九七)に再建したものである。宝物として、大内弘貞・内藤興盛・毛利輝元等、多くの古文書を有する。
-『山口県神社誌』-
江戸時代には勝間八幡宮と称していました。

ガソリンスタンドの所を右に曲がると「呼坂宿」に入ります。

防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け万葉集に歌われ、また南北朝時代(約600年前)の旅日記「道ゆきぶり」に
現在の呼坂が「海老坂」と記されています。
脇本陣は、「西善寺」です。こちらには「呼坂小学跡」もあります。

呼坂町並み

「吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の地」
安政6年(1859)5月、松陰は江戸に送られることになり、25日檻輿は萩を発し小郡を経て山陽道を東進し、高水村を通過した。
松陰の弟子の忠三郎は、当時高水におり、呼坂において松陰と無言の別れを告げた場所です。

松陰 :かりそめの今日の別れは幸なりき ものをば言はば思ひましなん
寺嶋 :よそに見て別れゆくだに悲しきを言にも出ては思ひみだれん
尚、寺嶋忠三郎は、元治元年(1864)蛤御門の変にて幕府軍に敗れ自刃しました。
「呼坂宿本陣」
江戸時代河内家は代々庄屋や大庄屋を務め、天明年間(1781)七左衛門が本陣を引き受け参勤交代の大名や幕府の上役が宿泊や休憩をしました。
河内家には今も「お休み札」、「宿泊の部屋」があり、安政3年(1856)より約30年間の萬日記には当時の屋敷見取り図などが
保存されています。

橿原神宮参道を通りますと駄菓子屋さんがあります。
また、このあたりは庭先にお花を植えられているところが多いです。きれいな花を見ていると和みますね。


旧街道はJR高水駅を通ります。
民家のベランダに鬼瓦がたくさんつけられているお家を見つけました。瓦屋さんでしょうか?

「今市宿」にやってきました。呼坂宿とは1kmあまりしか離れていません。

「西覚寺」
ここが脇本陣だった所です。
横には「高水村塾之址」の碑があります。岩国の高水高校の元になった所でもあります。

旧街道は、中山の踏切を渡り中山峠に向かいます。JR岩徳線は1410mのトンネルになります。

民家には木蓮の花が咲いています。

ふと、横を見ると「クマ出没注意」の看板が・・・・・・

慌ててDバックからクマよけの鈴をつけて歩きます。
中山峠頂上には「郡境碑」があります。ここから「岩国市」に入ります。
峠を下りるともう12時半。ここで少し休憩します。
一服し再び歩き始めます。すると道路の右側に「旧山陽道」の矢印が・・・・・・
それに沿って歩き出します。右には川のせせらぎが聞こえます。

然し先に行くと藪が・・・・・・道らしきものもありません。
ここで先ほどの「クマ出没注意」の看板が頭にひらめき、怖くなって前来た道に引き返しました。
観音様を過ぎると差川の町に出ます。天王社、米川駅を通ると街道は島田川沿いになります。

島田川、岩徳線と並行します。
道路には桜が植えられています。まだつぼみの段階ですが満開になると綺麗でしょうね。

島田川沿いの街道には「孝行塚」もあります。
昔、元文、寛保(1736~1743)差川村の旧家三右衛門に仕え主家の恩に酬いるため、一意専心働いて主家の没落を救った
六松の彰徳碑です。

旧街道は、高森宿に入りました。
ここの川沿いにも桜並木が植えられています。桜のつぼみももうそろそろほころびそうです。

「高森天満宮」
高森天満宮 は、は遠石八幡宮、防府天満宮と並ぶ周防ノ国三大天神のひとつで、学問の神様・菅原道真公が祀られています。
社殿は1961年 (昭和36年) の改築、鳥居は1982年 (昭和57年) に建立されました。毎年11月下旬に行われる秋の大祭は大勢の参詣者でにぎわいます。

今年の「花神子祭」は4月14日に行われるそうです。
また、幼年期をここ高森で過ごした作家「宇野千代」さんの句もありました。

高森宿は、道幅も広く旧家も立ち並んでいます。

時計を見ると2時を過ぎました。
帰りの列車は2時25分です。これに乗り遅れると1時間半ぐらい待たなければいけません。
高森宿は次回に回し急いで駅に駆け込みました。

本日は約4時間の街道歩きでした。
今日のGPSです。

今日は朝5時に起きて博多発6:00の門司港行で出発、途中乗り換え乗り換えで前回ゴール地のJR周防久保駅には10:08に到着しました。
今日の予定は周防久保~周防高森迄約15kmです。今日からJRのダイヤが改正になり帰りの電車の時間も控えてきました。
10時15分スタート。しばらく歩くと2号線に合流します。

更に進むと「郡境碑」が立っています。
西 都濃郡、東 熊毛郡 。

更に進みますと確かこの辺りに秀吉が朝鮮征伐の時に陣を張った所があるのですが、見つけられませんでした。
それでもこの辺りは御所尾原という所、御所は陣を示す所でしょうか?

街道は国道2号線沿いに進みます。
JR勝間駅の左側に鳥居が見えてきました。
これが「熊毛神社」です。
式内神社であるが、創立年代は不詳である。奈良時代の天平十年(七三八)の『周防国正税帳』に、「熊毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とある。
その後、大内・内藤・毛利氏等の厚い崇敬を受け、安土桃山時代の天正十七年(一五八九)の検地には、
「田六町五反十歩、畠四反」の神領があった(熊毛神社文書)。
また、江戸時代には社殿の再建や修理に、藩主の多額の寄進がみられる。明治六年(一八七三)郷社に列し、大正四年(一九一五)県社に昇格する。現在の社殿は、
本殿を明治十九年(一八八六)、拝殿を同三十年(一八九七)に再建したものである。宝物として、大内弘貞・内藤興盛・毛利輝元等、多くの古文書を有する。
-『山口県神社誌』-
江戸時代には勝間八幡宮と称していました。


ガソリンスタンドの所を右に曲がると「呼坂宿」に入ります。

防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け万葉集に歌われ、また南北朝時代(約600年前)の旅日記「道ゆきぶり」に
現在の呼坂が「海老坂」と記されています。
脇本陣は、「西善寺」です。こちらには「呼坂小学跡」もあります。


呼坂町並み



「吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の地」
安政6年(1859)5月、松陰は江戸に送られることになり、25日檻輿は萩を発し小郡を経て山陽道を東進し、高水村を通過した。
松陰の弟子の忠三郎は、当時高水におり、呼坂において松陰と無言の別れを告げた場所です。


松陰 :かりそめの今日の別れは幸なりき ものをば言はば思ひましなん
寺嶋 :よそに見て別れゆくだに悲しきを言にも出ては思ひみだれん
尚、寺嶋忠三郎は、元治元年(1864)蛤御門の変にて幕府軍に敗れ自刃しました。
「呼坂宿本陣」
江戸時代河内家は代々庄屋や大庄屋を務め、天明年間(1781)七左衛門が本陣を引き受け参勤交代の大名や幕府の上役が宿泊や休憩をしました。
河内家には今も「お休み札」、「宿泊の部屋」があり、安政3年(1856)より約30年間の萬日記には当時の屋敷見取り図などが
保存されています。




橿原神宮参道を通りますと駄菓子屋さんがあります。
また、このあたりは庭先にお花を植えられているところが多いです。きれいな花を見ていると和みますね。





旧街道はJR高水駅を通ります。
民家のベランダに鬼瓦がたくさんつけられているお家を見つけました。瓦屋さんでしょうか?


「今市宿」にやってきました。呼坂宿とは1kmあまりしか離れていません。


「西覚寺」
ここが脇本陣だった所です。
横には「高水村塾之址」の碑があります。岩国の高水高校の元になった所でもあります。




旧街道は、中山の踏切を渡り中山峠に向かいます。JR岩徳線は1410mのトンネルになります。



民家には木蓮の花が咲いています。

ふと、横を見ると「クマ出没注意」の看板が・・・・・・




慌ててDバックからクマよけの鈴をつけて歩きます。
中山峠頂上には「郡境碑」があります。ここから「岩国市」に入ります。
峠を下りるともう12時半。ここで少し休憩します。
一服し再び歩き始めます。すると道路の右側に「旧山陽道」の矢印が・・・・・・
それに沿って歩き出します。右には川のせせらぎが聞こえます。



然し先に行くと藪が・・・・・・道らしきものもありません。
ここで先ほどの「クマ出没注意」の看板が頭にひらめき、怖くなって前来た道に引き返しました。
観音様を過ぎると差川の町に出ます。天王社、米川駅を通ると街道は島田川沿いになります。


島田川、岩徳線と並行します。
道路には桜が植えられています。まだつぼみの段階ですが満開になると綺麗でしょうね。


島田川沿いの街道には「孝行塚」もあります。
昔、元文、寛保(1736~1743)差川村の旧家三右衛門に仕え主家の恩に酬いるため、一意専心働いて主家の没落を救った
六松の彰徳碑です。


旧街道は、高森宿に入りました。
ここの川沿いにも桜並木が植えられています。桜のつぼみももうそろそろほころびそうです。



「高森天満宮」
高森天満宮 は、は遠石八幡宮、防府天満宮と並ぶ周防ノ国三大天神のひとつで、学問の神様・菅原道真公が祀られています。
社殿は1961年 (昭和36年) の改築、鳥居は1982年 (昭和57年) に建立されました。毎年11月下旬に行われる秋の大祭は大勢の参詣者でにぎわいます。



今年の「花神子祭」は4月14日に行われるそうです。
また、幼年期をここ高森で過ごした作家「宇野千代」さんの句もありました。


高森宿は、道幅も広く旧家も立ち並んでいます。



時計を見ると2時を過ぎました。
帰りの列車は2時25分です。これに乗り遅れると1時間半ぐらい待たなければいけません。
高森宿は次回に回し急いで駅に駆け込みました。


本日は約4時間の街道歩きでした。
今日のGPSです。

有能な吉田松陰を失ったことは幕末の悲劇で、残念でなりません。
今回も詳しいレポートを書いてくださって有難うございます。
純粋で人を疑うことのなかった松蔭、
江戸でもきっと自説は解ってくれると思い、言わずもながを説いてしまい、死罪になってしまったのでしょうか。
熊に気をつけてこれからも山陽道の旅をがんばってくださいね。錦帯橋は行ったことがあるので楽しみにしております。
そうか、熊に注意は北海道だけでは無いのだなぁと・・・
GPSを見ていると山陽新幹線
クマ出没注意にはビックリしました。
クマは九州では生息が確認されていませんので
初めての経験でした。
吉田松陰は30歳ぐらいで処刑されたのです。
もっと長く生きていたら日本の歴史も変わっていたかも
しれませんね。
偶然に吉田松陰を取り上げましたね。
松陰は萩から山陽道を通って江戸に向かいました。
途中この呼坂で弟子と最後のお別れをしました。
句の意味は調べておきます。
24日に錦帯橋を予定しています。
山陽新幹線、山陽自動車道は旧街道を通っています。
山陽本線はここう工事費がかかるということで海岸線になったのでしょうね。
こんにちは。
山陽道を拝見していて、東海道とはまた違った山陽道なりの町並に統一感を感じます。
宿場ごとにも特徴があるのでしょうけど、その街道なりの様式と言うか雰囲気と言うかあるのだろうなと思いました。
よっくんしゃんが道中カッパの振り分け荷物で歩いているような気がします。