よっちゃんのおててつないで

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11月例会「“健康まちづくり”久山町を応援」(福岡県粕屋郡久山町)

2022-11-08 10:47:12 | ふくおかウォーキング協会

11/5(土) ふくおかウォーキング協会11月例会は、「“健康まちづくり”久山町を応援」でした。

タイトルが凄いので少し説明します。

久山町のHPを見ると、

久山町は、現在、そして未来に生きる誰もが健やかに暮らせる町を目指し、健康のまちづくりに取り組んできました。

昭和36年(1961年)、九州大学と町内開業医、町の連携により始まった、「生活習慣病予防健診」を核とする町ぐるみの健康管理は「ひさやま方式」として医学の発展に大きく寄与し、

世界に広く知られています。

これもひとえに、自身の健康だけでなく、子や孫、さらには未来に生きる全ての人の幸せ願った、町民の皆さまお一人おひとりのお力添えのおかげです。

世界に貢献する健康のまち「久山町」

久山町生活習慣病予防健診60周年を記念し作成されたパンフレットです。健診事業の歴史やその歴史をつむいできた人々の思いなどを紹介しています。

◎久山町は九州大学第二内科(現病態機能内科学)と町ぐるみで健康診断の実施、追跡調査、病理解剖による原因究明という研究事業を実施しています。

◎自らが健康づくりに取り組む意識を促し、生活習慣病の予防と健康の保持・増進を図ることを目的に健康管理アプリ「kencom」を活用した健康づくり事業を開始しました。 

また、九州大学久山町研究グループのHPでは、

当教室では、1961年から、福岡市に隣接した糟屋郡久山町(人口約9,000人)の住民を対象に脳卒中、心血管疾患などの疫学調査を行っている。久山町住民は全国平均とほぼ同じ年齢・

職業分布を持っており、偏りのほとんどない平均的な日本人集団である。研究の発端は、日本の死亡統計の信憑性に疑問が投げかけられたことにある。当時、脳卒中はわが国の死因の

第1位を占めていた。なかでも、脳出血による死亡率が脳梗塞の12.4倍と欧米に比べて著しく高く、欧米の研究者からは「誤診ではないか」との声が上がった。

しかし、それを検証するための科学的なデータがなかった。そこで日本人の脳卒中の実態解明を目的として始まったのが久山町研究だった。

 1961年から追跡を開始した第1集団(剖検率80%)の初期のデータでは、脳出血による死亡率は脳梗塞のわずか1.1倍。死亡診断書に病型診断の誤りが数多く含まれていたであろうことを、

剖検という科学的な手法で証明した。

 久山町研究の最大の特徴は、この剖検率の高さにある。正確な死因を知るという点において、剖検以上に正確な診断方法はない。追跡調査の精度も高い。これまでに行方不明となった

対象者は数例に過ぎず、追跡率は99%以上。また、久山町研究では40歳以上の住民を5年ごとに集団に新しく加えているため、生活習慣の移り変わりの影響や、危険因子の変遷をも

うかがい知ることができる。

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私自身、新聞などで久山町の検診の受診率が高いということは知っていましたが、こういう「ひさやま方式」というのがあったのですね。

さて、本文に戻ります。集合場所は、JR篠栗駅、参加人数は29名。今日はいろいろイベントが重なり参加者が少ないです。

コースは、篠栗駅~レスポアール久山~山の神~猪野公園~天照皇大神宮~猪野~赤坂緑道~トリアス久山ゴールの約10km。

 

9:30スタート。

 

篠栗の九大演習林を通り久山町へ。

久山町は、1956年(昭和31年)久原村と山田村が合併してできた町です。両方の村の頭をとり久山町になりました。

 

 

  

 

レスポアール久山で休憩。レスポアール久山は、町民文化交流センターと町立図書館がある複合施設です。レスポアールとは、フランス語で「希望」という意味です。

 

休憩後再スタート

 

歩いていると「山の神」というバス停があります。その先には山の神の交差点が・・・・

よく箱根駅伝の5区の山登りを制したランナーが「山の神」と呼ばれますが、これとは違います。

久山町のHPを見ると、拝殿は大正9年、本殿は昭和2年の建立です。それ以前、は白山山頂付近の花ノ木原にありました。山頂付近には延享4(1747)年銘の石製の祠があり、現在も

「上の白山さま」として信仰が続いています。 白山は「首羅山」とも呼ばれ、伝承では天平年間の開山とされます。

『筑前国続風土記』によると、むかしは大社で350もの坊がありましたが、天正年間にすべて焼亡したと記載されています。現在も山内には坊跡や堂宇の跡が随所に残り、当時の繁栄の跡を

よく残しています。 毎年11月には大祭が行われ、大晦日から元旦には獅子舞が奉納されます。

  

先へ進みます。猪野から右折すると伊野天照皇大神宮の大鳥居が見えてきます。

 

ここでは、近くに宿舎を置く「湊部屋」の力士が幟を立てていました。大相撲九州場所は、13日の日曜日から始まります。

湊部屋は、師匠が現役時代「湊富士」というしこ名でした。現在幕内力士は、7月場所で優勝した「逸ノ城」(前頭2枚目)です。

 

伊野天照皇大神宮に向かう参道の水路には、錦鯉など鯉が泳いでいます。側溝の蓋には、鯉が描かれています。

伊野天照皇大神宮は、「九州の伊勢」と呼ばれています。

 

参道前の川は、伊勢神宮と同じ「五十鈴橋」その下を流れる川が「五十鈴川(正式は猪野川)」です。

  

 

伊野八幡宮は、

仲哀天皇9年(200年)、熊襲征伐の途中、仲哀天皇は「われを祭れば、戦をせずとも財宝の国を得ることができる」という神の託宣を疑ったために、その祟りをうけ香椎宮で崩御したと

いわれる。そのことを知った神功皇后は、小山田の村に斎宮(いつきのみや)を建て、自ら神主となり、天照大神を祀ったとされる。

(この「小山田の村」は、現在も大字として山田の地名が残る、福岡県粕屋郡久山町大字山田に比定される。)

『三代実録』巻卅二に、元慶元年(877年)12月15日辛巳(原作壬午)授筑前国従五位下織幡神正五位下。正六位下天照神従五位下。とある。

室町時代の末期には、都で大神の祭祀を司っていた豊丹生有時が、座列争いの罪で豊前国英彦山の麓に流されたとき、大神の御神体も豊前に移した。有時の子・兵庫大夫は神のお告げを

うけて、御神体を伊野(猪野)に移し、宮居を建てた。天正14年(1586年)、立花城を攻めた島津氏は伊野にも侵入すると、兵庫大夫は御神体を守ろうと竈門山にかくしたが、島津兵は

これを奪って薩摩国に持ち去ろうとした。しかし途中で神の祟りを恐れて豊前国柞原(ゆすはら)八幡宮に納めた。その後、柞原の宮司に「伊野の里に帰すべし」との大神の託宣があり、

柞原の宮司はその旨を伊野に知らせたので、兵庫大夫は御神体を再び伊野に迎え、以前のとおりお祀りすることができるようになったと伝えられている。

立花城主戸次道雪、名島城主小早川隆景、筑前藩主黒田長政など大名も崇敬した。筑前藩第3代藩主黒田光之は、延宝(1677年)に別所に社殿を造営し、大神宮を遷移し、造営に際して

宮司豊丹生信重と工匠工藤太夫清重を伊勢神宮に派遣して、本殿から鳥居に至るまで伊勢神宮に模して造らせた。

天照皇大神宮では20年毎の式年遷宮も行われている。前回は平成19年(2007年)4月8日に挙行された。(wikipediaより)

尚、伊野八幡宮は、猪野という場所にありますが、明治以前は、「伊野」と呼ばれており、その後「猪野」となりました。

  

猪野観音堂・・・・糟屋郡中札所三十三ヶ所中第九番札所

 

 

町立山田小学校の所に「斎宮(いつきのみや)」があります。神功皇后が新羅(しらぎ)征伐の際に自ら神主となり、国内の平安と戦勝を祈願したといわれる神社です。

ここでは、伊野皇天照大神社が伊勢神宮の「内宮」ならば、「外宮」の役割をしています。

 

    

コースは、赤坂緑地に入ります。赤坂緑地は、山田小学校からトリアス久山までの猪野川沿いを整備し、桜のビュースポットとして親しまれています。

 

 

12:10 トリアス久山(現トリアス)にゴールしました。

トリアスは、1999年(平成11年)にオープンした大型ショッピングセンターです。

コストコ、ユナイテッドシネマ、ホームセンターナフコなどが入店しています。