はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

京都時代のおかしな思い出

2024年07月03日 | 昔の話
2024/07/03


京都に住んでいたときに経験した
おかしなエピソードのことです。

夏のことでした。

おなかを下したことがありました。
たぶん生の鉄火巻きが原因だったと思うのです。

2,3日たっても治らなかったので
近所のお医者さんに行きました。

当時はネットで医院を検索する時代ではなく
電話帳もなく(電話がない下宿でした)
近所のこともよく知らなかったので
下宿から一番近い医院に行きました。


古びた建物ではありましたが
M田医院という看板が出ていました。

玄関を入るとお婆さんが出て来て
取り次いでくれました。

しばらく椅子に座って待っていると
診察室に呼ばれました。

診察室にはお爺さんの医師がいました。

私がお腹を下したというと
そばの診察台に寝るように言われて
横になりました。

たいした診察はなかったと思います。
服の上からお腹を押してみるくらいの
ことしかしなかったと思います。

すると老医師が言ったのです。

「あなたは腸結核だ」

その言葉にビックリしてしまいました。

「腸結核ですか?」

本当にそう言ったのですよ。

そして粉薬の入った白い袋を渡され
お金を払って、帰ってきました。

狐につままれたような気持ちで下宿に戻って
一緒に住んでいたコに
「腸結核って言われたわ」と話すと
「同じ家の中に結核の人がいるなんて心配。
別の病院で、もう1度調べてもらって」
と言ったのです。

それもそうだと思い
次の日、別の医院に行きました。

中年の医師に、今の症状と
「近所のM田医院で腸結核といわれたんです」
と言って、もらった薬の袋を見せました。

薬の袋に医院の名前と
住所、電話番号が書いてあったのです。

腸結核と聞いて医師は
驚いたような、あきれたような顔をして
私の顔と薬の袋を見ました。

でも一言も発しませんでした。
M田医院についても何も言いませんでした。

そして検査をなにかしたのかもしれませんが
このあたりのことはよく覚えていません。

ただ、腸結核ではないといわれて
胃腸薬らしきものをもらって帰ってきました。

おなかの具合は
その頃にはもうだいぶよくなっていました。

あれからン十年も経っていますが
腸結核らしき兆候はありませんね。





あのM田医院って何だったんだろうと
ときどき思い出すのですよ。

もう廃業していた医院だと思うのです。

ただ医院の看板をはずしていなかったので
何も知らない私が入っていったのです。

確かに医院の待合室には誰もいませんでした。

でも、診察室は古びていたものの
診察室らしさはあったのです。

腸結核というのは
どうしてそういう診断になったんでしょうね。

もう恍惚のヒト(懐かしい言葉)だったのか
あの老医師は…


痩せて虚弱そうな私は結核のように見えて
おなかを下しているというので
腸結核と思ったのかしら。

わかりませんが
お医者選びに失敗したなと思いました。

「よりによってなんでそんな病院に行った?」
と友達にも言われました。

でも映画の一場面を思い出すようでもあり
私って変なものを引き寄せると
ふと、笑いたくなる気もしてくるのです。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サントス一家とのおつきあい

2024年02月15日 | 昔の話
2024/02/15


角野栄子さんが初めて書いた物語
『ルイジンニョ少年』を読んでました。

 
ルイジンニョ少年とは
角野栄子さんが1959年、24歳から2年間
移民として暮らしたブラジルで
親しくしていた家の9歳の少年です。


帰国後、大学の恩師から勧められて
その本を書いたことで
それ以来書く仕事を続けてきた
ということでした。


その本を読んでいたら
懐かしく思い出したことが
ありました。

私もブラジル人一家と
親しくしていたなあということ。

その一家とは
清水エスパルスのサッカー選手
カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントスです。

静岡時代に、私のいた地区には
清水エスパルスの海外選手たちが
何人か住んでいたのです。


サントス選手は精悍な風貌でしたが
温和な紳士でした。

奥さんのアレッチはきれいな人で
明るくてチャーミング。
とても交際上手な人でした。

小学生の子が2人いて
地元の小学校に通っていたので
近所付き合いにも溶け込んでいましたね。


男の子がカルロス(愛称カカ)で
当時9歳くらいだったと思います。

主人公ルイジンニョ少年と
カカは同じ年頃でしたし
ラテン系の性格の中にカカを感じて
懐かしく感じました。


妹のジュリアーナ(ジュジュ)は2歳年下。
髪の毛がクルクルで
とてもかわいい子でした。

いただいた年賀状です



アレッチに頼まれて、カカとジュジュに
リトミックとピアノを教えていました。

ピアノを弾くカカ。


ジュジュ


サントス夫婦は
言葉もままならない日本で
一生懸命子育てをしていました。

子どもたちの誕生日には
にぎやかなパーティをして
大勢の友人、知人を招いていました。




ポンデケージョというチーズパンを
初めて食べたのも
アレッチの手作りをいただいた時でした。


サントス一家はその後ブラジルに戻りました。
監督の資格を取るために
一旦ブラジルに戻ると言っていました。

ブラジルの住所も書いて
置いていってくれたれど
私は忙しさに紛れて
(ポルトガル語で文章が書けなくて)
手紙を出すこともしなくて
ほんとうに申し訳ないことでした。

カカもジュジュももう30歳を
過ぎているはずです。

今はどうしているかしらね…。

サントス一家のことは
いつか書きたいと思っていました。

私がサッカー選手と知り合いだった
なんて、すごくいい思い出。

写真も25年前のものですから
ここに載せてもきっと許してくれる
のではと思って載せました。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする