2023/04/27
少しピアノに詳しい人なら
「ポゴレリチ事件」のことを知っている
のではないかと思います。
青柳いづみこさんの
『ショパンコンクール 最高峰の舞台を読み解く』
を読んでいたら
「ポゴレリチ事件」の部分が
とても興味深かったので
紹介させていただきます。
・・・・・・引用・要約・・・・・
ポゴレリチ事件とは
1980年の第10回大会でのこと。
第1位次予選から圧倒的なテクニックと特異な解釈、
個性的なファッションで話題を呼んだ
ユーゴスラビアのイ―ヴォ・ポゴレリチ。
演奏映像を見ても、技巧の完璧さは群を抜いている。
その彼があろうことか
第3次予選で落ちてしまったため
審査員のアルゲリッチが席を立って
審査を降りた話は有名だ。
「ごく小数の審査員による不正な行為」
と憤慨するアルゲリッチ。
ポゴレリチは3次予選のマズルカの演奏で、
25点満点で、24点から1点までばらついていたため、
ファイナルに進めなかったという。
この年の審査員だった安川加寿子は
「めちゃめちゃのようでいて表現力があり、
天分を感じさせる不思議な演奏家」
「ピアニストとして抜群の能力を認められながらも、
ショパンコンクールという前提での
弾き方や解釈から逸脱していたことは否めなかった」
と総括する。(p.62~64)
Pogorelich: Chopin Sonata No.2 (live from Chopin Competition)
・・・・・再び引用・・・・・
コンクール当時、
ポゴレリチのマズルカやポロネーズの解釈が
ポーランド審査員の反感を買った
ということになっていたが、
ポゴレリチは2005年、
台湾の音楽評論家・焦元薄(チャオユアンプー)との対談
(『ピアニストが語る!』)で衝撃のエピソードを語っている。
(この本、図書館から借りてきました)
〈あのときのコンクールの第1位は、
あの年の4月にソ連によって決定されていました。
あの頃ソ連の文化部の下部に
国際コンクールに対応するための組織があり、
専門にソ連の参加者すべての「面倒を見て」いました。
私は1978年イタリアカサグランデ国際コンクール1位、
1980年カナダのモントリオール国際コンクールで
1位になっていました。
モスクワ音楽院のピアノ科主任の
ドレンスキーが私に会いに来て、
私にショパンコンクールを捨てるように「提案」しました。
彼は私が彼らを妨害さえしなければよく、
まだだれを推すか人選していないので
1982年のチャイコフスキー国際コンクール第1位と
交換できると言いました〉
ポゴレリチはこの「提案」を受け入れなかったので
報復されたというわけだ。
〈私がファイナルに残るのを妨げたのは
私の音楽的な解釈ではなく、
審査員同士の政治的な要因によるものでした。
ドレンスキーは私に零点をつけ、
そのほかにソ連の支配下にある共産主義国家の審査員も
零点か1点しかつけず、
西側の審査員はそうではありませんでした。〉
アルゲリッチがテレビのインタビューで語っていた
「不正」とはこのことだったのか。
裏付けを取ったわけではないので
真実かどうかはわからない。
・・・・・・・・・
と、青柳さんは書いています。
ところで
この第10回大会の優勝者は
ベトナム出身のダン・タイ・ソンなんです。
ダン・タイ・ソンは北ベトナムのハノイ出身で
当時モスクワ音楽院に留学していました。
ドレンスキーの1位にしたいピアニストとは
ダン・タイ・ソンだったのか。
DANG THAI SON Chopin Concerto #2 (Chopin Competition 1980)
ダン・タイ・ソンは協奏曲2番を弾いて
優勝しています。
この選曲は珍しいのだそうです。
ベトナム戦争は75年に
終わっていましたが
東西冷戦が何らかの影響を
与えていたのでしょうか。
私のようなものには
到底わからないことですけど。
(動画をお借りしています)