はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

ワンプレートご飯 ベランダのミニトマト

2024年06月30日 | 食べ物
2024/06/30


6月最後の日曜日。
もう2024年の半分は過ぎてしまったんですね。


今日の夕食はワンプレート

ワンプレートにするときは
ちょっとづつ残ったおかずの寄せ集め😋 


ほんとうは残りもの

少しだけ残ったご飯は
枝豆とゴマを混ぜて豆ご飯

牛肉と長ネギのすき焼きふう
海老と卵の炒めもの

はんぺん1/4とカジキフライ1口
人参のラぺとサラダ野菜
ブロッコリー、トマト
カブのぬか漬け一切れ、リンゴ。

こうして盛りつけると
けっこうなご馳走に見えるような…。

ちょっとづついろいろ食べるので楽しい。

洗い物はお皿1枚。
ワンプレート、楽でいいです。



ポットに水と日本茶ティーバッグを入れて
冷蔵庫に冷やしておくと
30分くらいでおいしい冷茶ができます。




お湯で出したものとまた違った
甘みやうま味がありますよ。

夏の暑いときはお湯を使わずに
冷茶を作ってみてください。

・・・・・・・・・・・

ベランダのミニトマト
実ができてきましたよ。




トマトは育てたことがなかったので
実がついただけでも感激。

ちゃんと赤くなって収穫できるかしら
楽しみです。



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『安井かずみのいた時代』その3

2024年06月29日 | 
2024/06/29


島崎今日子著
『安井かずみのいた時代』の3回目です。

シリーズもののようになってしまいましたね。

この本を読むまで
安井かずみも加藤和彦もよく知りませんでしたが
そのせいでかえって興味深く読んでいました。


・・・・・・・・・・

1993年12月に安井かずみは
左肺上葉のがんと診断された。
悪性度の高い腺がんでステージⅣだった。
  
東京医科大学病院の加藤治文医師が
主治医だった。

当時はまだ告知するかどうか
議論のあった時代だったので
余命のことは加藤和彦にだけ伝えた。

余命は1年と聞いて
「じゃあ、その1年間、私はすべての仕事をキャンセルします」
と加藤は答えた。

「3年余命があれば話したかもしれませんが、わずか1年では立ち直るまでの時間が惜しかった。それならこの1年を、僕の全力で妻を支え、できるだけ妻らしい生活を全うさせてやりたい。」(p.328)

当の安井は3月16日の日記に
「精神的には”今の自分の状態が解らないこと”が辛い。不安、何病? そして治療は?」と心中を吐露している。
そして、その日の教授回診で告知を受けた。

最初は前向きに捉えていた。
ノートに夫への愛と感謝を書きつらねた。

「私たちはやっと本当の夫婦になれたと思う。
これで以後、本物の人生ができる」と書いた。 
(『ありがとう!愛』大和書房)


安井は抗がん剤と放射線治療を受けた。 
治療によって一時回復したかのように
思われたが、再発をした。

12月12日には夫婦そろって
キリスト教の洗礼を受けた。

亡くなる前の40日間
加藤は病院に泊まり込み献身的看護を続けた。

「1994年3月17日、午前6時5分、夫の祈りの声を聴きながら安井は眠るように息を引き取り、55年の生涯を終えた。」
(p.336)

取材で「妻との約束を守ることができた」
と加藤は語っている。
彼は前夜式で「寂しいけれど、悲しくはない」
と言った


主治医の加藤治文の話
「和彦さんはやさしく、世俗的でなく、私たちにはとても持てないような心を有した人。マナー、道徳、精神のコントロール、どれも素晴らしいですし、何より真の愛を備えた人でした。僕はこれまで50年の医師生活で、あのような素晴らしい家族に会ったのは初めてだったので、僕の心の歴史に残る場面を見せていただいた。」(p.337)


しかし、安井の実妹のオースタン順子の
受け止めは少し違っている。

「昼間に病院に見舞いに行くと、病室の隣りの予備室には誰もいないことが多かった。その頃はもう延命治療でした。
『このままでは姉が可哀想。つらいんじゃないでしょうか』と主治医に訴えてしまった。その翌日、早朝に姉は亡くなった。
姉の遺体は葬儀までの4日間、病院の霊安室に置かれたままだった。
『なぜ家に連れて帰ってくれないの?』と加藤に尋ねると、『階段があって棺を運ぶのが大変なんだ。』と答えていた。
それから、加藤は順子や母が六本木の家に来ることを拒むようになった。周囲にはいろいろな噂が飛びかっていた。彼には恋人ができていたのである。」

「けれど順子は加藤を恨むことができない。それは、彼が姉との生活の中で耐えていたものがあることを容易に想像できるからだ。友人たちの前で激しくなじられる彼の姿も目撃していた。母は加藤さんには心から感謝していました。」
(p.354)


二人は最期まで理想のカップルを演じていた。





編集者・矢島祥子の話 
「葬儀が終わって間もなく、六本木の家の前に、安井の服や下着や写真が透明なゴミ袋に入れられて、大量に捨てられていた。『下着は母が整理した』と加藤は淡々と説明し、私はショックを受けた。」(p.278)


吉田拓郎の話
「加藤は優しすぎて弱い。むしろ鈍臭い。だから自分より先を歩いてくれる女じゃなきゃあダメ。 
安井の友人たちは、この結婚を歓迎しなかった。酒を飲めなかった男がワイン通になっていて、えらく一流好みになっていた。
日本一ゴージャスでおしゃれな夫婦にどこか空虚さを感じずにはいられなかった。家はまるでホテルで、まったく生活感のない空間でした。人間は普通、あんなところに長年いたら疲れてしまいますよ。」


実妹・順子の話。
「姉は自己主張が強く勝ち気な少女でした。姉は一家の女王蜂でした。私は命令されて、年中叱られていて、だから怖いというイメージが強かった。」(p.340)

安井は自分自身を
「「激しい気性」と書いていた。

なにより上昇志向が強く、一番になりたがった。

安井はキャンティで遊んでいた頃から「どう自分を見立てても、私は平凡な女であった。その頃から私は、自分の持っている普通さ、自分の育ちの普通さ、自分のほかに対する反応の普通さをとても意識し始めた」と自書に書いている。(p.68)


その勝気さと頑張りと社交術が
若くして当代随一の売れっ子作詞家に
彼女をのし上げたのだった。

戦中の生まれである彼女は
「ぜいたくは敵だ」の時代を知っている。

戦後、日本が経済力を高めていった時期は
自分の欲望に忠実に生き、贅沢をする時代でもあった。

彼女の数多い恋愛遍歴、豪遊
ハイブランドずくめのファッション

だが、心が満足していなければ
いつも寂しくて不安である。
モノや人では心は満たされないのである。


コシノジュンコの話
「ZUZUはトノバン命みたいになっていて、彼がちょっと誰かを好きになりそうになると、ものすごく神経質になって、ファッションを変えていた。彼の前では何か演じているような感じがしたものです。経済的格差があって、トノバンも途中からヒモみたいに言われたりして可哀想だった。
トノバンは彼女の最期まで、あれ以上やりようがないというくらい献身的に尽くしていました。だから彼の早い再婚。ZUZUの四十九日を過ぎないうちにガールフレンドと手をつないでみんなの前に現れた時には驚きましたけれど」
(P.69)


経済的に自立して、多くの遊びも恋愛も重ねながら
結局はただ一人の男性との結婚生活を望んだ。

大宅映子が安井のジュエリーを
羨ましがったとき
「あなたには娘が2人もいるじゃないの!」
と言ったという。

夫婦と子どもという家族のあり方が
安井のもっとも望む形だったのだろう。

このあたりは昭和の家族観から抜け出ていない。
夫婦はいつも一緒にいるという考えで加藤を縛った。


地位も名誉も財産も持っていた安井だが
自分の寂しさを満たすためにお金は使っても
人のために、社会のために何ができるかという
考えにはまだ至っていないようだ。

その意味でも、あの時代の象徴的な
人だったと思われてならない。





二人が暮らした六本木の家は全面改装され
翌年2月、加藤は中丸三千絵と再々婚。
結婚記者会見で「安井とのことは完結しました」といった。

そして5年の結婚生活の後、中丸と離婚した。

2009年10月16日、加藤は軽井沢のホテルで自死。
62歳だった。

「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」との趣旨が記されていた遺書があった。


軽井沢で行われた葬儀には約100人が参列し
最後に同居していた30代の女性が
加藤の遺影を抱いて助手席に乗り込んだ。

加藤和彦もまた、何を求めていたのだろうか。



 
 


・・・・・・・・・・・・

長々とお読みいただきました
『安井かずみのいた時代』は
これで終わります。

(写真はネットよりお借りしました)

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ひび割れたレインシューズ! おまけは金華さば寿司

2024年06月28日 | 日々の出来事
2024/06/28


今日は関東地方にも大雨が降りました。

かなり強い雨でしたが
出かける用事があって久しぶりの
レインシューズを履いて出かけました。

いつもはスニーカー型の
雨靴を履くのですが
大雨だったので長靴タイプにしたのです。

今まであまり出番のなかった長靴です。

バスで往復したので
長い時間雨の中を歩くことはなかったけれど
道路は水たまりができているような強い雨。

家に帰り着く頃
靴の中まで濡れた感じが…。

レインシューズを履いているのに、なぜ?

家に帰ってレインシューズを脱ぐと
やっぱりソックスがじっとり湿っていて
靴の中まで水が入ったことがわかりました。

どうしてだろうとよくよく靴を見ると‥




あれ⁉
表面のビニール(コーティング?)が
ひび割れてボロボロと剥がれてきていたのです。
全体的にです。

ビニールの下は布なので
どんどん水が滲みてきていました。

今までいろんな靴を履いてきたけれど
こんなになった靴は初めて。

もうまったく防水の役目をはたしてません。

ピンクの雨靴というのが珍しくて
雨の日が楽しくなるかなと買ったのですが
特殊な色であまり履かなかった靴でした。

高い靴ではなかったけれど
靴の専門店で買ったものですし…
こんなことがあるんですね。

もちろん、即、処分となります。

まあ、びっくりしたので
ここに書いておきます。

お粗末な話題ですみません。

おまけ

デパートの催事場で
「東北のうまいものめぐり」展やってました。

ずっとサバ寿司を食べたかったので
東北のキラキラした海鮮はスルーして
金華さばの棒寿司を買いました。

サバ寿司のおいしいものは
本当においしいですからね。




石巻市の本田水産、金華さば寿司

下は燻製さば、上は焼き鯖



身の厚い金華鯖


これがおいしかった!
あぶらがのっていて旨味もあります。
もっちりとして、おいしいご飯
酢加減もちょうどいい。

充分、満足しました。



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包まないシューマイ

2024年06月27日 | 食べ物
2024/06/27


先日、包まない餃子を作りましたが
今度はシューマイを作ってみました。

豚ひき肉、ネギ、椎茸、豆腐を混ぜて
タネ作り



大皿にキャベツを敷いて
ざっと丸めたタネをのせます。




肉の上にシューマイの皮をのせて
軽く手で押さえます。




ラップをして
レンジで600ワット、5分加熱。

5分たって取り出すとこんな感じ

中まで火が通っているか確かめて
再加熱の必要があれば1分ほどかけます。

シューマイ(らしきもの)が出来上がり!



かぶせただけなので
雑な感じは仕方ないかな…

ひっくり返さないで
皮を上にして盛りつけてもいいと思います。

味はシューマイです😄 
カラシ醤油でいただきます。

フライパンを使わないのが
ギョーザのときより楽な気がします。

ズボラ料理とは言わずに
アイディア料理と呼びたいですね!

おなかに入れば同じ。

見た目にこだわるなら
もう少し丁寧に丸めて皮をのせればよかったかも。

空心菜の炒めものも添えていただきました



ギョーザやシューマイで
面倒な点といえば肉ダネを作ること。

スーパーで売っている
野菜を混ぜた肉ダネを使えば
さらに簡単だと思います。



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二人の結婚『安井かずみがいた時代』その2

2024年06月26日 | 
2024/06/26


島崎今日子著『安井かずみがいた時代』
の続きです。

 

1977年、安井かずみは8歳年下で
ミュージシャンの加藤和彦と再婚。
当時、安井は45歳、加藤は37歳だった。

以下、本書より抜き書き、要約引用させていただきます。


「安井が加藤と出会ったのは、1970年代の始めである。当時、安井の恋人のミュージシャンが加藤の友人という縁もあり、交流があったが、加藤には福井ミカというパートナーがいて恋には至らなかった。」(p.181)

「二人の再会は1975年12月、安井のエッセイ集『TOKYO人形』の出版記念パーティであった。加藤の離婚を聞いた安井は〈しめた〉と思い、〈明日、電話してください〉と加藤に囁いた。」

「夕食も休暇も、すべての愉しみを夫婦で共有するのが安井の望んだ結婚の形である。その抜きんでたセンスと経済力に支えられた生活は、庶民には到底手の届かないものだった。」(p.184)

ワインのPR誌の取材で、ウィーン、ヴェネツィア、ローマを巡ったとき、夫婦は会社が用意したビジネスクラスのエアと4つ星のホテルを、自費でファーストクラスと5つ星アップグレードした。 

太田進は語る。(雑誌『週刊ホテルレストラン』を創刊し、「オータバブリケイションズ」の2代目社長。加藤の弟分のような存在で、二人の旅のコーディネートを依頼されていた人物である。)
「世界のホテルで世界中のセレブのドレスコードやマナーを見て、学ぶところは多かったのですが、あの二人は最初から日本人離れしたものを持っていました。かずみさんは英語もフランス語もできて、イタリア語も挨拶ぐらいはできた。どんな人を相手にしても動じない雰囲気を持っていた。」

「うちの母が言ったことがあります。加藤さんはかずみさんと出会ったことで、相当いろいろ学んだのよ。フォーク・クルセダーズの頃はエスタブリッシュの世界に来るような人ではなかった。かずみさんによって立ち居振る舞いやワインのこと、絵のことなどを学んでいったのでしょう。」(P.189)


二人はハワイ、マウイ島のカパルアに別荘を買った。
加藤は安井との生活を大事にしていると公言し
どんなに多忙でも二人で夕食を摂る
という決めごとを破ることはなかった。

安井も加藤と結婚してから
2人の生活を大切にしようという気持ちだった。

「いままで私は日常生活のない女だったの」

「加藤和彦と結婚してからは、健全で健康的な〈昼の生活スタイル〉にシフトする。保守的な安定志向が散見される。
加藤和彦と理想の夫婦として生きることが、女の幸せの完成形としてエッセイに綴っていった。」(p.100)

太田は長い付き合いの中で、二人がけんかをしているのを見たことがない。
「加藤さんが言うことをきいちゃうんですね。」

そして一方、安井の女友だちの目には、「彼に気を使いすぎて痛々しい」、「尽くし過ぎ」と映っていた。(p.191)


安井と結婚してからは
加藤の音楽の友人たちとは疎遠になっていった。

安井と加藤には収入格差があった。 
安井にはカラオケブームの莫大な印税が入って来た。

二人の生活を、日本中が
ショーウィンドウに飾られた商品のように見ていた。

大宅映子の話
「『贅沢は敵だ』の大宅壮一の家で育っている私には別荘なんてありえない話。和彦さんからの誕生日プレゼントが紫色のポルシェであったり、カルティエの500万のイヤリングであったり。」


大和書房の編集者・矢島祥子の話 
初めて六本木の家を訪れた矢島は安井の変貌に驚いた。
「メイド服を着たメイドさんがいる家の中で、アルマーニのジャケットを着て、ヴァンクリフ&アーベルのダイヤのイヤリングをつけていた。私の知っている安井さんってお金持ちで、サンローランも着ていたけれど、パリの名もない店で見つけたスカートをはいていたりする人。ブランドで飾り立てることを一番嫌っていた人が、ブランド尽くめのコンサバになっていた。幸せそうに振る舞っていたのに、私にはあんまり幸せそうな顔には見えなかった」(P.273)

「あくまで私の推測ですが、安井さんが六本木の家を買ったのは、加藤さんとの関係を再構築するためだったんじゃないかと思います。結婚して数年たったころ、加藤さんの浮気問題に、安井さんはひどいショックを受けていた。」


傍目には、キャリアも収入も上の女が
年下の男をリードするように映っていた。
ただ、男が他の女に気持ちを移した瞬間に
二人のパワーバランスは完全に逆転した・・・

安井は加藤と夫婦を生きることが
アイデンティティになっていた。
加藤にとっても、安井とカップルでいることは
ステータスだったに違いない。(P.276)

1993年、安井かずみは肺がんのステージⅣ
であると宣告された。


この続きは次回に。




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