2019/04/27
3月の世界選手権以来、フィギュアの採点について書かれているものを目にすることがあります。採点にジャッジの主観が入る、加点の基準があいまい、という内容です。
「フィギュアスケーターになって最初に学ぶことのひとつは、ジャッジはお気に入りの選手を優遇するということ。競技会に来るときはいつだって、どの選手がもっとも優秀か決めていて、それが得点に反映されるのだ。」
「ジャッジの判定が公平かどうかは、議論が出るところです。私は、ほとんどの場合納得できるものだと感じます。ただ、演技構成点では、やはりジャッジの好みが強く反映されていると感じます。ジャッジの生まれた国や文化、選曲の好みもそれぞれ違っているので、芸術の評価には主観が大きいのです。
新しく出た若い選手がいい演技をしても、1回だけでは点数はあまり出ないことが多いのです。選手のそれまでの成績から考慮される部分が大きく、能力があるかどうかは、ジャッジも半信半疑なのです。」
つまり判定には主観が入るということですよね。 機械が測定した数字でもない限り、芸術点に関しては主観はあってしかるべきものといえるのでしょう。
私は、それについてピアノコンクールを思い浮かべました。
ハイレベルの国際コンクールの本選会をテレビで聴いていると、誰が優勝かまったくわからないのです。
ピアノコンクールは、どんな基準で1位、2位、3位を決めているのでしょう?
昔、中村紘子さんが書いた『ピアニストという蛮族がいる』には、中村さんはショパン、チャイコフスキーコンクールの審査員をしていて、どういう基準で1位を決めるのか書かれていました。
その本がもう手元にないので、正確な文章ではないのですが、ハイレベルのピアノコンクールの審査となると、誰を1位にするかはもう審査員の好みの問題になってしまうようなのです。
私の記憶では、ステージ映えがする容姿、観客をつかむ力、今後ずっと一流の演奏家としてやっていけるかどうか将来性で決めるようです。もう本選会に出てくるピアニストたちの演奏技術はすごく高いので、あとは人となりを見ているということでしょうか。
ピティナのサイトでは、「審査員は何を聴いているのか」(2016年)ということが書かれていて、興味深いのです。時間のある方は読んでみてください。
審査の基準(ご参考までに)
技術的なところを見ている感じですが、「自発的に音楽を楽しんでいるかどうか」は、どうやったらわかるのでしょう?
芸術といわれるものの採点は主観が入ってしまう。だからこそ複数のジャッジが判定するのではないでしょうか。有名な話に、ショパンコンクールで審査員のアルゲリッチが自分の推したピアニストが選ばれなかったことに腹を立て、審査員を辞退した話があります。
ピティナ審査員の湯口美和さんの言葉の中に「限界に達した演奏(先生から細かいところまで指導され鍛錬した結果)なのか、まだ伸びしろや可能性があるのか」を見ていること、「将来性のある人を温かく見守る」姿勢であることとあります。
これは注目すべき点ではないでしょうか。
フィギュアスケートに戻しますと、やはり同じような視点で見ていると思われることはあります。
私は羽生さんのファンではありますが、世界選手権の採点や2位については妥当だと思うのですよ。
足の状態がまだ完全ではなかったこともあるのでしょうが、先のピアノでいうところの「限界に達した演技」という感じを受けました。
そして、曲を選んだきっかけとなったプルシェンコさんやジョニーさんへの憧れ、トリビュートの表現はどうだったのか。
演技後の発言、「勝たなければ意味がない」、「負けは死ぬのも同じ」という言葉。競技者である以上、順位のつく大会に出ていれば勝つことにこだわるのは当然と言えますが、演技する喜び、幸せはどうだったのでしょう。以前によく言っていた「滑ることのできる幸せ」は味わえていたのかな。
ジャッジは、選手の伸びしろ、将来性という点も見ているはずです。若い選手は勢いがあったし、ネイサンには余裕も感じられた。羽生さんはそこのところがわかっていて、だからネイサンのことを「かっこいい!」と言ったと思うのです。
JOC表彰、強化選手の選定についても、将来性や伸びしろという観点で見ていると思います。
時は流れていく、いろいろなものが曲がり角に来ている、と私は思っています。