2021/07/31
今読んでいるのは武田砂鉄さんの『マチズモを削り取れ』(集英社)。
この本がとてもおもしろくて、武田砂鉄さんの鋭い視点に感心しています。
この本の感想はたくさん書きたいのですが、それは別の機会にして。
まずは冒頭部分に書かれていたこと、マチズモと離れますが、自分の感想を書いてみます。
〈ただ道を歩くだけでも、抱えている恐怖が男女で異なる。夜道は5分ほど歩いたらまず振り返り、まわりを確認するようになった。
男性と道ですれ違うとき、道を譲ってもらえることはなかなかないと気づき「超ハードモード」(視線をたどり着きたい方向にピッと合わせ、まわりへの配慮の視線を捨て、ただわが道を突き進むモード)に切り替えて歩かないと、うまく人ごみを歩いて渡れないことに気づいた。でも、よく考えてみると、このモードって、多くの男性の歩き方そのものなんじゃないか。・・続く〉(P.14)
後半部分、「道を譲ってもらえない」に「あ、同じ!」と膝を打ちました。私も東京に来てから、同じ思いを抱いていたのです。
東京では狭い歩道にたくさんの人が行きかっています。真向こうから歩いてくる人がいて、自分が道を譲らないと、きっとぶつかってしまうという場面によく遭遇します。
皆さんに道を譲っていただけるほどに迫力があるか、あるいは高貴な雰囲気、あるいは高齢者感を漂わせているわけでもないので、自分がちょっとよけて、道を譲ることになるのです。
でも、内心は、レディファーストだよとか、若い人だった場合、年長者に道を譲るってことはないの、と密かに思ってきました。
私はだいたいは道を譲ります。
譲ることのできる人のほうがえらい、とかなんとか、自分に言い聞かせてます。
でも、この道を譲ってもらえない感じというのは、今の所に住むまで、どこの街でも感じたことがなかったのです。人が多いためだとか、東京という町は自己主張をしないと生きていけないんだ、と解釈したのです。
確かにKさんの文章のように、「超ハードモード」にして歩いていくと譲ってくれるようです。あるいは、下に視線を落として前を全然見ていない人のように歩くとね。
ほんとうに東京では人に道を譲りなさい、などと教えると、ずっと譲り続けなくてはならなくなってしまいます。
だから、それが必要とされる場所、仕事とか、固有名詞が通用する空間での振る舞いとしてはあるけれど、単なる歩行者として歩く道とでは、みんな使い分けているのだと思います。
東京近郊の街に行ったとき、道ですれ違った中学生の男の子が「こんにちは」と言った時には、驚くと同時に、まだ、知らない人にも挨拶をする文化、敬意を払う文化が残っていた!と感激してしまいました。
武田砂鉄さんは、観察したところ、道を譲らないのは男ばかりだったので、「直進男」と名付けています。
私の場合は、男ばかりとは限らず、一般的には若い人が多いです。高齢の方たちは男女問わず、道を譲ってくれる方が多いです。礼儀作法として、そういう教育を受けた世代なのかなと思います。
道を譲ってもらえるとうれしくなって、こちらもお礼を言って、通していただきます。
『マチズモ』に書かれているのは男性優位社会についてなので、私の、どちらかと言うと、年代による道の譲りとは主旨が異なっていますが、東京の道を歩くということについて、ずっと抱いていたモヤモヤと合致したということで、書きました。
ちょっと余談です。
自転車での出会い頭は、事故になると困るので、100%譲っています。そのほうが簡単なのです。ちょっとだけ止まったり、避けたりするだけのこと。
もしもぶつかると、怪我がなくても、5分、10分は「大丈夫ですか」とか「すみません」とか、「警察を呼びますか」とか、会話をして時間がかかるので、急いでいる場合は困ります。それだったら、2~3秒でも止まって待ったほうが何ごともなく、スムーズなんです。
これはいつか、仕事先の人が、帰宅時に交差点で自転車同士でぶつかって病院に運ばれ、レントゲンを撮った後、警察で聞き取りがあり、深夜まで帰宅できなかった、という話を聞いたからなんです。
1日の仕事の疲れと、打った体が痛いのと、何時間も警察で待たされたのとで、本当につらかったと言っていました。
それを聞いて、ほんのちょっとのことだから、自転車は100%譲ろう、と思ったのです。相手が譲ってくれるとは期待してはいけないのです。
歩くのも、自転車で走るのも、何事もなく通っているように見える場合は、小さな配慮があって、表向きは気がつかないのです。そんなのが一番いいのです。