2022/05/31
今日で5月も終わり。
あっという間に6月が来ますね。
先日、葬儀を終えた義兄の人生は
仕事も安定しており、なによりも
よい家族に恵まれて、概ね幸せだったでしょう。
人生全体を見れば幸せだったと思いますが
最期の病院ではちょっとつらかったのでは
と思われてなりません。
最期の病院ではちょっとつらかったのでは
と思われてなりません。
人は誰でも例外なくこの世を去っていきます。
特にがんの場合はゆっくりと死に向かっていくので
最期をいかに苦痛少なく穏やかに過ごすかは
ある程度準備もできることですね。
義兄は3年前にがんの手術を受け
その後、抗がん剤治療を受けながら
過ごしていました。
今年のゴールデンウィーク前までは
自分の身のまわりのことはできていて
普段通りの暮らしをしていたようです。
5月の連休には子や孫たちがやって来て
楽しく過ごす計画も立てていたとのこと。
それが、4月27日に足の腫れ、むくみで入院。
蜂窩織炎の治療を優先して
それがよくなったら緩和ケアの病院に転院する
という流れだったと聞きました。
義兄の具合が悪いと初めて電話があった時は
2つの緩和ケア病院を紹介されていて
6月に入ったら面談に行くと義姉は言っていました。
だから、それを聞いた私たちは6月頃には
よくなるものと思い込んでいたのです。
ところが実際には状態は急速に悪くなりました。
臨終の日の朝までは5人部屋にいたそうです。
最期の日になって
やっと一人部屋に移されたとのこと。
臨終間近の状態でも5人部屋にいたことに
私は驚きました。
義兄にとって5人部屋では遠慮があったりして
つらかったのではと思いました。
そしてコロナ禍もあり、家族の面会さえできずに
義姉も1週間ぶりでガラス越しに義兄の顔を
見たといいます。
一人部屋に移った時は人工呼吸器をつけ
会話はできず、眼を閉じていて
人が来てもほとんど反応しない状態だったそうです。
その数日前から会わせたい人がいれば
会わせてやってくださいと医師から
言われたとのこと。
その時の余命宣告では
あと半年といわれていたとのこと。
義兄の住んでいる地域は京都郊外の新興開発地で
生活の不便はないのですが
ただ医療施設だけは少なかったそうです。
この病院が地域で唯一の総合病院だったそうです。
兄は病院を移りたいと言っていたようですが
それもままならず、もう諦めてしまったのでしょうか。
最期には、ここで終わりたいと言ったのです。
一度家に帰るという希望も叶いませんでした。
義兄は製薬会社を定年まで勤めあげた人なので
医療の知識はかなりあったはずです。
ネットでいつも病気や病院のことを
調べていたそうです。
会食後の挨拶で、義姉が
「病院を変わりたいと言っていたのに
それをしてやれなかったのが心残り」
と泣いたので、ほんとうに可哀想でした。
健康なうちから、自分はどうしたいかを
よく考えて、よく調べて、家族とも話し合って
意思を確認しておくのがいいと痛感しました。
そして、最期くらいは穏やかに過ごせるように
自分の意志を押し通すことも、大切だと思います。
もっとも、こういうことは
私ひとりが思ったことで、口には出してません。
今は静かに冥福を祈るばかりです。