2022/04/27
最近読んだ本です。
著者のきたやま おさむ氏は
私にとってはフォーク・クルセダーズで
「帰ってきたヨッパライ」を
歌っていた人なんです。
曲のヒット後に解散、学業に戻り
精神科医として活動なさっているのは知っていました。
でも最近のことは知りませんでした。
九州大学で教鞭をとり、退職後の現在は
白鳳大学学長をなさっているそうです。
近年の写真を拝見したら
白髪の老紳士になっていらっしゃいました。
さて、本著の紹介です。
「ハブられる」というのは
私の年代ではあまり使わない言葉ですが
省かれる、仲間外れにされるということ。
「村八分」などの言葉から、なんとなく想像
できる言葉ですね。
こうした現象が起きやすい日本社会の背景と解決法を
深層心理学で解き明かそうという著書。
どういう人がハブられやすいのか
どうしてハブるのかなどが書かれています。
このあたりをまとめます。
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ハブられやすいのはこんな人
- 空気を読めない人
- 自己中心的な人
- 能力が問題になる人 ・・遅い、鈍い、不器用な人のほか、能力が高い人も嫉妬の対象になりやすい
- 過敏で傷つきやすい人 (P5∼7)
なぜハブるのかといえば
私たちは無意識に自分と違うものを排除してしまう性質がある。
同質性を維持しようとする仲間内集団と「排除される個人」という図式がある。
人は同類幻想があり、同類だから安心だ、わかり合えると感じる。(p.35)
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自分と違うもの、異質なものを排除しようとする図式は
昔話にも見られると書いています。
この本の中で私が最も興味深かったのは
ここ、「異類婚姻話」の解釈。
異類婚姻話でよく知られているのは
「鶴の恩返し」、「蛇女房」、「イザナギ・イザナミ神話」など。
妖怪や動物が姿を変えて現れ
人間と婚姻関係を結ぶというもの。
また本文を引用、要約させていただきます。
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「鶴の恩返し」、「蛇女房」
女性主人公が働き者で生産的な存在として描かれる。その生産性の背後には、自らの体を犠牲にし、傷ついている様子もうかがえる。女房達の物語では自分が異類であることを隠していることが共通している。
異類であることがばれてしまった女性は自ら去っていく。関敬吾によれば恥ずかしさを感じて去っていく。
こうした物語には女性が体験してきた歴史が投影されている。(p.92)
女性のほうは、自らの体を犠牲にしてかいがいしく生産的であるのに対し、(「自虐的世話役」と呼んでいる)男のほうはそれに依存し、しかも裏切ってしまう。
「イザナギ・イザナミ神話」や「安珍・清姫伝説」では、男性の裏切りに対して、女性が怒りを表現する。こうした女性の怒りは、それに対して罪意識を持たない男性側の視点からは、とても恐ろしい化け物に映った。
怒っても怒っても、これが忌避されるところに、私は、怒る女性における、やりきれない「空しさ」を感じる。
古事記から時代が下り、「鶴の恩返し」や「蛇女房」になると、裏切った男に対して女は怒りを表さない。傷つき悲しそうに去っていく。
恥かしい思いをさせられた方が自ら去っていくという話になっている。
つまり男性の裏切り、ひどい仕打ちに女性は怒り続けてきた。なのに何度怒っても、それを聞き届けてもらえなかった。実に手ごたえのない、むなしい事態でしょう。
ならば、もう自分が消えてしまえばいい。怒るものが体験してきた、怒ったら負けになる「諦め」の歴史がうかがえる。ここに見られる解決は、怒りを外に向けるのではなく、怒りを自分に向ける「怒りの内向」ということです。
自己嫌悪の心性
私たちは異端視されたら、自分が消え去ってしまえばいいと思い込む、「心の台本」を演じさせられている可能性がある (p.92)
異類でない人間の側は無邪気のようだが貪欲であり、悲惨な結末を迎えることに無自覚であり、そして、異類のほうは必ず排除されるという定番の台本を私たちは継承してきた。
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恥を感じたほうが去っていくというのは
現代だったら
いじめによる不登校とか、自殺を連想させます。
きたやま氏は「心の台本」という言葉を何度も使っています。
「演劇には観客に見える舞台と、
役から降りて素顔に戻ることのできる楽屋がある。
人生にも、楽屋に相当する部分が必要。
台本があることを知り、それを読み、
よりよい台本に書き換えていく。」 (P.16)
つまり、つらい状況にあった時に
「これは劇なんだ」と考え
「では一旦舞台から降りて、楽屋に戻ろう」
と思えばよいのです。
人生を劇としてとらえる視点
「劇的視点」を持つ、とも書いています。
自分の人生の役を演じているのは自分自身。
つらい、不本意な状況だったら
いったん今の状況から降りて(リセットして)
よりよい台本を自分で書き換えていこう
という発想を持つのですね。
自分が異類(周りとは異質な人間)と感じたら
傷ついて恥じて消え去るのではなく
「自分らしく生きるためにできることは何か」を
考え、とにかく生き延びるのです。
生き延びろというのは
精神科医ならではの言葉かなと私は思いました。
自殺してしまう患者を多く見てきたことでしょう。
ここからは単なる感想。
日本の異類婚姻話では、異類は女性が多い。
女性が鶴や蛇にさせられているのはなんでかなあ。
男は人間で、女が異類。
男性中心の視点ですね。
ところが西洋の話では
男性が異類になっているのが多いんですよ。
「カエルの王子」、「美女と野獣」
「長靴をはいた猫」など。
こういう異類は、実は王子の仮の姿であることが多い。
異類でも恥じて去ることがない。
なぜなら、元は立派な王子だから。
日本と西洋の性役割の差を感じますね。
これ以外にも多くの示唆に富むことが
書かれていて、興味深かった本です。