今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

イチローがイチローを超えた日

2007-07-26 | 歴史
昨・2006(平成18)年の今日(7月26日)は、イチローがイチローを超えた日。
2006(平成18)年7月28日朝日新聞に「Ichiro1279安打イチロー超えた」の記事があった。
新聞ってのは上手いタイトルをつけるね~。私のような面白なんでも好き人間にとっては、こんなタイトルを見ると読まずにはおれない。
内容は、”同年7月26日マリナーズのイチローは、3打数2安打で、大リーグ通産安打を1279に伸ばしオリックス時代の9年間で放った1278本を上回った。”・・・というもの。
現地26日(日本時間27日)ブルージェイズ戦で、初回に遊撃内野安打、まずはオリックス時代の自分に並んだ。剛腕バーネットの154キロの速球を打ち返しての遊撃内野安打。すかさず二盗し、1シーズンのマリナーズの球団記録、28回連続盗塁成功にも並んだ。「日本でのイチローを」超える打球は2回2死の第2打席目。低めの変化球をとらえた打球は左翼後方へ。必死に打球を追う左翼手の差し出したグラブをはじいて転がり2塁打。この瞬間、大リーグ通産1279本目の安打が記録された。イチローが日本で残した数字を米国のIchiroが抜き去った。
これは、イチローにとってメジャーで「しっかりプレーが出来ている」という意味を持つ。前日は、6年間での積算安打が殿堂入りした屈指の好打者、ウェイド・ボックスレッドソックスなど)を上回って話題となったが”「昨日よりずっと気持ちいい。」と口調、表情とも穏やかだったという。日本では951試合で1278本。それを54試合も早くクリアーしたことが大きいのだという。「到達スピードが大事。こちらでは『どうせ日本の記録だろ』と軽い感じで受け取られたりすることがある。だから、『そうじゃないよ』と示すためにいいこと」”なのだという。日本で培った野球への姿勢に強い誇りを持つっている。プロ野球のタイトル経験者が日本での通産記録を大リーグで超える。こんな偉業を成し遂げる選手が今後現れるるのか。・・の質問に、イチローは、笑顔で「どうでしょうねえ。僕はもう自分のことで必死ですから」と応えたという。
イチローの昨2006(平成18)年までのタイトル・表彰・記録等は、は以下を参考にされると良い。
日本プロ野球(パシフィック・リーグ) → ここ。  [編集] メジャーリーグ(アメリカン・リーグ) → ここ 球団記録(シアトル・マリナーズ) → ここ
御覧のように、イチローが、オリックス・ブルーウェーブから、シアトル・マリナーズへ移籍して、2001(平成13)年~2006(平成18)年の連続6シーズンで、安打数は最多の1354本を放ち、デビュー以来6年連続200本安打を達成。首位打者2回(2001年、2004年)ほか数々の賞を獲得している。中でも、ミッドサマー・クラシック(Midsummer Classic =真夏の祭典)とも呼ばれるMLBオールスターには、新人から3年連続オールスター最多得票 で出場、そして、今年(2007年)には連続7回の出場を果たしているのは、立派としか言いようが無い。
日本プロ野球のオールスターゲームと違い、1年1都市のみでの開催、現在は1試合だけ開催されている。現在MLB所属チームが30チームもあるため単純計算でも30年に1度しか開催されないイベントであり、開催都市では地域を挙げての盛り上がりを見せる。今年7月10日は、 カリフォルニア州サンフランシスコにあるサンフランシスコ・ジャイアンツが本拠地球場AT&Tパークで開催された。
記念すべき第1回のオールスターゲームが開催されたのは、1933(昭和8)年7月6日の事であった。 イチローが今年(2007年)78回にも及ぶMLBオールスターゲーム史上初のランニングホームランを打った。この日のイチローは打順は1番。試合が開始されると、第1打席は右前へ、第2打席では左前に連続安打。5回の第3打席で右越えに逆転の2点本塁打を運び交替した。
なんと3打席連続ヒット。そのうち1本がランニングホームランである。実は、イチロー自身にとっても初のランニングホームランだとか・・・これはちょっと意外な感じだね~。
野球用語には、日本で作られた和製英語があり、よく知られているものに「ナイター」がある。夜間に行われる試合なので、英語では「Night Game」である。昼間の試合は日本でも米国同様「Day Game (デーゲーム)」と言われている。随分とはっきりとした名前の付け方だよね~。ちなみにランニングホームランは、英語だと『インサイドザパークホームラン(Inside-The-Park Home )』という。つまり、これも読んで字の如く「球場内本塁打」という意味だが、なにか味気ない名前だ。球場内の外野の芝を転々と球が転がっている間に、打者が1塁から2塁、3塁を駆け抜けてホームへ走りこむ。そんな、日本の和製英語の「ランニング・ホームラン」の方がイメージには合うし、外野からホームへ返球される前にひたむきに走っている姿を想像でき夢があるように思うのだが・・・。
メジャーリーグの華は、やはり、豪快なホームランなのだろう。MLBオールスターゲームの行われる前日には同じ球場で本塁打競争(「MLBホームランダービー」がある。オールスター出場選手の中からさらに選抜された選手により、本塁打の本数を争うトーナメント戦)だ。前に私のブログ6月19日「ベースボール記念日」でも書いたが、もともと、ベースボールを歴史的に見るとその始まりは、ピッチャーが打者の打ち安い球を投げて、それを打つことから始まった。だから、メジャーリーグベースボールでは、ファンもピッチャーが打者を押さえ込むことよりも、打者が豪快に打つことを喜ぶ。しかし、ただヒットを連打するだけでなく、走る、投げる打つの三拍子揃ったイチローがメジャーリーグで活躍し、野球の醍醐味がただ豪快に打つだけではないことを思い起こさせた。日本の野球では、松井松井といわれるが、松井ぐらいの打率・ホームラン数の打者はメジャーにはいくらでもいる。今年のオールスターゲームには、3人の日本人リーガーが出場した、イチローのほかは、ドジャース斉藤隆、レッドソックスの岡島秀樹である。岡島の下向投法(キャッチャーミットを見ない投法)は、ファンを驚かせているが、今期オールスターゲーム前の防御率は0、83と1点にも満たないすばらしい成績を収めている。ドジャース斎藤隆は大ブーイングを受けながらアメリカンリーグの強打者達を堂々3者凡退に討ち取った。残念ながら、レッドソックス岡島秀樹は登板機会が無かったが・・。
イチローにとってオールスターとは何か?前日そんな質問をぶつけられて、イチローは「オールスターですね。それが、答えです。その解釈はそれぞれのセンスです。アメリカのオールスターは、オールスターだと思っています。」と答えたという。ファン投票で選ばれ、大リーグで18人だけの先発に名を連ねる。それを当然のように感じさせてしまうところに天才打者の凄みがあり不幸かも知れない・・と新聞には書いていたが、先にも書いたように、イチローはメジャー至上主義ではなく、日本選手の相次ぐ渡米を歓迎しながらも「米国でちょと調子こいているヤツが日本で(野球を)やって欲しいね。そっちの方が興味ある」とトゲを含んだ言葉で誇りを覗かせているとも言う。彼は、日本で培った野球への姿勢に強い誇りを持つっており、「僕の基盤は日本にある」と前にも言っていた。球宴史上初のランニングホームランなどでMVPにもも輝き、受賞の記者会見では、忘れられない日になった。楽しいオールスターになった」と素直に喜びを語っていた。彼は、今まで、日本のオールスターも含めてオールスターでMVPはとった事がないという・・・これも意外な感じがしたが、これからの、オールスターに意欲を燃やしたようだ。記者から「3打数3安打が出ましたね」と聞かれたイチローは「いや、出たんではない。3安打したんです。」と答えていた。凄い答えである。これだけのことが言える選手はちょっといないであろう。そんな彼をちょっと生意気だと思っている人も多いかもしれない。私も多少そう思っている。しかし、イチローは王と並ぶ日本の誇る天才打者と言っても良い。今期も打撃は好調で今のところリーグの打率2位をキープしている。打率4割での夢の首位打者を狙って頑張って欲しいものだ。
(画像は、2007年MLBオールスターゲームで5回にランニング本塁打を放ったイチロー。2007年7月11日朝日新聞夕刊より)
参考:
イチロー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%AD%E3%83%BC
Enjoy!MLB CHASERS・MLB一般用語集
http://tohgest.cside.com/page006.html
6月19日「ベースボール記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/a696d7871ac44596b6d416b9a1af2eac
ICHIRO 51
http://www.bluewave.nu/ichiro51/

体外受精の日

2007-07-25 | 記念日
今日(7月月25日)は、「体外受精の日」
1978(昭和53)年、イギリス・マンチェスターの北東のオールダム総合病院で世界初の体外受精児(試験管ベビー)が誕生した。10月にもインドで試験管ベビーが誕生し、日本でも医の倫理をめぐり議論を呼んだ。
生殖医療における体外受精(In Vitro Fertilization, IVF[参考])とは不妊治療の一つで、通常は体内で行われる受精を体の外で行う方法。受精し、分裂した)を子宮内に移植することを含めて体外受精・胚移植(IVF-ET)という。費用は約30万以上と高額で、通常、卵管閉塞などの器質的原因や、タイミング法・人工授精をしたが、妊娠に至らなかった場合に用いられる。通常は精子を自然受精させるが、乏精子症など精子側の受精障害がある場合には顕微授精(多くの場合卵細胞質内精子注入法: ICSIを行う。以下参考の楠原レディースクリニックの不妊症の治療法 (8)顕微授精法(卵細胞質内精子注入法)ICSI参照)。自然での人間の周期あたり妊娠率は平均15%前後だが、IVF-ETの場合25%程となるそうだ。
世界で初めての体外受精児が、イギリスの病院で生まれたのは1978(昭和53)年の今日(7月25日)、2600グラムの女の子であった。母親(32才)は卵管異常のため正常な妊娠が出来ず、人工的に体外で受精する方法がとられた。当時は「test-tube baby(試験管ベビー)」と呼ばれ一躍流行語にもなったが、その言葉からマッドサイエンティストが、プラスチック容器の中で、人間を受精卵から培養・飼育しているかのような、SF的で、背徳的なイメージが、形づくられてしまった。 しかし、この言葉は実相を反映しておらず、差別的な響きをもつため、まもなく使われなくなった。
体外受精(IVF)治療によって世界初の体外授精児として生まれたルイーズ(Louise・Brown )がお母さんになったという記事を見た。以下参考に記載の「記事 : 世界初の「試験管ベビー」はお母さんになった」参照。
このことは、体外受精で生まれた子供が生殖能力の面でも通常と変わらない事が証明されていることになり、また、体外受精児が、自然妊娠によって子供に命を繋いでいるというのは、非常に感慨深いものである。
日本においても、1983(昭和58)年に東北大学の鈴木雅州らが体外受精に成功、第1子が誕生してからは、その数が増えつづけ1998(平成10)年には年間1万人を突破した。また、2005(平成17)年9月14日付け読売新聞に、精子と卵子を体外で受精させて子宮へ戻す「体外受精」によって国内で生まれた子供が、2003(平成15)年の1年間で過去最高の1万7400人に達したことが、日本産科婦人科学会(武谷雄二理事長)の調査で明らかになったと報告されている。調査したのは、同学会に体外受精の実施登録施設として届け出ている590施設。それによると、2003(平成15)年の体外受精による出生児数は1万7400人と、前年より2177人増加しており、全出生数(112万3610人)に占める割合は1,5%で、この年に生まれた65人の赤ちゃんのうち1人が体外受精児になる計算だという。同学会が体外受精による出生の調査を始めた1986年以来の累積出生数は計11万7589人となったそうだ。
調査を担当した久保春海・東邦大教授(産婦人科)は、「治療1回あたりの妊娠率はそれほど向上しておらず、不妊患者の数が増えた結果だろう。安全に妊娠・出産できる年齢限界は35歳以下ということを認識してほしい」と述べ、体外受精件数を引き上げている高齢出産の増加に警鐘を鳴らしている。以下参考に記載の「65 人に 1 人体外受精で誕生高齢出産増加も影響(たはら整形外科HP)」参照。
それにしても、今、日本で生まれる子供の65人のうち1人が体外受精児だというのには驚かされるが、このことは、今では、体外受精などの高度生殖医療技術が、不妊治療のための不可欠の手段としてすっかり定着をしているということだろう。しかし、以下のNIKKEI NET 「いきいき健康特集:進む少子化」の中にも見られるように、卵子を急速に凍結した上で、保存し、約1年後に解凍して体外受精し、出産していることも報告されており、卵子を保存する卵子バンクも民間医院が設置しているが、日本産科婦人科学会生殖・内分泌委員会は卵子凍結保存について「臨床応用は時期尚早」と答申しており(2003年)、日本には、生殖医療に関する法律はないらしいが、第三者への卵子提供については、厚生労働省審議会も同年にまとめた生殖医療に関する報告書で、営利目的の精子や卵子提供を禁止している。
しかし、卵子バンク事業を始めた「エクセレンス」は今でもドナーをホームページで募集している。以下参考に記載の医療・医学ニュース:不妊症に悩む夫婦へ卵子を販売する「卵子バンク」参照。
医学の進歩による生殖医療はどんどん拡大してゆき、日本のような深刻な少子化の進んでいる国などでは、単に医療の分野の面だけではなく、このような人工的な生殖が人口問題解決のための手段として、注目されたりもする。かつては想像の産物であったクローン遺伝子操作のような技術も現実のものとなっている一方、生命倫理の議論がそれに追いついているとは言い難い。そのため、「技術だけが進みすぎている」という漠然とした恐怖を背景に、生命を操るマッドサイエンティストの暴走が気になるところではある。非常に難しい問題である。人工受精の問題については問題点参照。
生殖医療を制限すべきかどうかなど政府でも検討しているようだが、以下のようなページについて、皆さんはどのように考えるかな???
特集 もっと生殖医療に光をあてよ:政府法案に物申す-野田聖子議員に聞く (Web  Iwakami)
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/sanf4.htm
(画像は、試験管ベビー。世界で初めての体外受精児が7月25日、イギリスの病院で生まれた。写真は生後1ヶ月目のあかちゃん。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
体外受精 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E5%A4%96%E5%8F%97%E7%B2%BE
日本産科婦人科学会 - Japan Society of Obstetrics and Gynecology -
http://www.jsog.or.jp/
楠原レディースクリニック
http://www.kusuhara.gr.jp/
知っておきたい体外受精・顕微授精の基礎知識
http://www.mayu-c.net/kenbijyusei/
体外受精の実際
http://www.koma-cli.jp/haka008.html
世界初の「試験管ベビー」はお母さんになった
http://www.mypress.jp/v2_writers/beep/story/?story_id=1555697
Web  Iwakami
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/index.htm
マッドサイエンティスト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88
65 人に 1 人体外受精で誕生高齢出産増加も影響(たはら整形外科HP)
http://www.tahara-seikei.com/6047.htm
記事 : 世界初の「試験管ベビー」はお母さんになった 
http://www.mypress.jp/v2_writers/beep/story/?story_id=1555697 
日本初の<精子バンク・卵子バンク> エクセレンス
http://www.threeweb.ad.jp/~excelle/
NIKKEI NET いきいき健康特集:進む少子化(9/23)卵子の急速凍結保存に成功、体外受精で男児出産
http://health.nikkei.co.jp/special/child.cfm?i=2003092303126p4
医療・医学ニュース:不妊症に悩む夫婦へ卵子を販売する「卵子バンク」
http://medical-today.seesaa.net/article/32011030.html

宇野宗祐首相が参院選惨敗と女性問題により退陣を表明した日

2007-07-24 | 歴史
1989(平成元)年の今日(7月24日)、 宇野宗祐首相が、参院選惨敗と女性問題により退陣を表明 。8月9日に退陣した。68日間の短命内閣であった。
1960(昭和35)年の第29回衆議院議員総選挙で初当選。
リクルート事件の関与と消費税導入により、支持率が急落した竹下登首相が1989年(平成元)4月25日に辞意を表明するも、軒並み同事件に関わっていた安倍晋太郎宮沢喜一渡辺美智雄らの自民党有力者は身動きが取れず、伊東正義元外相や坂田道太衆議院議長からも断られて後継選びは難航する。その結果、主要閣僚中でリクルートの関連性が薄かった宇野が急遽後継総裁に擁立される事になった。6月2日、自民党は両院議員総会で異例の「起立多数」で宇野外相が第13代自民党総裁に選出。初めて派閥領袖以外からの総裁選出となった。
同年6月3日宇野内閣発足。しかし就任3日後にサンデー毎日(毎日新聞)が、元愛人(神楽坂芸妓と言われる)の告発を掲載し、女性スキャンダルが表面化。始めは国内の他のマスコミは無視したが、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃(後段の※印参照」(ワシントンポスト紙)等と掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。また同年6月28日には宇野が進退について言及したとの憶測が飛びメディアに辞意表明と報道される。作家の大下英治によるとこの騒動の原因は、当時自民党国会対策副委員長を務めていた糸山英太郎が、記者懇談で愛嬌のつもりで言ったオフレコ発言が一人歩きした結果だという。また急造内閣だった為総理執行部の連携がうまくいかなかったことも原因として挙げられる。
同年7月23日の第15回参議院議員通常選挙は、いわゆる3セット(リクルート問題、消費税問題、農産物自由化問題)が争点となり、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席と惨敗した。参議院では結党以来初めての過半数割れとなる(これ以降2007年1月現在まで自民党は単独過半数を確保できていない)。その翌24日、敗北の責任をとり退陣を表明。当初は敗北は宇野一人の責任にできないと言う見方もあった(ここまで大敗した原因には、竹下政権から引き継がれたリクルート事件や消費税問題があったから)が、宇野の女性問題に対する対応の不十分さも票を失う原因になっていたため、結局は宇野が責任を取る以外無かったようだ宇野の総理在任期間は僅か69日、日本政治史上3番目の短命内閣に終わった。
宇野は近江の酒造家の長男であり、前任の竹下に似ている。
宇野の先祖に当る宇野醴泉という人物は、『大日本人名辞書』にも名前が載るほどの儒者として当時よく知られていた人物で、当時日本は朝鮮との友好を基として前後十二回にも及ぶ朝鮮通信使を迎えたが、その時、朝鮮通信使との文雅応酬を日本の漢学者たちが一生をほこりとしたと言うが、その中に見られる風雅人らしい。(以下参考の記載の「鮮通信使文芸資料(新出)をめぐって 」参照)近江国には朝鮮人街道(野洲市~彦根市)とも呼ばれている脇街道は、関ケ原合戦で勝利した後に徳川家康が通った道で大名行列の往来も許されなかった街道で通信使のみに通ることを許されたといわれる。
宇野宗祐もまた、なにをやらせてもほどほどにこなす起用人だったようだ。政策通で俳句を嗜み、俳号は犂子(れいし)。専門家からは、「素人としては超A級」といわれていたそうだ。小説や歴史書を書き、シベリア抑留の体験を綴った『ダモイ・トウキョウ』は映画化もされ、天保の農民一揆を題材とした「庄屋平兵衛獄門記」も著している。絵でも政経文化が画人展の常時出品者だったそうだ。ピアノやハーモニカもたしなむ才人としても知られ、外相の時は、ワシントンでの夕食会(1988年)で、自らハーモニカを吹いて、サービスをし、誇り高き外務官僚を辟易させたこともあったという。そのような、器用さが政治家としてもあった。
防衛庁長官科学技術庁長官行政管理庁長官通商産業大臣外務大臣などの大臣ポストをそれぞれ政策を勉強しながら無難にこなした。自民党の政策担当副幹事長としても、石油危機対策や減税問題などで知恵を出した。竹下政権が崩壊した後のリリーフとして首相に選ばれた1つにはその器用さが買われたようである。ただ、宰相というポストは器用さだけでは務まらない。自民党総裁に選ばれた直後「閣僚人事は自分1人で考え各派閥からの入閣名簿を頂戴することは止める」と公言したものの宇野の構想は竹下派にことごとく潰され、「雇われマダム」でしかないことがすぐさま露呈してしまった。そして、幹事長には竹下派の橋本龍太郎が選ばれていた。
総理就任時には堅物でない宇野の趣味の広さや遊びごころが好意的に報道されたが、結果的にはこの面で足をすくわれたことになる。
橋本は、「威張る。怒鳴る。すねる」が欠点とされたが、それは、もっぱら同性に対する場合であり、弟の高知県知事大二郎氏によれば、「女性には細やかな心遣いの出来る人」で、若い頃から兎に角女性にもてたという。宇野が女性問題もあって退陣後、後継首相選びには、自民党の若手から橋本擁立の声が上った。この時、自民党において権勢を誇り、『政界のドン』といわれていた金丸信は、小沢一郎(今は民主党代表)に命じて、橋本の女性関係を調べさせた。情報を集めた小沢は奥田敬和竹下派七奉行の一人)とともに、橋本を呼び出し、”取調べ”を行い、結局、女性問題でつまづく恐れのある橋本擁立は、見送ることで、竹下派幹部の意見は一致したという。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
そして、その後の自民党両院議員総会で海部俊樹が新総裁に選出された。
数日前のブログ「7月22日宮澤 喜一首相退陣を表明 」でも、採りあげたが、「美しい国づくり」を目指して組閣されたはずの安倍内閣ではあるが、組閣してからわずかの間に、閣僚や内閣総理大臣が指名した人物に関する醜聞、不祥事やトラブルが多発する異例の事態に発展してしている。(不祥事・スキャンダル一覧参照)自民党は、目の前の参議院戦を意識し、国民にとって最も重要な関心事である年金問題解決に関する審議等も野党と十分行わないまま自民党案を強行採決して参議院戦に望んでいる。国会の審議よりも、参議院戦対策の方が重要なのだろう。そんなときに、松岡利勝・前農林水産大臣(自殺)の後任として、安倍首相に選ばれた赤城徳彦は、赤城の政治団体「赤城徳彦後援会」が、事務所としての実態がまったくない赤城の父親の自宅(茨城県筑西市赤浜)を、事務所として届け出た上、2005(平成17)年までの10年間におよそ9045万円(75.4万/月)にのぼる経常経費を計上していたことが問題となっている。この不祥事問題についても、野党の追及に対して、安倍首相は問題がないとして、赤城をかばい、総てを明らかにしようとはしない。本来、自民党は、先にも書いたように、良いか悪いかは別にして、後任の首相や大臣を選任する際には、身持ち調べをきっちりとやっていたのだが、あれだけ色々閣僚に問題のある人が出ながら、疑惑をもたれる閣僚を選任したことについて、安倍首相の指名責任ありと言われても仕方がないことだろう。それとも、首相も同じころをしているから、人の疑惑を追及できないのですか?と言いたくなる。以下の報道記事など読んでみて、あなたはどう感じますか?参議院選挙では、このようなことにもきっちりと審判を下そうよね。どうしても、旅行等があり投票所に当日投票に行けない人は「期日前投票」をしておこうね。
赤城農相:事務所費問題 不透明な「四つの財布」(msn)
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/seitou/news/20070708k0000m010110000c.html
※※1 スキャンダルそのものの内容や、告発者の告発内容に対する検証がなされず、ただ批判だけが先行する状態であったが、女性票が離れるとして候補者から応援演説の要請がほとんどなかった。また当事者である宇野がこの問題についてノーコメントを通したことも、世論特に女性層の批判を強めた。
(画像は、7月1989 年7月23日に行われた参議院選挙で自民党が敗北。宇野宗佑総裁が責任をとって辞任したため、党両院議員総会は8月8日後継に海部俊樹新総裁を選出。挨拶をする海部俊樹新総裁と左から2人目宇野宗佑 前総裁。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
宇野宗佑 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%AE%97%E4%BD%91
國際日本文化研究センター
http://www.nichibun.ac.jp/
[DOC] 鮮通信使文芸資料(新出)をめぐって
http://www.bunka.or.kr/ronbun/no15/suga.doc
朝鮮通信使 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
政経文化画人展のご案内
http://www.geocities.jp/jhyoda/1seikeibu-j.html
7月22日宮澤 喜一首相退陣を表明
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20070722
松岡農林水産大臣、首つり自殺 - ウィキニュース
http://ja.wikinews.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E8%BE%B2%E6%9E%97%E6%B0%B4%E7%94%A3%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%80%81%E9%A6%96%E3%81%A4%E3%82%8A%E8%87%AA%E6%AE%BA
「美しい森林づくり」国民運動:水と緑の疑惑人 松岡農林水産大臣
http://blog.livedoor.jp/rokuten1/archives/50458321.html
赤城農相:事務所費問題 不透明な「四つの財布」
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/seitou/news/20070708k0000m010110000c.html

天麩羅の日

2007-07-23 | 記念日
今日(7月23日)は、「天麩羅の日」
元々大暑日(7月23日ごろ)が「天麩羅の日」となっていたものを、今は毎月23日が記念日となっている。
天麩羅(てんぷら)は、もともと、てんぷらまた天ぷらと読んでいたものにこの漢字を当てたものであり、天婦羅とも表記されるがこれは天麩羅からの変換のようである。
「天ぷら」とは、魚介類、野菜、山菜 等をネタとした食材に小麦粉と卵で作った衣をつけ、油で揚げた料理である。当初、海外から九州・沖縄方面に入ってきた油料理の総称であったとされるが、後には魚肉練り製品の一種「薩摩揚げ」等の、以前より日本にあった油料理も含めた名称となった。しかし時代が下り、江戸時代に入ると魚介類を原材料とした物のみを「天ぷら」と呼ぶ様になり、野菜、山菜等を揚げたものを精進揚げ(しょうじんあげ)として区別する様になったという。
天ぷらの語源については、諸説あるようだが、ポルトガル語で「調味料・料理」を意味する「テンペロ・Tempero」から来たと言う説、また、スペイン語・イタリア語で古い時代のローマカトリック教でクアトル・テンポラ、四季の「斎日」を意味する「テンポーラ・Tempora」から来たと言う説があり、天麩羅屋などは後者の説をとるところが多いようである。このクアトル・テンポラのとき、ポルトガルでは肉のかわりにワカサギのような魚をオリーブ油で揚げて食べる習慣があるらしいが、これが戦国時代16世紀頃に、キリシタン宣教師達によって伝来された。宣教師達は、水で溶いた小麦粉の衣で魚をまとい、熱い油で揚げて寺院(templo)で食べていたのだろう。当時は「南蛮焼き」と呼ばれていたと伝えられる。ただし、当初伝えられたレシピは、現代のフリッターの原型とも考えられている。フリッターはふんわりした衣であるのに対して、サクサクとした衣を作る技法に発展して行ったのが、日本料理としての「天ぷら」だと考えらるそうだ。(以下参考の「日本財団法人図書館/天からの贈り物-第94回-」参照)
この日本料理としての「天ぷら」に「天麩羅(てんぷら)」の命名者は江戸の戯作山東京伝だと言われている。以下参考の「日清製粉グループ:小麦粉を学ぶ:小麦粉博物誌」を見ると"京伝の弟京山の近所に上方から移ってきた利介という男がある日、京伝に、大阪ではつけ揚げというのがあるが、こちらにはごま揚げの売りはあっても魚の揚げものがない、夜店で売ろうと思うのだが「行灯(あんどん)に魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし。なにとか名をつけて玉はれ」と頼むのに、京伝ちょっと思案して「天麩羅」と書いて見せ、あんたは天竺(てんじく)浪人だ、それがふらりと江戸へ来たのだから、天ぷらだ。「是に麩羅といふ字を下したるは麩は小麦の粉にてつくる、羅はうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふ事なり」…『北越雪譜』は京山が亡兄・京伝の思い出として語ったと伝えているエピソードだそうだが、実はこの話を信用している専門家はいないという。南蛮料理として「てんぷらり」の名は、すでに1672(寛文12)年刊の『料理献立集』ほか江戸の前期から料理関係の書物に顔を出しているし、1748(寛延元)年に出された『歌仙の組系』にはちゃんと「てんぷらは何魚にても温飩(うどん)の粉まぶして油にて揚るなり」という記述もある。京伝が生まれる13年も前のことで、だから彼は「てんぷら」という言葉がすでにあったことは知っていたはず。それを「天麩羅」と書いて、しゃれてみせただけで、新しいネーミングだと大喜びしたのは何も知らない京山と利介だけだったのだろう。"・・という。
江戸時代には、すでに、このように天ぷらは屋台などで売られた庶民の手軽な食事だった。それが江戸前は炒り胡麻油で、京都などは綿実油(めんじつゆ、ワタの種子を圧搾して得た半乾性油)を使用し、料理店でだされるようになり、後には高級料理にもなった。
「天ぷら」(天麩羅)は、日本人にとって非常に馴染み深い料理であるが、今では、海外においても寿司、蕎麦と並び、代表的な日本料理とされている。代表的なタネとして海老、キス等をあげることが出来るが、特に種類は限定されず、サクっとした衣の食感と、季節折々のの食材を楽しむのが最大の醍醐味と言える。ただ、肉類をタネとする事は少なく、鳥天等は地方独自の郷土料理として扱われている。
徳川家康の死因は、鯛の天ぷらを食べ過ぎたのが死因だとの説がある。家康は健康には非常に気を使っていて75歳まで長生した。その食事は質素で、戦国武将として戦場にいた頃の食生活を崩さなかった。それに、もともと凝り性だった家康は食事のつりあい、消化のよさなどを考えて台所に献立を通達していたとさえ言われている。それが何故・・・?以下参考の「魚河岸発!しあわせてんぷらり」によると、 ”堺から駿府の家康のもとにやってきた堺の貿易商の茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)が、京のことなどいろいろと話すなかに、ちかごろ京都では珍しい料理が流行っていて、鯛を胡麻油で揚げて韮(かみら=ニラの古名)を摺りかけて食べるのだが、これが人気があるうえ、なかなかに美味だと話したという。普段ならそんなことに耳をかたむけない家康だが、「ワシも長年贅沢なんぞは一切してこなかった。そろそろ旨いものでも食いたいのお」という気になったのか、部下に命じて、大鯛、甘鯛を揚げさせて、腹一杯になるまでたいらげてしまった。普段から質素な食事ばかりしているし、何といっても高齢なのに、大量の揚物が胃に収まったものだから、身体の方でビックリしてまって、四時間後、突然苦しみだし、そのまま落命となった。”・・・とある。実際には、末期の食道癌だったと考えられているが、どちらにせよ、家康にとって、鯛の天ぷらは、生涯の中で最初で最後の贅沢ではあったのだろうか。鯛の天ぷらはあまり体にはよくない食品との説がある。ただし、この時代には衣を付けて揚げるタイプの天ぷらは一般的ではなかったため、家康が食べたのは、先にも書いたように、鯛を油で揚げてニラをかけたもので、薩摩揚げに近い物と考えられている。
外国人で、天ぷら好きの有名人と言えばあの“喜劇王”チャップリンだろう。
1932(昭和7)年5月14日に初来日。その道中で五・一五事件に遭遇し多大な衝撃を受けたが、歌舞伎座明治座で歌舞伎を鑑賞。帝国ホテルに宿泊し、箱根の富士屋ホテルにも逗留。また銀座の「花長」で海老の天ぷらを36匹も食べ、さらに「花長」で修行した調理師が乗船しているということで、帰国時の船を氷川丸に決めたのはこの最初の来日のこと。その後も繰り返し天ぷらを食べ続け、゛天ぷら男″のあだ名がついている。
大暑の頃に暑さにバテないために、てんぷらを食べて体力をつけようとこの日を「天麩羅の日」としていたというが、夏の食べ物で、「食い合わせが悪い」ものに「うなぎと梅干」、「スイカとてんぷら」など・・・と言うが、これらは、特に、医学的・栄養学的な根拠があるわけではないものの、「食い合わせが悪い」ものは、長い暮らしのなかから生まれた「暮らしの知恵」のひとつではある。水分が多いスイカは夏においしい食べものではあるが、胃酸を薄めてしまうため、大量に摂ると油分の多いてんぷらの消化が悪くなってしまう。 また、油っぽい天ぷらを食べた後は、冷たく冷やしたスイカはさっぱりとしていてつい食べ過ぎてしまうもの。その結果、胃腸の調子がくずれてしまいがち。やはり、 水分と油分の多い食べ物を一緒に摂ることは、胃腸の弱い人は避けた方が無難だね。 今日は、その点気をつけて、夜には、厚い部屋は冷房で温度の調整をして、ちょっとぬるめの燗をした大好きな日本酒で天麩羅を戴こうかな~。
(画像は天麩羅。Wikipediaより)
参考:
天ぷら - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%B7%E3%82%89
旬の食材事典 - キッコーマン ホームクッキング
http://www.kikkoman.co.jp/homecook/chie/season/01.html
日清製粉グループ:小麦粉を学ぶ:小麦粉博物誌
http://www.nisshin.com/study/history/flour/details/008.html
心のさかば: 天ぷらを食べてキリストを思う
http://sakaba.cocolog-nifty.com/cocoro/2007/06/post_0bd0.html
Heroの食べ物うんちく
http://www.ne.jp/asahi/hero/home/untiku/index.html
天ぷら - 知泉Wiki
http://www.tisen.jp/tisenwiki/?%C5%B7%A4%D7%A4%E9
日本財団法人図書館/天からの贈り物-第94回-
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00590/contents/00012.htm
魚河岸発!しあわせてんぷらり
http://www.tokyochuo.net/sightseeing/uogashi/2005/09/index.html
チャーリー・チャップリン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3
大暑 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9A%91
夏に気をつけたい食べ合わせ - [家事の知恵]All About
http://allabout.co.jp/family/housework/closeup/CU20040705A/





自民党分裂と総選挙敗北の責任をとり宮澤 喜一首相が退陣を表明 した日

2007-07-22 | 歴史
1993(平成 5)年の今日( 7月22日)、自民党分裂と総選挙敗北の責任をとり宮澤 喜一首相が退陣を表明 した。
「55年体制」下の自民党単独政権時代の最後の首相(第78代)で、保守護憲派として知られた宮澤 喜一氏の訃報が報じられたのは、今年・2007(平成19)年6月28日のことであった。宮沢氏は2003(平成15)年の衆院選の際、小泉首相(当時)の要請を受けて政界を引退。引退後も自民党の新憲法起草作業に関わり、戦後政治の証言者として憲法や外交問題などで発言を続けていた。昨年夏に足を骨折し、自宅で療養生活を送っていたが、老衰のため東京都内の自宅で死去。87歳だった。
宮澤 氏は、1942(昭和17)年1月、大蔵省に入省。1949(昭和24)年には池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わり随行。池田通産大臣のいわゆる「中小企業発言」を巡って1952(昭和27)年に不信任されるのに殉じるように、宮澤も大蔵省を退官。池田の強い勧めで翌1953(昭和28)年、参議院選挙に広島県選挙区から出馬し当選。参院議院運営委員長などを経て、1962(昭和37)年第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣、池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。1967(昭和42)年には衆議院議員となり、以後通産相、外相、総務会長などの要職を歴任していった。党内では池田派(宏池会)に所属し、早くから総裁候補と目されていた。ポスト田中で総裁に推す声が一部で上がった他、大平後継では本命との声もあったが同じ宏池会の鈴木善幸が総裁に就任。鈴木内閣では内閣官房長官を務め、次代の中曽根内閣期まで安倍晋太郎竹下登らとともに「ニュー・リーダー」の1人とされ、1987(昭和62)年秋には中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根の裁定により竹下が総裁に就任。宮澤は竹下内閣に副総理兼蔵相(大蔵大臣=現財務大臣)として入閣し、消費税導入に尽力するが、1988(昭和63)年、リクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。
1991(平成 3)年、海部首相の退陣にともなう自由民主党総裁選挙金丸信の推す渡辺美智雄、竹下の推す三塚博両氏を抑えて当選。72歳にして第78代内閣総理大臣に就任した。保守本流のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、竹下派の支配下にあった上、敵を無駄に作るその性格もあり思い通りの政権運営はままならなかった。在任中の施策としてはPKO協力法の成立(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣がある。しかし、その過程で派遣された文民警察官と、国連ボランティアが殺害されたことは、政権に大きな衝撃を与えた。(以下参考の日本人文民警察官死傷事件参照)またバブル景気崩壊後の金融不安を巡って、1992年8月の自民党の軽井沢セミナーで金融機関への公的援助を示唆したが、官庁や経済団体、そして金融機関自身の強い反対にあって実行に至らなかった。(以下参考の政策の先送りによる事態の悪化参照)
折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが断念(21世紀臨調-政治改革の軌跡-宮沢内閣から細川内閣までの軌跡参照)。
1993(平成 5)年6月野党から宮沢内閣不信任案が上程されるが、同じく、宮沢政権の政治改革への取り組みを不満とする自民党の小沢一郎(現・民主党代表)ら39名が賛成、16名が欠席したことにより不信任案は255対220で可決。宮沢内閣は衆議院を解散(嘘つき解散)した。6月21日には、武村正義田中秀征らが自民党を離党、新党さきがけを結成。 この事は羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。
7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進。宮沢内閣は総辞職をした。後任の自民党総裁に河野洋平が選出される。8月9日には、8党派連立の細川内閣が成立した。 この時、自民党は、1955(昭和30)年の党結成後初めて与党の座から降りる事となった(55年体制の崩壊)。
宮澤は自民党一党支配38年の最後の首相となった。宮沢の在任期間は1年9ヶ月だった。
しかし、1994(平成 6)年4月空前の高支持率を誇っていた細川内閣が首相自身の金銭疑惑で突然退陣した後、連立与党は新生党の羽田孜を首相とした。しかし、社会党が、同じ与党の新生党、公明党、日本新党、民主党などが統一会派「改革」をつくって社会党を「疎外」したことを理由に与党から離脱。羽田内閣は存在僅か65日で総辞職した。野党となった自民党は政権復帰の為に全く政策の異なる社会党を丸ごとかかえ、「キングメーカー」小沢一郎も仰天の村山内閣を誕生させた。自民党は、それまでまったく考え方の相反していた政敵との自社連立工作により政権に復帰したといえる。村山首相は、政権に就くと自衛隊合憲、日米安保条約堅持、日の丸、君が代容認などそれまでの社会党の中心的な主張であった方針を180度転換。再び世間を驚かした。その結果は次の総選挙で、国民から、確りと審判を下されている。その後も、自民党は、政権維持のため、主義主張は違うが与党につきたい政党と手を結び、今日まで来ている。
1993(平成 5)年5月、小沢一郎が著書『日本改造計画』を発表したことを契機に政治家本出版ブームが起こり、浜田幸一は同年7月の政界引退表明時、「暴露本の出版を準備している」と発言。同年12月に『日本をダメにした九人の政治家』を、続いて、橋本龍太郎『VISION OF JAPAN』(1993年12月)・武村正義『小さくともキラリと光る国・日本』(1994年1月)などが相次いで発刊された。政界再編の流れの中で国民の政治への関心が高まる中、いずれもベストセラーとなった。 なお、浜田の『日本をダメにした九人の政治家』の中には、宮沢や小沢の名前と同時に自分も含まれているのが面白い。
今、安倍内閣は「美しい国づくり」を目指して組閣されたが、組閣してからわずかの間に、閣僚や内閣総理大臣が指名した人物に関する醜聞、不祥事やトラブルが多発する異例の事態に発展してしている。自民党は、目の前の参議院戦を意識し、国民にとって最も重要な関心事である年金問題解決に関する審議等も野党と十分行わないまま自民党案を強行採決して参議院戦に望んでいる。今国民は、安倍内閣のやり方を良しとはしておらず、支持率も低下しているが、ある評論家は、まだ、支持率が高すぎる。本当はもっともっと下がっていていても良い。それが下がらないのは、自民党は厭だけれどもそれに変る野党(民主党など)に信頼性が今1つないからだろうといっている。確かに、その不安はある。しかし、大切なことは、それで、投票をしないとなると政党政治は成り立たない。今大事なのは、自民党は厭だけれども、野党は頼りないから今まで通りに自民党に政権を委ねるのか。民主党は自民党に比べて少し頼りなく感じるが、一度政権を自民党から民主党を中心とする野党に任せてみようと思うのか。国民の政治判断が問われている。前の55年体制が崩壊した際、野党が躍進し細川内閣を成立させたが、その後自滅的に崩壊してしまったが、今一度、野党に政権を委ね政治改革をやらせてみるか、それとも、政財官癒着の自民党にそのまま今迄通りやってもらうか・・・。今与党は衆議院で3分の2議席を有しており、今度の参議院選挙で野党が勝っても直ぐに政治が変るわけではないが、その後の政権を占う試金石にはなるだろう。どちらにしても、今回の選挙では、棄権をせず絶対に投票し、自分の意思を反映させよう。今回は、日本人の政治に対する意識・モラルそのものが問われている選挙とも言えるだろう。
(画像は、1991年11月、衆院本会議で首相に指名された宮沢喜一自民党総裁〔共同通信〕以下参考のgoo ニュースより)
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