今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

参考

2007-07-22 | 記念日
7月22日ブログ参考:
宮澤喜一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E5%96%9C%E4%B8%80
「それが、何か?」屈折のナルシスト・宮沢喜一宰相
http://ganjii.iza.ne.jp/blog/entry/210399
党首と総理選びの研究
http://www.valdes.titech.ac.jp/~tanaka/jugyo/gs97.html
宮沢喜一と河野洋平
http://www.valdes.titech.ac.jp/~tanaka/jugyo/b97kono.html
元首相・宮沢喜一氏が死去 87歳 - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/topstories/nation/20070628/b023da3cf54d9b9616497794334abf09.html?fr=RSS
日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【自衛隊について】
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01257/contents/511.htm
日本人文民警察官死傷事件
http://www.mekong.ne.jp/directory/society/takada.htm
政策の先送りによる事態の悪化
http://www.hi-ho.ne.jp/takayoshi/kyoko/heisei3.htm
21世紀臨調 -政治改革の軌跡-
http://www.secj.jp/s_library/seiji_chronology.htm
Yahoo!ニュース - 年金問題
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/annuity/


家族ふれあいの日(Part 2)

2007-07-21 | 記念日
今日(7月21)日(第3土曜日)は、「家族ふれあいの日」 (東京都)
心の東京革命推進協議会が2001(平成13)年に制定。2004(平成16)年度より、毎月第3土曜日に加えて、第3日曜日も「家族ふれあいの日」とし、「深めよう!親子の絆考えよう!家族の関係」をキャッチフレーズに、家族の結びつきが希薄になっている今日、家族のコミュニケーションを密にし、親子の絆を深めたり、改めて家族の関係について考え、まず家庭から心の東京革命を実践しようというのが趣旨である。
家族とは、居住を共にすることによってひとつのまとまりを形成した親族集団であり、そのつながりの内容からいえば、夫婦や親子、兄弟などとのつながりを原型とする情緒的包絡で結ばれた第一次的な福祉志向団体であるとされている。情緒的包絡という表現は、”emotional involvement”の訳だそうで、”involvement”は、「係わり、関与、男女関間の親密な関係」のことで、「産み、産まれる」係わりの中から生じた親と子という絆、そうしたものによって繋がっている、つまり、血縁関係を基礎とした小規模な小規模な共同体が家族であるとされている。英語では"family"と表記される。(以下参考に記載の◆家族の定義〔森岡清美の定義〕参照)
しかし、日本では今の時代この家族関係が危機に面しているように思われる。この日のことは、前にも書いた(ここ→1月21日は、「家族ふれあいの日」)が、今日は多少違った観点から書いてみよう。
今、内閣総理大臣安倍晋三は、憲法改正を最大の公約に掲げているが、この憲法は、 国家権力の構造や運営の基本にかかわる法であり、一見すると、人の誕生・結婚・死にかかわる問題についてはあまり関係のない法であるかのように思われるかもしれない。しかし、それらの問題は、人の生活のあり方の基本に関係するものであり、社会構造の基底を形成し、ひいては一国の権力構造や性格を規定する問題であるともいえる。
明治憲法は、神権的国体観念と立憲主義とを結びつけようとする複合的性格の強い憲法であったが、戦後、占領軍は、戦前の日本の軍国主義・全体主義の根源が明治憲法の中に見られる社会構造にあると捉え、マッカーサーの草庵において、その神権的国体観念に基づく天皇制を否定(1条)する一方、「日本国の封建制度」の廃止と個人の尊厳をうたい(12条)、さらに、家族生活における個人の尊厳・両性の本質的平等の確立を求めた(23条)。
「封建制度の廃止」と言う言葉は消えているが、新しく出来た日本国憲法13条は、この草庵12条に、24条は、この草庵23条に対応するものである。つまり、日本国憲法は、神権的国体観念を支えた「家」の制度を解体して、個人の自由と平等に基礎をおく個人主義的・自由主義的な家族関係の確立を目指したのである。新憲法は、このような定めに応えるべく、民法とくに親族相続編は全面的に改められた。新しい親族相続法は、「家」を廃止し、「戸主及び家族」の規定を削除し、「妻の無能力」に関する規定を削除し、また、夫婦平等(夫婦財産制や離婚原因等)および父母平等(婚姻同意権や共同親権等)を基本原理となし、さらに、家督相続を廃止して諸子均分(しょしきんぶん)の原則を採用し、配偶者相続権を認めるなど、従来の親族相続法とは根本的に異なるものとなっている。ここにおいて自由・平等な人格たる一男一女とからなる夫婦が、その間に生まれる未成熟な子を含んで形成する家族(核家族)を基本とする社会構造が法制上我が国においてはじめて確立された。実際、その後において、核家族化が進んだことは周知のとおりである。このような核家族化は、アメリカでの家族生活の有り方を何とはなしにモデルとして来たようなところがあるようだが、そのアメリカでは、「性の革命」等を通じて家族のあり方も大きく変貌し、離婚の増大、離婚に伴う子供の精神生活への影響の問題、幼児虐待の問題等々が指摘されはじめている。つまり、自己主張、自己実現(以下参考の自己実現理論 参照)が社会や共同体のためにもなるという楽観主義に対する懐疑が今、芽生えてきているともいわれている。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
長崎県の小さな島から北海道の開拓村まで旅をする一家の姿をドキュメンタリー風に撮った山田洋次監督の映画「家族」がある。丁度映画が公開された1970(昭和45)年の、日本万国博覧会開催中の大阪、公害に悩む東京など旅の風景には当時の社会状況が浮かび上がる。キネマ旬報ベストテン一位に輝くなど山田洋次の代表作の一つである。
「バンパク」は、「人類の進歩と調和」をテーマとし、日本を含む77カ国と四つの国際機関が参加した。東京オリンピック(1964年)以来の国家的イベントであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用され、高度経済成長を成し遂げアメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義をもつイベントとなった。そして、この時代、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電製品は三種の神器と呼ばれ、急速に家庭に普及していった。これら家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女性の社会進出を少しずつ促すことにもなった。「家制度」の崩壊した後に、「核家族化」が進み、高度経済成長とともに転勤族の単身赴任、更に、女性の社会進出によって、家庭における一家での団欒の機会が失われていった。
アメリカでの家族生活の有り方をモデルに正当(しょうとう)にも「家」の制度を排除して、個人主義的・自由主義的方向を目指した我が国の家族関係は、これからもどうなって行くのだろうか?
イタリアのルキノ・ヴコンティ監督の映画に『家族の肖像』というのがある。家族を持たないバート・ランカスター演じる老教授が『家族の肖像』と呼ばれる18世紀の英国の画家たちが描いた家族の団欒図のコレクションに囲まれてローマの中心地の豪邸に孤独な生活を送っている。彼自身がイタリア・ミラノの名門ヴィスコンティ家出身の伯爵でもあり、老教授はルキノ・ヴィスコンティ自身の投影なのかもしれない。そこに突然押しかけてきた妙な一群。母娘とその情夫たちである。彼らは教授の屋敷の2階に住み着き、教授の平穏な生活はかき乱されてしまう。だが、母親の情夫コンラッドとの美術談義だけは、教授に不思議な安息を与えていた。そんなある日、コンラッドが過激派に襲われて負傷してしまう。やがて、その傷がきっかけとなり、コンラッドは彼らの前から姿を消すことになるが……。ヴィスコンティが、現代における家族の存在理由と定義を問い直す作品である。
いくらお金があっても幸せな家庭を持つのは難しいものだ。逆に、貧乏な中多くの子供を生みけんか腰で子供を育てている家庭の子供たちや親が不幸だと思っているわけでもない。
それでは、理想の「家族」とは一体どのような家族なんだろう?。また、その家族を構成する、良い親とはどういった親なのだろう?「父性とは・・・?」「母性とは・・・?」そして、家族の中でどのような子が良い子なんだろう?・・・・このようなことについて、書こうと思ったが、これらについて、非常に、考えさせられるページが有った。私が、ごちゃごちゃ書くよりも、私は「いい母親」だろうか?悩んでいるお母さん、また、父親の権威がなくなってしまったとしょんぼりしているお父さん、自分達なりのいい家庭を築くために一度読んでみて、夫婦で話し合われてみるのと良いのではないだろうか。是非一読をお勧めします。
(講演)“理想”の家族という幻想
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/father/parent.html
(画像はDVD「家族の肖像」 デジタル・リマスター 無修正完全版
参考:
心の東京革命推進協議会(青少年育成協会)
http://www.kokoro-tokyo.jp/
今日(1月21日)は、「家族ふれあいの日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/6634e4a94f307f5074591463908c0673
家族 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%97%8F
家族 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD19376/index.html
goo 映画「家族の肖像」(1974)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD11752/index.html
(講演)“理想”の家族という幻想
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/father/parent.html
◆家族の定義〔森岡清美の定義〕
http://www.geocities.jp/kguik/public_html/kazokunokinou.html
安倍晋三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89#.E6.86.B2.E6.B3.95
第154回国会 参議院憲法調査会 第2号
http://www.sangiin.go.jp/japanese/kenpou/keika_g/154_02g.htm
自己実現理論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96
ルキノ・ヴィスコンティ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3
[PDF] 第13回 相続制度概説
http://www.matsuoka.law.kyoto-u.ac.jp/Lecture2000/FamilyLaw/13Succession.PDF


大國魂神社「李子祭(すももまつり)」の日

2007-07-20 | 行事
今日(7月20日)は、大國魂神社「李子祭(すももまつり)」の日
毎年、東京都・府中市にある大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)で「すもも祭」という行事が行われている。
同神社HPによると”毎年7月20日の『すもも祭』の起源は、源頼義義家父子が奥州安倍氏平定(前9年の役)途中大國魂神社に戦勝祈願をし、戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こった。その祭神饌の一つとして李子(スモモ)を供え、境内にすもも市がたつようになったのが、この祭りの名前の由来だそうだ。
当日神社では五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「からす団扇」「からす扇子」を頒布しており、この扇を以て扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれ、これを受ける人達で境内は終日賑わい、参道には李子を売る店をはじめ多数の露天商が軒を連ねる。”・・・とある。
当日撒下した粟飯(あわめし)・李子を受けて食すると、その年は病気災難にかからないと云われている。終戦前後頃までは、扇や団扇の外にこれを受ける人が多かったが、今日では撒下した粟飯と李子を受ける人が僅かになり、扇と団扇と桃とを受ける人が年々増えているという。
「スモモもも桃のうち」という言葉が有るが、桃とは異なる品種である。スモモ(酢桃、李)は、中国を原産とするバラ科サクラ属の落葉小高木である。スモモの果実はモモのそれに比べ酸味が強いためこの名がある。漢字では「李」また「李子」とも書かれる。すももは古来から悪鬼を祓う果実といい、この頃がすももの収穫期。また、田植え後のこの時期は害虫が発生しやすく、すももの呪力を結びつけ、参詣の人出をあてこんだ近隣の農家が収穫したすももを売ったのが始まりという。
「桃」と言うと我々現代人は、やわらかくて甘い桃色の果実を思い浮かべるが、現代の桃は高度に品種改良された高級果実である。しかし桃は本来もっと小さく固く、そしてすっぱい果実であった。このすっぱい果実、それは桃だけではなく梅やスモモなどすべて、バラ科の酸果樹は、古代の人々にとってとても神聖な働きを持った樹木として捉えられていたようだ。それは、このバラ科の酸果樹の実が、女性の妊娠中毒に効くからだという。結婚し子供を多く生むことが最高の幸せであった古代においては、妊娠を阻むものはよくないものであり、妊娠を助けるものは良いものだと考えられるのは当然であった。桃・スモモ・木瓜(ぼけ。バラ科の落葉低)・そして梅は、その実の持つ聖なる働きによって、呪物として人々の特別な思いを吸収していった。更に、桃には、もう一つの呪術性があったという。それは、果実ではなく樹木そのものの持つ辟邪(へきじゃ )作用であり、「辟邪」つまり、邪悪なものを祓い寄せ付けない魔力である。これは中国に限らず日本でも古くから体験によって認識されていたようだ。我が国の昔語りの中にも、桃の呪力に関する記載がある。
古事記』の開頭、天地開闢の神話にのなかにイザナミ(伊弉冉尊)・イザナギ(伊弉諸尊)のニ柱の神が登場する。多くの神々を生んだあと最後に火の神(カグツチ)を生んだイザナミは、ホト(陰部)を焼かれて死んでしまい黄泉の国に行く。恋しい女が忘れられないイザナギは、イザナミを追いかけて黄泉の国まで行くが、そこで、恋していた女の腐乱した蛆のたかった姿に恐れをなして逃げ出す。。それを見た女はこの侮辱を許しがたく黄泉の軍隊と共に男を追いかける。今にも追いつかれそうになったイザナギが黄泉比良坂(よもつひらさか)と言うところで、そこに生えていた桃のみを三つ手折って黄泉の軍隊に投げつけたところ、軍隊はことごとく退散したと言う話がある。伊弉諸尊はその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたという。また、『桃太郎』は桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話であり、これも桃による辟邪(邪悪をさける)の公式を表したものなのだろう。また、3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事である。桃の果実はその形状と色彩が女性の臀部に類似してることから、性と豊饒のシンボルでもある。花あるいは果実の色である桃色(ピンク)も、性的な意味に用いられているる。(桃のエロスについては以下参考の 『詩経』の中のエロス ――桃の夭夭たる―― 牧角悦子 を参照されると良い)
大國魂神社の例祭としては、この「すもも祭り」とともに、毎年5月に行われる「くらやみ祭り」も有名である。武蔵府中は武蔵国の国府であり、例大祭である「くらやみ祭り」は、国土安穏と五穀豊饒を祈って武蔵国中の主な神社(六所)の祭祀が集まって行われた国府祭の流れを組んでいる格式の高い行事である。「くらやみ祭」は、かって、御輿の渡御も深夜の街の明かりをすべて消した真っ暗闇中で行われたので「くらやみ祭り」と俗称されたもにであり、この夜に限っては、若い男女の交遊が自由であったという。この4月30日~5月6日に行われていた「くらやみ祭り」は、 本来歌垣の性格を帯びていたが、明治時代になってその淫靡な風習は改められた。また、夜間に実施されていた祭礼の行事も昭和35年以降は不祥事があったとかで保安上の理由により夕刻からの開始されるようになったそうだ。
司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』の冒頭、この” 「くらやみ祭り」に日野の在からふらりとやって来た歳三は、事もあろうか神官の娘を夜這いして、京都まで追いかけられるとい話がある。古代、人々はは集団での「ドンチャン騒ぎ」が大好きであった。それは、当時より、人々はの生活は常に飢饉の危機に直面しており、そのような飢えと死の恐怖を知る人々にとっては、それだけに、食い物への欲求と生きることへの意思を強烈に表現するものであり、人々は食料の獲得を祈り、収穫への感謝を込めて祭りを行ったのである。特に、飢饉対策には灌漑用水や治水の整備、水田の造成といった共同体による組織的な協力作業が必要となり、こうした労働は、鉄製農工具を独占的に所有しえた首長によってのみ指導監督された。人々は、首長に収穫物の初穂を献上して奉仕することによって始めて飢饉を克服しうるのであり、初穂を食した首長は大地と自然の霊力や生産力(國魂=クニタマ)を体現した人格として神格化され、かくして首長=王は共同体を代表して自らの屋敷を拠点として祭りごとを執行したのである。こうした社会では、王を含めた全成員が共同体の習俗や呪術的儀礼に強く縛られており、その抑制されていた人々のエネルギーと食い物への欲求は祭りの宴会において爆発的に噴出したのである。
飢饉の克服のために自然の豊穣を願う社会では、人間の性的行為は自然の恵みをもたらすものと信じられていた。従って、収穫祭の宴においては、腹いっぱい飲み食いするとともに猥雑で滑稽な歌や所作が演じられていた。宴に酒は絶対に欠かせず、その大切な酒は元来女性が造り管理するものであり、酒宴での女性の役割は多大なものであった。かくして、宴では性的活力の旺盛な青年や女性、とりわけ成年式を済ませたばかりの若衆たちが中心になり、それらの男女による性の解放が野外の宴で歌舞を伴って行われるところに歌垣は発生した。そうして、こうした人々による性の解放を、共同体の代表者たる王が、豊穣を予祝するために大地の生産力の象徴たる女性とに性的儀礼として行うとき、聖婚が成立したのである。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
大國魂神社(おおくにたまのおおかみ)は、今から約1900年前の111年(景行天皇41年)5月5日の創立。ご祭神である大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)は、日本神話の中で、出雲神話に登場する神・大国主命(おおくにぬし)と同神とされている。天の象徴であるアマテラスに対し、大地を象徴する神格でもある。645(大化元)年、武蔵国国衙(こくが)の斎場となり、管内神社の祭典を毎月行う便宜上、武蔵の国中の著名な神社を1箇所に合祀したため「武蔵総社」となる。 武蔵国の総社として、六所を合祀して、「武蔵総社六所宮」と称されるようになった。
「すもも祭り」に頒布されている、「からす団扇」「からす扇子」の表面には羽を広げたカラス絵が描かれており、その裏面には鳥居に「六所宮」の文字があるのは、先にも述べた武蔵の国の六神社をここに集め合祀したためである。この烏扇のことは、今から約1200年前の『古語拾遺』の中に出ており概ね以下のように書かれている。
”神代の昔、大地主神(おおとこぬしのかみ)が、營田の日に牛の宍(肉)を「田人」に食べさせた。その饗宴を見た御歳神(みどしのかみ)の子がその田に来て饗宴に唾を吐き帰って父にその有様を告げた。 御歳神はその報告に怒り、その田に宇名後(蝗=いなご)を放ち苗の葉をたちまちに枯れ損わせてしまった。占いにより、大地主神は、このような災害が御歳神の祟りと知る。そこで、この祟りを鎮めるため、占いに従い、白猪・白馬・白鶏を御歳神に献上した。そこで、御歳神は怒りを鎮めた。そして、「麻柄でを以って挊(かせひ)を作り、その挊(かせ)ぎに糸を巻く。麻の葉で掃(はら)い、また天の押草(おしくさ)で押さえ、烏扇を以って之を扇ぐべし。」・・と蝗を追放する方法を教えた。それでも蝗が出て行かない場合、牛の宍を溝口に置き、男茎(男の性器)形のものを添える。また、薏子、蜀椒、吳桃葉、塩を畦に置くことを指示した。その教えのままに従えば、苗葉が又茂り、年穀(たなつも)豊かに実った。 これは今、神祇官が白猪・白馬・白鶏を以て御歳神を祭る事の起こりである。”・・と。 (※薏子、蜀椒、吳桃葉、は良くわからないがハトムギ、ハジカミ、クルミとしているものがある)
これは大地主神から大歳神に田植神事の主神が移行したことを暗示しているが、牛肉の供物は日常食べることはタブーでありながら、蝗を払う呪物でもある。麻幹((おがら)は忌部氏の管轄で、神事に普遍的なものであり(以下参考のDeep Roots 麻:安房参照)、男茎は豊饒、境界、避邪に関連するのだとう。(参考nに記載の「御霊神」の誕生〔2〕参照)
以下、いよいよ核心の「大國魂神社の烏団扇」と「くらやみ祭り」のことに触れて生きたいが、ブログの字数制限上、次のページに書いている。以下をクリックしてください。この下に新しいページが表示されます。
クリック→続・大國魂神社「李子祭(すももまつり)」の日

続・大國魂神社「李子祭(すももまつり)」の日

2007-07-20 | 記念日
大国魂神社の闇祭では、田植時に害虫を払う烏を描いた扇が祭りの気勢をあげる団扇になった。そこには烏に人間が抱いた普遍的なイメージが作用している。
さまざまな動物は中世の人々にとって人界の彼方から「境」を越えてやってくる友であり敵であった。食えるものはすべて空腹を満たしてくれる食料であり、太陽や月、潮や風、雨や雪そして花々がそうであるように1年の目盛り、”自然暦”であり、”生産暦”でもあった。また、彼等には、しばしば不可思議な霊性が感得されて、それに依頼する心やそれを忌避する念を人々にもたらし、吉凶・禍福の予兆とみなされた。カラスもまた、そのような霊鳥の一種とされてきた。漆黒の姿形、気味の悪い鳴声は不吉な予感を人々にもたらし、また、農作への害が厭われもしたのだが、神武天皇東征の際には、3本足のカラス「八咫烏〔やたがらす」が松明を掲げ導いたという神話がある。
カラスは熊野三山御使いでもある。熊野神社等から出す牛王宝印(ごおうほういん)は、本来は護符であり、近世には起請文を起こす用紙ともされたが、その紙面では、カラスの群れが奇妙な文字を形作っている。これを使った起請を破ると、熊野でカラスが3羽死に、その人には天罰が下るという。以来、烏は「御崎(みさき)」、即ち神の使者として畏怖・畏敬の対象ともなっている。
黒い鳥へのイメージには、日本以外の国でも悪いイメージばかりではなく、例えば、北欧神話では、主神であり、戦争と死を司る神、オーディン斥候として、2羽のワタリガラス「フギン(=思考)とムニン(=記憶)」が登場する。このワタリガラスは世界中を飛び回り、オーディンに様々な情報を伝えているとされる。
古語拾遺』とは何かというとこれは、平安時代の神道資料である。官人であった斎部広成が807(大同2)年に編纂したもので、全1巻からなる。 老翁広成には何としても言い残さなくては死ねぬと思い定めたことがあった。それは、元々、斎部氏(=忌部氏)は朝廷の祭祀を司る氏族だった。しかし、大化の改新以降、同様に祭祀を司っていた中臣氏が、中臣氏から藤原氏が出て権力を持つようになると、いつしか中臣氏が祭祀に関して力を持つようになり、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況への憤懣であった。幸い平城天皇の召問を機に、国史・氏族伝承に基づきそれを「古語の遺(も)りたるを拾ふ」と題して撰上した本書は、斎部氏の正統性を主張し、有利な立場に立つために著されたものであると考えられる。内容は、天地開闢から天平年間(729年~749年)までが記されている。古事記日本書紀などの史書には見られない斎部氏に伝わる伝承も取り入れられている。
斎部氏は天太玉命(アメノフトダマ)の子孫とされていることから、天太玉命ら斎部氏の祖神の活躍が記紀よりも多く記されている。例えば、岩戸隠れの場面においては、天太玉命が中心的役割を果たしている。(フトダマのこは記紀には書かれていないが、古語拾遺などではタカミムスビの子と記されている。)
『古事記」によると、弟スサノオの乱行にたまりかねた姉アマテラス大神が天岩戸にこもったところ世界全体が闇になった。そこで神々が集まり、協議し、忌部氏の祖布刀玉命(フトダマノミコト)や中臣氏の祖天児屋命(アメノコヤネ)、玉作氏の祖玉祖命(タマノオヤノミコト)らに祭りをさせ、勾玉八咫鏡などを下げた天の香山(あまのかぐやま)の五百箇真賢木(いおつまさかき以下参考の跡見群芳譜〔樹木譜 サカキ〕を参照。)を捧げ持ち、猿女氏の祖天宇受賣命(アメノウズメのミコト)が乳房もあらわに神がかりして踊り狂ったので、神々は大いに笑った。そこで、アマテラスが怪しんで中からのぞいたところをアメノコヤネとともにその前に鏡を差し出した。そして、天手力男神(アメノタヂカラオ)が引き出たので、世界は再び輝いたという。また、この後、平定された葦原中国に、アマテラスの孫、ニニギ命が高天原から降臨することになったが、その際、大伴氏の祖天忍日命(アメノオシヒノミコト)と久米氏の祖天津久米命(アマツクメノミコト) を先導として、布刀玉命も天児屋命、天宇受賣命、玉祖命らとともに従って日向の高千穂に天降ったという。(以下参考の週間古事記・邇邇芸命その3 天孫降臨参照)
日本書紀の一書では、フトダマノミコトは、アメノコヤネと共にアマテラスを祀る神殿(伊勢神宮)の守護神になるよう命じられたとも書かれている。
社伝によると第12代景行天皇41年5月5日に、大国魂大神の託宣を受け創立され、出雲国造の出雲臣を祖天穂日命(アメノホヒ)の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている。武蔵国造については、以下参考に記載の「武蔵国造の系譜」が良く調べているようだ。
大國魂神社の「李子祭(すももまつり)」のことを書いていると、自然と 「くらやみ祭り」にも触れざるをえなくなってしまったので、少々長くなってしまった。今、古事記に始まる国生みと当時の人々の生活などが私の頭の中を駆け巡っている。一地方のお祭りをちょっと、調べてみるだけで、本当にいろいろのことがわかってくる。歴史って本当に面白いよ。
(画像は、左絵は、大國魂神社の烏団扇 左:表 右:裏。真っ黒の団扇に白い絵の具を吹きかけて烏や「六所宮」の文字と鳥居がを浮かび上がらせている。裏扇子は白地に団扇と同じ模様が描かれているそうだ。また、右絵は、「烏」”福富草紙”から。憎い夫に災いあれかし・・・と呪詛する妻が御幣を立てて、飛び来た鳥に必死に祈っている。クリーブランド美術館蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
大國魂神社HP夏のお祭り・すもも祭り
http://www.ookunitamajinja.or.jp/
大國魂神社 (府中市) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9C%8B%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E5%B8%82)
武蔵国造の系譜
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/band/ban-102.htm
[ PDF] 『詩経』の中のエロス ――桃の夭夭たる―― 牧角悦子
http://www.shuyu.gr.jp/tokyo/nimoku/dai504/sikyou.pdf
坂東千年王国/烏伝説
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/karas.htm
大国魂神社くらやみ祭祭り好きの隠れ家
http://rokusya.hp.infoseek.co.jp/
[PDF] 「御霊神」の誕生(2)
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/25-2/itoh.pdf
燃えよ剣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%83%E3%81%88%E3%82%88%E5%89%A3
言葉の景色
http://www.isis.ne.jp/landscape/020216.html
熊野大社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%A4%A7%E7%A4%BE
古語拾遺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%AA%9E%E6%8B%BE%E9%81%BA
古語拾遺/斎部宿禰廣成撰
http://www.kamimoude.org/jshiryo/kogojyuui.html
週間古事記
http://www.linkclub.or.jp/~pip/ututu/kami/furukotobumi/
跡見群芳譜(樹木譜 サカキ)
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/ch2-trees/sakaki.htm
[歴史館]・日本古代史とアイヌ語・・
http://www.dai3gen.net/index_j.html#mokuji
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A41001728-00000&cc=09_01_01&keyword=&and_or=AND
Deep Roots 麻:安房
http://deeproots.hp.infoseek.co.jp/asa.htm
さぬきの桃太郎 (139)古語拾遺
http://tetsutanaka.blog58.fc2.com/blog-entry-141.html#pagetop
松岡正剛の千夜千冊『古語拾遺』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0571.html





北壁の日

2007-07-19 | 記念日
今日(7月19日)は、「北壁の日」
1967(昭和42)年の今日(7月19日)、東京女子医大山岳部の今井通子さんと若山美子さんの2人がマッターホルンの北壁からの登頂に成功した。女性だけのパーティーでの北壁登攀は世界初だった。
今井 通子さんは、1942(昭和17)年2月1日生まれ、東京都出身の医師・登山家。東京女子医科大学泌尿器科非常勤講師。日本泌尿器科学会指導医・専門医。現在も活躍中である。
マッターホルン(独: Matterhorn、伊: Cervino チェルヴィーノ、仏: Mont Cervin モン・セルヴァン)は、ヨーロッパアルプスの山で、標高は、4478m。スイスイタリアの国境に位置し、山のスイス側はツェルマット(Zermatto)の街があり、イタリア側にはブレイユ・チェルビニア(Breuil-Cervinia )の街がある。マッターホルンという名称は、ドイツ語で牧草地を表すmattと、山頂を表すhornに由来しているそうだ。「ホルン(Horn, horn)」と言えば金管楽器の一種で、「角笛」のこと。私などはスイスの山上でのあの長い長いホルンを連想するが、そういえば、あのホルンは山頂で吹くからいいんだよね~。ドイツ語では山頂を表す言葉だったんだ。山上のホルン以下参照。
風景写真【山上のホルン】~スイス・グリンデルワルト~
http://www.comfart.jp/site/swiss/swiss03.html
マッターホルンは東西南北それぞれを向いた4つの斜面をもっている。北斜面と南斜面は、頂上へ向かう短い東西の尾根を形成しており、これらの斜面は険しく切り立っており、氷雪はわずかに残るのみである。山の北東側にあるヘルンリ尾根が一般的な登山路だそうである。
マッターホルンが制覇されたのは、アルプスの他の山々と比べれば最近のことで、これは技術的な困難によるものではなく、この山が霊峰であるということを初期の登山家達が恐れたからであり、マッターホルン制覇の試みが始まったのは1857年ごろで、多くの登山家はイタリア側から挑戦した。1865(慶応元)年にイギリス人エドワード・ウィンパー等4人がガイドと共に、登頂に始めて成功。それが、意外にも他のルートより平易であったヘルンリ尾根を通る登山路であったそうだが、それでも、下山中にザイルが切断され、4人とも死亡したそうだ。その後、何組かが成功するが、女性初の登頂を成し遂げたのはイギリス人のルーシー・ウォーカーで1871年のことである。しかし、マッターホルンの北壁初登頂 は、1931(昭和 6)年8月1日、トニー・シュミット等によるものであった。(以下参考の世界の山岳参照)
今井は、女性として、はじめて、このマッターホルン(1967年7月19日)と、アイガー(1969年8月15日)、グランド・ジョラス(1971年7月17日)の三大北壁を制覇している。そして、1971年のグランドジョラス山頂で同じ東京都出身の登山家高橋和之と結婚したそうだ。彼女は、その後もチョモランマ(エベレスト)、キリマンジャロなど世界の高峰を制覇。(七大陸最高峰はここを参照)。近年は地球環境保護問題や自然と健康のかかわりなどについて各地で講演活動などを行っているそうだ。今も現役の彼女の経歴等は以下参考に記載の今井通子 講師紹介 講演依頼.com参照すればわかる。しかし、ネットで調べても、もう1人の若山美子さんのことがよく判らない。
ただ、新田次郎 の山岳小説の1つに、『銀嶺の人』がある。
新田は、中央気象台(現気象庁)に入庁した気象学のエキスパートであるが、気象職員として最も知られている仕事に、1963年~1965年、気象庁観測部補佐官・高層気象観測課長・測器課長として 富士山気象レーダー建設責任者となり建設を成功させている。 これは、1959(昭和34)年の伊勢湾台風による被害の甚大さから、広範囲の雨雲を察知できるレーダー施設の設置が要請され、無線ロボット雨量計で運輸大臣賞を受賞するなど気象測量機器の第一人者にして高山気象研究の専門として携わったそうだ。富士山気象レーダーは当時世界最高(高度)・世界最大であったため、同レーダーの完成後はそのノウハウを国際連合の気象学会で説明するなどの公務に明け暮れたそうで、このときの体験を基にして書いた作品が、小説「富士山頂」だそうである。1966(昭和41)年文筆一本に絞るため定年まで後6年残して退職した。
登山好きの皇太子徳仁親王が愛読する山岳小説作家として知られているが、本人は山岳小説と呼ばれることを大変嫌っていたそうだ。その小説(作品一覧参照)は大変に緻密で、小説構成表(年表のように縦軸と横軸を設定し人物の流れを時系列に当てはめたもの)を先に作成してから執筆に取り掛かったという。
私は、若い頃、多くの小説を読んだが、歴史者や社会派ものが多く、残念ながら、彼の山岳小説は余り読んでいない。ネットで、検索し、以下参考に記載の「山岳小説ベスト・テン」や、「銀嶺の人」「読書『銀嶺の人』(上)(下)」「美佐子のいわれ」などを見ると、この小説の中では、勝気な駒井淑子、寡黙な若林美佐子という性格の全く異なる2人の女性が出会い女性パーティ初のマッターホルン北壁へと向かう。その主人公のうち、駒井淑子は欧州三大北壁を初めて制覇し今も活躍中の今井道子さん、もう一人の主人公である若林美佐子が若山美子さんがモデルであるという。
この小説ではどちらかと言うと、活発で気丈な淑子よりも、寡黙で真摯、生業として選んだ鎌倉彫に打ち込み山で雲の形を見て新しい創作文様を極めようとする美佐子を主に描かれているようである。
この美佐子については、美佐子が新婚旅行をかねた山行きで遭難するが、作品では ドリューの岩峰で、原因は落雷となっているのが、実際にはマッターホルンのイタリア稜での墜落であったといった程度の違いだという。従って、そのモデルとなった若山さんの大きな登山歴も実質的には日本の登山史上に残るマッターホルン北壁登攀で終わっている。
作者である新田は、「孤高の人」「栄光の岩壁」「銀嶺の人」を作者自らが「人はなぜ山に登るか」を自他に問う3部作として位置づけているそうである。
人はなぜ、山に登るのか?!この素朴な疑問に対して、「そこに山があるから」・・・と答えた有名な言葉がある。
世界の山の中でチョモランマ(エベレスト)は最も高い海抜高度をもつ山と言われている。
1953(昭和28)年5月29日にイギリス登山隊のエドモンド・ヒラリーシェルパテンジン・ノルゲイが登頂に成功。現時点ではこれが歴史上初のエベレスト登頂成功とされている。しかし、エベレスト登頂史を見ると、エベレストへは、英国山岳会が1921(大正10)年に第一次遠征を派遣。これが、エベレスト登山史の幕開けである。この遠征でジョージ・マロリーらがノース・コル(6985m)に到達。1922(大正11)年のイギリス第二次遠征では、8225m地点まで到達。
1924(大正13)年6月8日、イギリス第三次遠征で、第二次アタック隊のジョージ・マロリーとアーヴィンがチベット側から頂上に向かった。途中第2ステップと呼ばれる切り立った岩壁の難所を登るところまでは目撃されていたが、その後行方不明となる。1999(平成11)年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が、標高8,160 m付近でジョージ・マロリーの遺体を発見する。登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品に無かった事から、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多いという。
そのジョージ・マロリーが、1923(大正12)年、ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで「なぜエベレストに登るのか」という質問に、"Because it is there."(そこにそれがあるから)と答えた。"it"(それ)とは「処女峰エベレスト」を指すものであるが、日本では藤木九三によって「そこに山があるから」と訳された。この言葉は、登山家の信念を表す名言として現在まで語り継がれている。登山とは、読んで字のごとく山に登ることであるが、その対象は、簡単に登れる近隣の丘陵からヒマラヤ山脈まで様々である。私も家の裏に小さな山があるから登ってはいるが・・・こんなことと比較すると本当の登山家に笑われるよね。でも、私には、手軽な、レクリエーションとしての登山がいいな~。(^0^)
参考:
(画像は、マッターホルン。Wikipediaより)
今井通子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E9%80%9A%E5%AD%90
ホルン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%B3
今井通子 講師紹介 講演依頼.com
http://www.kouenirai.com/profile/1871.htm
世界の山岳
http://www.eonet.ne.jp/~hiropjct/dead-end/tozan/alps.html
地球環境問題 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%92%B0%E5%A2%83%E5%95%8F%E9%A1%8C
新田次郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%AC%A1%E9%83%8E
山岳小説ベスト・テン
http://www.ne.jp/asahi/gamo/yama/books/top10/best10.htm
銀嶺の人
http://www1.ocn.ne.jp/~matsuo3/books/ginrei.htm
読書「銀嶺の人」(上)(下)
http://kyu-sho-hyo.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_6b5e.html
美佐子のいわれ
http://www21.ocn.ne.jp/~kojima/misashin/ginrei2.htm
「岩と雪 10号」(昭和42年11月)を読む
http://blogs.yahoo.co.jp/psybb566/47020233.html
風景写真【山上のホルン】~スイス・グリンデルワルト~
http://www.comfart.jp/site/swiss/swiss03.html