今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

二輪・自転車安全日

2007-07-18 | 記念日
今日(7月18日)は、「二輪・自転車安全日」
警視庁が1977(昭和52)年10月8日から「自転車安全日」として実施し、翌1978(昭和53)年11月から「二輪・自転車安全日」とした。現在は18日のみになっているようだ。
「8」を二輪車にみたててのもの。(毎月18日)
自転車とは、一般に、二つの車輪を前後に設置した乗り物で、乗り手自身の人力を主たる動力源として、ペダルなどによりこれを車輪に伝えて走行するものをいう。広義には二輪でないものをも指す。
この自転車の歴史を遡ると、"歩行や駆け足以上の速度を人力で出す"・・・。この発想を最初に残した人物は、あのイタリアのルネサンス期を代表する絵画、彫刻、建築、土木および種々の技術に通じ、万能の天才として知られているレオナルド・ダ・ヴィンチだと言われているそうで、彼の残したメモには自転車のデッサンが残っており、このデッサンは前後輪が同じサイズで、前輪をハンドルで操り、後輪をひも状のものでペダルとクランクを介して駆動させるという、現在の安全型自転車に通じる画期的なデザインであったそうだが、残念ながら、この発想力は実現するに至らず、実際に製作された自転車の始祖とされるものとしては、1817(文化14)年に、ドイツの発明家カール・フォン・ドライス男爵によって発明されたドライジーネ(Draisine)が知られており、前輪後輪が同径ながらもクランクやペダル、チェーンなどはついておらず、足で直接地面を蹴って走るもので、「ランニング・マシーン(走行機械)」と名付けられていたそうだ。
1860(安政6)年にはフランスでミショー型が発明された。これは現在の小児用の三輪車と同じようにペダルを前輪に直接取り付けたものであった。オリバー兄弟がピエール・ラルマンの発明に商機を感じ取り、パリで馬車や乳母車を製作していた鍛治屋・ピエール・ミショーと組んで製造販売を始めたもの。(ベロシペードも参照。)
現在の我々の常識からすれば、自転車といえば、「2輪車」が連想されるが、19世紀半ばの自転車発達期には、2輪の自転車よりも、むしろ3輪や4輪の自転車の開発のほうが盛んであったのだそうだ。考えてみれば、2つの車輪だけでバランスをとりながら走行する2輪自転車よりも、静止状態でも決して転倒しない3輪車や4輪社の車の方が、2輪車に乗り馴れない者には乗りやすいし、乗り物として考える場合、先に考えて当然だろうね~。以下のページでその辺の事情がよく判る。また、ミショー型の自転車などもイラスト入りでよく判るよ。
日本自動車百年史第4節 国産自転車の始まり(後編)
http://www.st.rim.or.jp/~iwat/zenshi-4/zenshi-4.html
英国のジェームズ・スターレーが1870年頃に、スピードを出すために前輪を巨大化させた、ペニー・ファージング型転車を発明。スピードが出、デザインも洗練され、スポーツ好きの紳士の間で好評を博した。この当時は自転車レースが盛んであり、スピードを追求するために、ペニー・ファージング型自転車の前輪はどんどん拡大し、大きなものでは直径が1.5mを越えるようになった。日本にも輸出され「だるま車」と呼ばれた。これはレース用には人気があったが通常用としては乗車が困難であり、安定性が悪く、気軽に乗れるようなものではなかったが、このタイプで長距離のクロスカントリーライドまでおこなわれたことから、スポーツ用としてはかなりの力を秘めていた仕様だったという。
1879(明治12)年、コベントリーという街のハリー・ローソンによる後輪チェーン駆動車の発明がなされ、1880(明治13)年にはそれを生産してビシクレットとの呼び名で販売したそうだ。ビシクレットはバイシクル(Bicycle)のことであり、これが、自転車の語源である。1880年代に入ってからは、フランスに代わって、イギリスが自転車の主要生産国になった。1884(明治17)年、トーマス・ハンバーなどがチェーンで後輪を駆動しより低く長い格好となった自転車の販売をはじめる。そして、ジェームズ・スターレーの甥ジョン・ケンプ・スターレーが、1885(明治18)年に「ローバー安全型自転車(Rover Safety Bicycle)'」として販売を開始。これは車体の中心付近にペダルとクランクを設け、後車輪とチェーンで連結することで動力を伝える現在の形であり、それまでの前輪が大きく危険なペニー・ファージング型に対して「セーフティ型(安全型)」と名前をつけて販売された。従来のペニー・ファージング型は「セーフティ型」と比較され「オーディナリー型(普通型、従来型)」と呼ばれセーフティの先進性を引き立たせるような名称とされた。このローバー安全型自転車が現在の自転車の原型とされており、ジョン・ケンプ・スターレーは『現代自転車の発明者』とされている。
その後、セーフティ型にフリーホイール(一定の方向のみペダルの動きに合わせてハブ〔hub〕本体が動くハブのこと)やダンロップが発明した空気入りタイヤが装着され、現在の自転車がほぼ完成された。(自転車用タイヤ参照)
20世紀以降、変速ギア(詳しくは変速機を参照)やサスペンション機能も出来、中には、コンピュータが組み込まれているものがあり、また、足の弱い人でも楽に坂道を登ることの出来る電動アシスト自転車など、利用者の用途に応じて色々種類も多く開発され、便利で快適に乗ることが出来るようになった。
高度成長期には日本の自転車輸出量は世界一となり、世界中で日本製の自転車が乗られていたが、現在では円が強くなったことで自転車の輸出は激減し、中国製を主とした外国製自転車が日本の市場に多数出まわっている。2005年現在、自転車の輸出量は中国が世界一となっているそうである。日本での自転車の歴史はここ
自転車は、自動車などと比較して、移動距離あたりに必要とするエネルギーが少ない、排出ガスが発生しないなど、地球温暖化問題が叫ばれる現在、クリーンな移動手段として見直されている。
通勤・通学に利用されるシティサイクルや、俗にママチャリなどと呼ばれ日常の買い物などに利用される軽快車だけではなく、最近は、神戸の三宮やハーバーランドなど繁華街などでも若者がスポーツ用自転車や、小型の折り畳み自転車などに乗って走っている姿を多く見るようになった。それに、神戸は海と山に挟まれて坂道が多いこともあり、電動アシストつきの自転車利用も多い。私もこれを愛用している。
しかし、西欧などと比較して、日本は自転車道が整備されていない。そのため、自転車に乗る人が車道ではなく歩道を走ったりもするが、そのようなところをスピードを出して走り、歩行者に迷惑をかけたり、2人の乗りをする人など交通ルールを守らない人、駐車違反をする人などが多く、中には、自転車に乗りながら携帯電話をしている阿呆もおり、白い目で観られたりしている。もう少し、行政側も安心して自転車に乗れるよう自転車道や駐輪場の整備などをすべきだが、乗車する者も交通ルールは確りと守らなくてはならないだろう。
東京の荒川区では、全国初の自転車運転免許証制度がスタートしたという。この制度は、区を始め、区内の警察署、町会、PTA、青少年対策地区委員会等と協力して実施するもので、講義、筆記試験、実技講習を経て、自転車運転免許証を発行する制度だという。 以下参考。自転車免許
http://www.city.arakawa.tokyo.jp/a001/b004/d04400022.html
自転車に乗るのに大層な事とは思うが、自動車のように免許証がないと運転できないということではなく、あくまで、自転車のルール・マナーを向上させよう と言うものだが、ある程度の効果はあるだろうと思うが、さて、一体どの位の効果が期待できるだろう。大体、そのような講義を受けてちゃんとルールを守る人などは、そのような講義を受けなくても無茶な乗車はしない人たちだろうし、乗るための最低限の常識も持っている人たちだろう。今の世の中で色々問題を起こしたりしている人達は、戦後70年の間におかしな教育を受けて育ってきた、非常識人であり、ルールなどは知っていても無視する輩である。いろいろ規制をすることそれなりの意義はあるだろうが、私など、戦後間なしまでの、まだ道徳とか倫理だとかといったものが社会生活の重要な規範となっていた時代と異なり、自由勝手な利己主義・自己主義がはびこっている今の時代では、もう、厳しい罰則で臨むしか社会規範は保てなくなってしまっているのではないかとさえ感じている。今は余りにもルール破りをする人が多くなって、ルールに則って取り締まれなくなってしまっているのではないか。新しいルーばかり沢山作るよりも今のルールで厳しく取り締まることから始めるほうがよいのではないかと思うのだが・・。
(画像は、レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンを基に作った自転車。Wikipediaより)
警視庁
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/
自転車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A
自転車博物館
http://www.h4.dion.ne.jp/~bikemuse/index0.html
自転車の歴史(1)自転車の誕生(ドライジーネとベロシペード)
自転車の歴史(2)異常な普通自転車(オーディナリー)の時代
自転車の歴史(3)自動車の元祖、三輪自転車(トライシクル)
自転車の歴史(4)ワニと呼ばれた安全型自転車
自転車の歴史(5)デュラエースの誕生とその歩み
日本自動車百年史
http://www.st.rim.or.jp/~iwat/zenshi.html
自転車の歴史
http://www.d1.dion.ne.jp/~h_kazaki/bikehistory.htm
自転車広場ホームページ
http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/index.html
自転車免許
http://www.city.arakawa.tokyo.jp/a001/b004/d04400022.html
第1章 第5節日本自動車百年史 
http://www.st.rim.or.jp/~iwat/zenshi-5/zenshi-5.html

漫画の日

2007-07-17 | 記念日
今日(7月17日)は、「漫画の日」
イギリスの絵入り諷刺漫画週刊誌である『パンチ・ロンドン・シャリヴァリ』(Punch, or The London Charivari)、通称『パンチ』が、ヘンリー・メイヒュー及びマーク・レモン、そして木版画家エビネザー・ランデルズにより、1841年の今日(7月17日)創刊された。
『パンチ』の創刊者達はフランスの日刊風刺新聞『ル・シャリヴァリ』 (Le Charivari )を見て、イギリスにも同様の雑誌を作ろうと考えた。その風刺的かつユーモラスな意図を反映して、彼らはその雑誌に人形芝居のキャラクターである無政府主義者ミスター・パンチの名を冠して発行人に据え、またフランスの雑誌への言及として「ザ・ロンドン・シャリヴァリ」と副題を添えた。現代の出版業界における用語カートゥーンが漫画を意味する言葉となったのは、『パンチ』の功績であるといわれている。現代の出版業界におけるカートゥーンは、一般にユーモラスな傾向を備えたイラストレーションのことを指し、この用法は、1843(天保14)年に風刺漫画雑誌『パンチ』が誌上での風刺画、とりわけジョン・リーチ(ジョン・テニエル参照)によるスケッチに用いて以来、現在に到るまで用いられている。創刊号の表紙は挿絵画家のアーチボルド・ヘニングが担当した。創刊号はW・ブライアント出版社から発売され、雑誌サイズはA4判14ページ、値段は3ペンスで、第1刷5000部と増刷5000部の計10000部を売り上げた。
1849年1月のリチャード・ドイル(以下参考に妖精画家〔リチャード・ドイル〕参照)によるミスター・パンチと忠犬トビーを配した表紙は好評を博し、以後107年間にわたってこのデザインがパンチの表紙として定着した。ドイルは同誌の常連寄稿者であった。雑誌『パンチ』は創刊から150年後の1992(平成 4)年、発行部数の減少により廃刊を余儀なくされた。第一次世界大戦の期間を含む1923年以前の『パンチ』のバックナンバーは、プロジェクト・グーテンベルクで閲覧可能だそうである。
少し話がそれるかもしれないが、日本の近代ジャーナリズムを考える時、外国にはない日本の特徴として新聞小説に見られる挿絵の存在が大きい。江戸時代の庶民に歓迎された草双紙絵巻物木版摺りの読売(瓦版)などには、文章と共に挿絵が伴っていたが、むしろ絵が主で文章は従の様な存在であった。新聞小説だけではない、新聞に写真が常時掲載されだすのは、明治末期のことであるが、それまでは、画報、風俗画、漫画その他画家による挿絵類が紙上で重要な役割を果たしていた。明治初期の庶民向け「小新聞」は艶種(つやだね)。警察種、忠君種、孝行種などを満載したもので、別名「絵入り新聞」といわれ、挿絵を売り物にしていたのに対して、知識人向けの「大新聞」は言論活動中心の政党機関紙などであり漢文調に論説中心で、挿絵がない点に特色がっあった。しかし、「大新聞」は「小新聞」に部数で引き離されるようになり、なりふりかまわず挿絵を掲載するようになった。新聞、雑誌は、読者と同時に権力を意識しながら活動を続けてきた。権力は、常に自分に都合のよい活動をしてくれるジャーナリズムを期待しているが、読者のジャーナリズム観は権力のそれとは対極にあるといっていいだろう。読者は反権力のジャーナリズムを投書で応援した。権力は必要あれば法令・官憲武器に弾圧に臨む。特に明治期の政治権力はそうであった。この点、治外法権をの特権を、明治30年代初頭まで享受できた外人ジャーナリストは恵まれていた。彼等は、風刺画、風刺文で権力を刺戟し、また、読者を喜ばすことが出来た。1861(文久元)年、外人の手によって長崎の外国人居留地で最初の英字紙『ナガサキ・ショッピング・リスト・アンド・アバイダー』が、続いて横浜の居留地で英字新聞『ジャパン・ヘラルド』が創刊された。これが日本における最初の新聞である。母国で新聞・雑誌に慣れ親しんでいた居留地の外人が居留地でもジャーナリズムを求めることについて、そこが治外法権である以上、幕府も手をこまねくしかなかった。これに刺戟を受けて、幕府も翌・1862(文久2)年には最初の翻訳新聞『官板バタピヤ新聞』を創刊するなど、幕府自ら横浜に群小の英字新聞を次々と刊行することになった。その大部分の狙いは尊王攘夷派に国際情報を周知させ、開国の正当さをPRすることにあった。
その様な時期、1862(文久2)年に、チャールズ・ワーグマンが日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を、横浜居留地で創刊した。ここから、「ポンチ絵」という言葉が生まれた。これはイギリスの風刺漫画雑誌パンチを模したもので当時の日本のさまざまな様子・事件・風俗を描き残すとともに、高橋由一をはじめとする様々な日本人画家に洋画の技法を教え、日本の近代漫画成立に多大な影響を与えた。居留地の歴史を知る上での一級資料となっている。1863(文久2)年には、日本人女性の小沢カネと結婚。翌年には、長男の一郎が誕生。
ワーグマンは、1857(安政4)年に「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派記者兼挿絵画家として広東アロー戦争の取材のため来訪。1861(文久元)年には長崎を訪れ、その後イギリス公使オールコックの一行に伴って上京するが、8月10日にイギリス公使館となっていた東禅寺にて水戸藩浪士の襲撃を受ける。この時ワーグマンは、縁の下に避難しながら事件の一部始終を記録し、これを記事とスケッチにして横浜から発信している。この年薩英戦争が勃発、ワーグマンも取材のために写真家フェリーチェ・ベアトとイギリス艦隊に同行し記事などを書いている(彼とは後に「ベアト・アンド・ワーグマン商会」を設立している)。また同年から翌・1864(元治元)年にかけて、下関戦争についても記事や挿絵をロンドンに送っている。また、同年の「日本貿易新聞」には、この時のアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊の長州諸砲台砲撃事件を風刺した漫画が掲載される。これはポルトガル人ダ・ローザ首宰の「ジャパン・コンマーシャル・ニュース」(文久3年横浜創刊)紙の記事を転載したものだそうで、日本人の作ではない。日本の新聞に漫画が載るようになるのは1868(慶応4)年である。
ワーグマンは漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊したが、このように本業である『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の取材のために忙しく、直ぐに休刊してしまい、第2号を復刊するのは、1865(慶応元)年である。
日本の新聞に漫画が載るようになるのは、1868(慶応4)年である。1865(慶応元)年の『ジャパン・パンチ』の影響を受けて、佐幕色の 『中外新聞』、『江湖新聞』(1868年創刊)などに、風刺漫画が掲載される。『江湖新聞』には、「ポンチ」というワーグマンが『ジャパン・パンチ』の中で日本文字で使用した言葉が紹介されている。この「ポンチ」という言葉は、明治に入って、急速に普及しだす。最初は、西洋風の風刺の鋭い絵という意味が強かったようだ。それは、従来の『鳥羽絵」「大津絵」『狂画」「戯画」などといったものとは違った新しい感覚の戯画が登場したことを意味しているのだろう。
1874 (明治7)年、戯作者、新聞記者である 仮名垣魯文(本名:野崎文蔵)は、時局風刺をテーマーとして、絵師の河鍋暁斎と組んで『絵新聞日本地』という日本初の漫画雑誌を刊行した。また、1881 (明治14 )には小林清親が出した錦絵「清親ポンチ」シリーズも、新聞錦絵にスタイルを模し、その漫画版を目指したものであった。
以下で、小林清親『清親ポンチ絵画帖』が見れるよ。↓
国立国会図書館蔵〔清親ポンチ絵画帖〕
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=88090089&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0
1878 (明治11)年創刊の『月とスッポンチ』( 篠田仙果主宰)も流行語「ポンチ」を取り入れた誌名をつけ、時局風刺漫画を掲載した。
ワーグマンは、『ジャパン・パンチ』によって、「ぽんち」と言う言葉を日本にもたらしたが、漫画史的観点からすると、時局問題をテーマーにした漫画を発表する月間漫画雑誌を発行したことと、似顔絵を多用する新しい漫画形式を紹介した意味の方がより大きいといえる。日本人が、似顔絵を使用して、著名人を風刺するのは、きわめて新しいことである。江戸時代には、それは不可能で、せいぜい役者絵を描いたぐらいで、東洲斎写楽の役者絵のような風刺性をも感じさせるものは例外中の例外であった。
今日、新聞などで政治などを風刺した一筆漫画が掲載されているが、これらのはしりといえるだろう。(週刊朝日百科『日本の歴史」参照)
この日とは別に、手塚治虫の命日である2月9日も「漫画の日」になっている。漫画家・手塚治虫の命日にちなんで、漫画本専門古書店「まんだらけ」が制定。
11月3日も「漫画の日」。日本漫画家協会と出版社5社が2002(平成14)年8月に制定。「漫画を文化として認知してもらいたい」ということから、文化の日を記念日としたそうだ。
確かに、日本の漫画は、今や日本の文化として世界に認知され始めているようだね。
(画像は、左カラーのもの:1841年創刊『パンチ』パリの『シャリバリ』誌を、まねて創刊された。右:『ジャパン・パンチ』文久2年イギリス人C・ワーグマンが横浜居留地で創刊。画像は週間朝日百科『日本の歴史』より)
参考:
パンチ (雑誌) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%81_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
チャールズ・ワーグマン- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3
瓦版 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A6%E7%89%88
ロンドン路地裏の生活誌(上/下) ヘンリー・メイヒュー
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=30594
洋ナシ, 王ルイ・フィリップ(1773-1850)の風刺漫画 - 'ル・シャリヴァリ(Le Charivari)'より
http://www.allposters.co.jp/-sp/-Posters_i1343262_.htm
妖精画家(リチャード・ドイル)
http://island.site.ne.jp/fairy/pictures/doyle.html#top
近代新聞検索・新聞の歴史
http://www.npoabc.jp/03aboutkindai/
外国人居留地 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B1%85%E7%95%99%E5%9C%B0
仮名垣魯文 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D%E5%9E%A3%E9%AD%AF%E6%96%87
国立国会図書館・過去の常設展示/第140回 明治の息吹 -漫画・諷刺画から-
http://www.ndl.go.jp/jp/gallery/permanent/jousetsu140.html
静岡県立美術館【主な収蔵品の作家名:小林 清親】
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/collection/item/P_76_721_J.html
国立国会図書館・デジタルアーカイブ
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/
日本漫画家協会
http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/
有鄰 「チャールズ・ワーグマンが語る 横浜外国人居留地の生活」ジョゼフ・ロガラ(山下仁美訳)
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_440/yurin4.html

海の日(Marine Day)

2007-07-16 | 記念日
2007(昭和19)年の今日(7月16日)第3月曜日は、「海の日(Marine Day)である。
「海の日」は、日本の国民の祝日の一つ。 国民の祝日に関する法律(祝日法)では「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。
以下参考の(財)海事広報協会では、「海の日」制定の由来を詳しく書いてあるが、要約すると以下のようである。
”1876年(明治9年)7月20日、明治天皇東北巡幸の帰途、灯台視察船・明治丸で函館を経て横浜に帰着されたことにちなんで、1941(昭和16)年に当時の逓信大臣・村田省蔵の提唱により次官会議においてこの日を「海の記念日」と定めたもの。1996年(平成8年)から「国民の祝日に関する法律」により、”海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う日”として7月20日が国民の祝日「海の日」となった。その後の祝日法の改正(ハッピーマンデー制度)により2003(平成15)年から当初7月20日であったものが7月第3月曜日となった。” ・・・と。
この時に明治天皇が御乗船された御召艦は、1873(明治6)年に英国グラスゴーのネピア造船所に発注して造られたもので、当時の工部卿伊藤博文が「明治丸」と名付けた。1875(明治8)年2月横浜に回航され、その後灯台巡視船として活躍し、明治天皇の巡幸に際しては東北・北海道御巡幸を初めとして数次にわたって御召艦としてつかわれている。この他小笠原諸島や硫黄島の領有権調査にも活躍し、1896(明治29)年に現役を退き、商船学校(東京商船大学の前身。現在は東京海洋大学海洋工学部)に譲り渡された後は、係留練習船として、以来50余年にわたり5000人以上に及ぶ海の児を育てた。終戦後1951(昭和26)年まで米国軍に校舎と共に接収され一時荒廃していたが、1978(昭和53)年5月、我国に現存する唯一の鉄船(現在の船は鋼船)であり、造船技術史上貴重な船として国の重要文化財に指定されている。その後文化庁及び東京商船大学の手により修復が行われ1988(昭和63)年1月に完了し、現在同大学に保存されている。(現在展示の写真はここ
しかし、「海の記念日」が設定された1941(昭和16)年に、どうして、明治天皇が東北巡幸を終えて帰ってきた1876年(明治9年)7月20日をわざわざ記念日に制定したのだろうか?
それがどうした・・・祝日が1日でも多ければ、どうでもいいじゃ~ないか!どうせ、夏休み期間中だから祝日なんて関係ないよと言う人も多いだろうが、何でも、記念日を設定するのに、理由がないものはないし、ましてや、政府が制定する場合は、その奥に深い理由があるものだ。後は、推測しか出来ないが、先ず、1941(昭和16)年ってどんな年だったのだろうか?、その年の出来事を見てみよう。以下は1941年- Wikipediaより抜粋。
5月27日 - 第二次世界大戦: ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが沈没。
5月27日 - フランクリン・ルーズベルト米大統領が国家非常事態宣言。
6月22日 - ナチス・ドイツ、ソ連に対し宣戦布告バルバロッサ作戦始まる。
7月 - チトーがパルチザンを組織し、ドイツ軍に対するゲリラ戦を開始。
7月18日 - 第3次近衛内閣成立。
10月18日 - 東條内閣成立。
12月8日 - 日本軍の真珠湾攻撃大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦する。
12月21日 - 大日本帝国とタイ王国の間に日泰同盟が締結される。
1941(昭和16)年7月20日というと、第3次近衛内閣が成立した2日後で、この内閣は、たったの3ヶ月で解散し、次には東條内閣が成立。12月8日 には、真珠湾を攻撃し、同月21日には大東亜戦争に突入している。(真珠湾攻撃#宣戦布告遅延問題参照)
第3次近衛内閣での逓信大臣 村田省蔵は、1900(明治33)年大阪商船(現商船三井)入社。同副社長等を経て、1934(昭和9)年同社長就任。1939(昭和14)年貴族院議員、1940(昭和15)年逓信大臣兼鉄道大臣、1942(昭和17)年、第2次近衞内閣から留任し、大日本帝国陸軍第十四軍最高顧問にもなっている。議員になる前は海運業の社長だった人物である。日中戦争4年目の1940(昭和15)年のこの年、中国を支援するアメリカと日本の関係は険悪の一途をたどっていた。知米派の野村吉三郎が大使に任命され、日米交渉が始まっていたが、交渉は難航。独ソ開戦に乗じて陸軍が南部仏印進駐を強行すると、アメリカは石油の前面禁輸で応じた。四面楚歌の中で対米強硬論が急激に高まり、ついに開戦が決定される。英米と戦うためには、しっかりと重要資材(戦時物資)を確保しておかねばならない時期であった。そして、時の新聞記事を見ても物資を確保するための陸・海・空を総合する一元的運輸政策の確立が提案されている。このような時期に、単に、”海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う日”として、国民の祝日を制定するだろうか?。
1937(昭和12)年5月に成立した第1次近衛内閣は、生産力拡充、国際収支改善、物資の需給調整という経済三原則を発表した。同年7月に支那事変が勃発すると、政府は9月にこの戦争に適用するために、経済を統制する「臨時資金調整法」、物を統制する「輸出入品等臨時措置法」、及び軍需工場等を国家管理のもとに置く「軍需工場動員法」の統制三法を制定した。1937(昭和12)年10月には企画院が設置され、1938(昭和13)年から重要物資の供給と配分を決める物資動員計画が始まり、同年4月には「国家総動員法」が制定された。これは人的資源及び物的資源を全面的に戦争目的のために動員するものであった。それまで自主的統制を行ってきた海運界であったが、ここにいたって戦時経済の進展に応じて海運業の使命を果たすためには、政府の監督指導のもとに官民協力して統制を実施することが必要と認識された。官民による統制の要領等についての研究の結果、先ず民間団体の統制力を強化するための「海運組合法」が、1939(昭和14)年4月に公布された。これにより既存の民間団体を統合して「日本海運協会」を翌・1940(昭和15)年5月に設立した。そして、政府は、更に強力な海運の国家管理態勢を確立するために、「海運統制国策要綱」を同年9月1日に閣議決定した。
そして、戦時事変その他の場合において帝国の通商航海に脅威を受け又は受ける恐れあるとき、敵襲その他の軍事的危害に対し船舶を保護することを目的とする「船舶保護法」が1941(昭和16)年3月17日に制定公布された。又、内外情勢の一層の緊迫化に対応して、政府は同年8月19日の閣議において「戦時海運管理要綱」も決定した。
詳細については、こちらを見られると良い。 → 戦時の海運統制 
当然に海運業や庶民からの抵抗もあっただろうと推測できる。それらの不満を解消し、海洋国日本の繁栄のために理解して欲しいというのが本音ではなかったかと思うが、これは、私の邪推であろうか?毎年7月21日からと決まっていた夏休みもこの年から、8月1日からとなっている。せめて、子供たちに、7月20日の国民の祝日を1日プレゼントしてやっても良かっただろうね。しかし、折角の祝日だ、今日は、ちょっと、海のことや船舶のことなど勉強してみるのも良いね。
神戸地方、海の日の今日の天気は台風が過ぎ去った後で南の方は曇り空だが天気は悪くない。朝の気温は少しひんやりしているが時間と共に暑くなるのであろう。塩水に浸かるとあせもが出来ないなどともいうので、汗疹予防に海水にチャボっと浸かって来ますか?。ただ、まだ、台風の影響が残っている地域もあるようなので、地域によっては注意しないといけないよ。
さらにこの海の日誕生を記念して、1996年(平成8年)に競艇SGオーシャンカップ競走が新設されたが、何故、国民の祝日に、昔は賭博の1つだとみなされていたような競艇が、競艇のSG(エスジー)に選ばれたのだろうね~。こんな馬鹿なこと考えるのは私だけかな???
(画像は 「報知新聞・奥羽御巡幸圖會」。以下参考の 重要文化財 明治丸・国立大学法人 東京海洋大学 海洋工学部より)
参考:
海の日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%81%AE%E6%97%A5
1941年- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1941%E5%B9%B4
重要文化財 明治丸・ 国立大学法人 東京海洋大学 海洋工学部
http://www.e.kaiyodai.ac.jp/meiji/index.htm
東京商船大学
http://www.tosho-u.ac.jp/TUMM/Intro/Siseki/
(財)海事広報協会
http://www.kaijipr.or.jp/
戦時の海運統制
http://www.drc-jpn.org/AR-6J/ikawa-j02.htm
危機を孕める海運界 (上・中・下) / 村田,省蔵: 大阪商船専務 (大阪毎日新聞 1924.1.25-1924.1.29 (大正13))[海運 23-093]
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00146210&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00146210
新聞記事文庫 編年一覧(年代別の新聞記事スクラップ)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/ymlist/ymlist.html
山野ゆきよしメルマガ:2003年7月:海の日
http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/m/200307
Category:日本の海運業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B5%B7%E9%81%8B%E6%A5%AD
尖閣諸島領有権問題 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E9%A0%98%E6%9C%89%E6%A8%A9%E5%95%8F%E9%A1%8C
東海大学 海洋科学博物館・日本の大学で唯一の海洋学部をもつ東海大学の開設する「海」の科学館。小学生対象のサマースクールなどの行事。
http://www.umi.muse-tokai.jp/
東京大学 海洋研究所・海洋に関する基礎研究を行う全国共同利用の研究所。海洋関係の研究者を目指したい人は,一度はのぞいておくとよい。
「船の科学館」のホームページ.海と船のデイリーニュースなど、施設以外の情報も興味深い。
http://www.funenokagakukan.or.jp/

リメークされた『日本沈没』が東宝系で上映された

2007-07-15 | 歴史
2006(平成18)年の今日(7月15日)、33年ぶりにリメイクされた『日本沈没』が東宝系で上映された。
『日本沈没』は、1973(昭和48)年に刊行された小松左京による日本のSF小説で、第27回日本推理作家協会賞、第5回星雲賞日本長編部門も受賞している。物語は”地球物理学者である田所雄介博士は、地震の観測データから海底を走る奇妙な亀裂と乱泥流を発見し、一つの結論に達する。それは「日本列島は最悪の場合、2年以内に地殻変動で陸地のほとんどが海面下に沈降する」というものだった。そして、各地で相次ぐ巨大地震。ほとんど動きがなかった休火山までが活動を始める。ズタズタに引き裂かれる日本列島で、死に物狂いで押し進められるD計画(日本国民と資産を海外へ脱出させる)。果たして日本は沈没してしまうのか? 日本人の運命は日本とともに沈没してしまうのか?”・・といったものであるが、この小説『日本沈没』がベストセラーになった背景には、高度経済成長が一段落し、1973(昭和48)年の狂乱物価とも言われたインフレ石油ショックなどの社会不安があった。そうした風潮の中でノストラダムスブーム、終末ブーム、超能力ブームの一環として語られることも多い。同年東宝により映画化され、650万人を動員し、日本に一大センセーションを巻き起こし、パニック映画ブームの先駆けとなった。
今回2006(平成18)年にリメイクされた『日本沈没』は、TBSが製作費20億円を投じて製作された。2006年公開映画では国内興行順位第4位となる53億4000万円のヒットとなった。同年に韓国でも公開され、国内映画を抜いて興行成績1位となったという。
今回の映画は、阪神淡路大震災スマトラ沖地震の脅威をもとに、最新の学説で日本沈没のシナリオを書いたという。
”異変は、駿河湾の大地震から始まる。被災地で少女を助けるハイパーレスキュー隊員(紫咲コウ)は、阪神大震災で両親を亡くしたとの設定である。ハイパーレスキュー隊は、1995(平成7)年1月の阪神・淡路大震災を教訓として、東京消防庁が19976(平成8)年12月に組織したものである。中高層ビルが途中の階で壊れる「中層破壊」も阪神・淡路大震災の経験を踏まえたものである。 全国各地を襲う地震や火山噴火のメカニズムは、最近の学説を引用しているという、「日本沈没」を科学的に監修した一人東京大学地震研究所の山岡耕春教授は中学時代に旧作を見て科学への関心をもったという。「100万年単位」で起きる動きを1年の設定にしたのは嘘だが、細かいところでリアリティを持たせた。阪神大震災を経て、災害が人に与える影響にも作品は焦点を当てているという。製作委員会の浜名一哉・TBSテレビ映像事業担当部長は、「33年前に比べ、近年の国内外の自然災害を見れば、災害は明日起こるかもしれないと思える。国も我々一人ひとりも、いかに、備えるかの警鐘の意味もこめた」と話している。(2006・7・15朝日新聞)・・・というが、最近のマスコミなどで国民が震災などに、どの程度備えをしているかなどを報じているのを見ていると、本当に、何の準備もしていない人が多いのには呆れる。つい最近あった能登半島地震から、3ヶ月が経過し、住宅再建のめどが立たないお年よりの困っている様子を報じていたのを見て、神戸で同じように震災に遭った身として、本当にご同情申しあげたい。しかし、地震が発生して避難しているときの避難民の行動やインタビューに答えている発言などを聞いていて、正直言って、少々腹立たしささえ感じた。これは、阪神・淡路大震災以降も「新潟県中越地震」など大きな地震が発生しているがいずれも同じで、地方自治体などハード面ではある程度阪神・淡路大震災の教訓を生かしているが、市民の防災意識などは、殆ど、感じられなかった点である。飲み水がないだの食料がないだの、電気やガスが使えないなどと市民が不満を言っているが、大災害が発生したときにはそんなことが起きるのは当然のことであり、それなりの準備をしておくべきであろう。我々は、水道が出るまでには1ヶ月以上も要した。それを2日や3日でぶつぶついっているが、他の地域で大きな災害があってもそれは、よそ事である、私達には災害は来ないといった甘い考えの人が今の日本人には多すぎるのではないか。
阪神・淡路大震災のような破壊力のある地震は、今まで、余りなかったが、実際には、明治以降だけでも震度 7 クラスの地震の強度は多少の推定も含めて少なくとも 数十年に一度はどこかで生じていることになるという。日本は戦後しばらく地震活動の静穏期に恵まれ、まさに地震災害に対する切実感が薄れていた。その間,新潟地震,十勝沖地震,宮城県沖地震,日本海中部地震,釧路沖地震,北海道南西沖地震など最大震度 6 、最大マグニチュード 8 程度の被害地震が起きてはいた。しかし、震源が比較的離れていたことが幸いし、液体化、津波などの被害は大きかったものの、震動そのものによる被害はそれほどでもなかっただけなのだという。
神戸の地震が内陸地震の原因となりうる震源地が近いものであったので、加速度の値だけでは表し得ない大きな破壊力を発揮したのである。それが、耐震に強いはずのビルまでも破壊し、我々の楽観主義を完膚なきまでに打ち砕いてしまったのだという。だから、自然災害に対する人間のおごりは全く通じないということを神戸の地震で学び取り、その教訓を肝に銘じて国も自治体も、業界団体も、そして、一般の市民も防災対策を講じておくべきである。何もせず、被害にあったからといって、泣き言ごとだけを言うべきではないだろう。以下参考の「阪神淡路大震災以降の地震工学の常識 中央大学教授 國生 剛治」参照。
また、先に述べた、「日本沈没」を科学的に監修した東京大学地震研究所の山岡耕春教授の「日本沈没」と地球科学や防災に関する質問を受け付け、「日本が沈むことはないのですか?」などといった質問などにも、わかりやすく親切に回答しているQ&Aコーナーがある。興味のある方は見られるとよい。
東京大学地震研究所 「日本沈没」と地球科学に関するQ&Aコーナー
http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/filmnc06/eri_qa.html
(画像は、33年ぶりにリメークされた映画「日本沈没」のチラシ)
日本沈没 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B2%88%E6%B2%A1>
日本以外全部沈没 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BB%A5%E5%A4%96%E5%85%A8%E9%83%A8%E6%B2%88%E6%B2%A1
goo 映画「日本沈没」(1973公開)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18161/
goo 映画「日本沈没 」(2006年7月15日公開)
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD9103/index.html
東京大学地震研究所 「日本沈没」と地球科学に関するQ&Aコーナー
http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/filmnc06/eri_qa.html
作家別作品リスト:No.160作家名: 海野 十三 (うんのじゅうざ)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person160.html
スマトラ島沖地震 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%A9%E5%B3%B6%E6%B2%96%E5%9C%B0%E9%9C%87
東京消防庁消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー隊)について
http://www.fdma.go.jp/html/hakusho/h16/h16/html/16250k20.html
研究成果: 破壊・脆弱性評価チーム
http://www.riken.go.jp/lab-www/frontier-div/NEWSLETTER/Aug2001/kubo_j.htm
asahi.com:「日本沈没」33年ぶり、大震災経験踏まえリメーク
http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200607100160.html
阪神淡路大震災以降の地震工学の常識 中央大学教授 國生 剛治
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/randdev/f02_05_13_j.html
地震予知総合研究振興会
http://www.adep.or.jp/
地震予知連絡会
http://cais.gsi.go.jp/YOCHIREN/ccephome.html
日本SFの始祖、海野十三
http://homepage3.nifty.com/nishimura_ya/sf/unno.htm

検疫記念日

2007-07-14 | 記念日
今日(7月14日)は、「検疫記念日」
厚生省(現在の厚生労働省)と日本検疫衛生協会が1961(昭和36)年に制定。
1879(明治12)年の今日(7月14日)、日本初の伝染病予防の法令「海港虎列刺病伝染予防規則」が公布された。伝染病予防法は1998(平成10)年に廃止され、感染症法が制定されたため、現在は獣医学分野に限られる。(病名等は、法定伝染病参照)
伝染病予防の法令「海港虎列刺病伝染予防規則」の「虎列刺」とは、「コレラ」のことであり、「コレラ」は、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症の一つであり、日本では「 感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症新法)で二類感染症に指定されている。
全国の主要な海港や空港などに設置されている検疫所では、検疫法に基づき、日本に常在しない感染症(検疫感染症:エボラ出血熱、ペスト、コレラ、黄熱等)の病原体が海外からが船舶又は航空機を介して国内に侵入することを防止するため、海外からの来航者について検査等を行い、また、感染症の媒介動物である蚊やネズミなどの調査や必要に応じて駆除、消毒を行っている。
日本に初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が及んだ1822(安政5)年のことで、それ以前にはコレラは見られない。『嘉永明治年間録』には「暴瀉(ぼうしゃ)病7月下旬より、天下普(あまねく)流行、阿蘭陀(オランダ)にては、コレラと云うよし、両三度も暴瀉すれば、更に治し難し、故に是をコロリ病と痛言する也」とあり、江戸での死者は3~4万人に上ったという。コレラの病原菌は汚染された水や食物とともに飲み込まれると、腸管内で異常に繁殖し、患者を脱水症状にみちびき、死に至らせる。もっとも、その菌がドイツの細菌学者によって発見されるのは、1883(明治16)年であるが、症状が急速かつ激烈なことは、誰の目にも明らかだった。宛てられた「暴瀉病」、「虎狼痢(コロリ)」、「虎列拉(コレラ)」などの文字はこの伝染病の深刻さへの人々の認識を反映していた。この1822年(安政5年)は、日米修好通商条約の結ばれた年であり、ペリー来航から5年後のこの年をもって、日本は世界に国を開いたことになる。黒船の衝撃が日本の近代化にとって表の顔とすると、コレラの侵入はもう1つの開国を示したものといえるかもしれない。(週刊朝日百貨「日本の歴史)
1822(安政5)年のこのコレラの侵入を経て、明治維新後の1877(明治10)年にも、中国度門地方にコレラの流行があり、それがわが国に伝染して大流行をもたらした。その後も2~3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続いた。
このようなことから、日本の近代医学史・医療史・疾病史に於ける衛生行政はこのコレラ対策として始まったともいえる。1877(明治10)年8月内務省が「虎列刺病予防方法心得」を定め、伝染原のコレラ流行地から来航する船舶の検疫を実施しようとしたが、外交関係から日本政府は外国船にたいして検疫を行なう権限を持っていなかったため、実現できず、病原菌はフリーパスで入ってきた。度重なるコレラ来襲の中でも、1879(明治12)年の流行は最大級の規模に達した。患者数162,637人、死者は105,786人に達した。是は、後の日清・日露両戦争の死者(戦死者を含む)の総計を凌駕するものであった。
そのようなことから、1879(明治12)年の今日(7月14日)、検疫関係のみを取上げ 「海港虎列刺病伝染病予防規則」を公布(太政官布告第28号)。これが、我国最初の統一された国内予防規則である。その後直ぐ、21日、更に「検疫停船規則」(太政官布告29)に改正し公布した。この規則に基いて設立された長崎及び神奈川の両地方検疫局が業務を実施したが、これがわが国における来航船舶に対する海港検疫の始めであった。ただ、外務候寺島宗則が、コレラ予防のためこの「検疫停船規則」を各国に通知したところ、公使たちから異議が続出し、規則を無視して船を出港させた国もあらわれたという。
そのため、コレラの流行が頂点となったこの年はコレラ一揆の最も多発した年ともなり、7月~9月にかけて、近畿・東海・北陸・関東・の各地で総計24件にものぼったという。一揆で人々が求めたものはいろいろあるが、先ず近辺への避病院建設反対、患者を乗せた船の入港反対などの要求があった。しかし、圧倒的に多かったのは官憲のコレラに対する抵抗であった。果物や魚介類の販売禁止という予防措置と、患者の避病院収容という事後処理措置への反発が主な要求項目であったようだ。人々には病気そのもの以上に当局の措置がいとわしい(嫌だ。不愉快だ。煩わしいといった意味)ものと受け止められていたようだ。実際、当時のコレラ対策というものは、ほぼ消毒と隔離の2つである、消毒薬としては石灰石酸であり、隔離の施設としては流行のたびに仮設の施設として、避病院が建てられただけであり、患者本人への治療としては、芥子浴(からしよく)とか、アヘンの投与程度のものであった。従って、コレラ対策の基本は多数を救うために病原菌が周囲に拡がるのを防ぐべく隔離するといったことが第一義であり、そのようなことへの反発であったのだ。
そして、1880(明治13)年、「伝染病予防規則」を交付。これが我が国最初の伝染病予防規則である。1882(明治15)年6月、「虎列刺病流行地より来る船舶検査規則」を交付し、外国船にも実質的に検査を実施し、横浜を虎列刺流行地に認定、横浜港から来る船舶の検査実施港を告示することになった。
1890(明治23)年には日本を訪問し、横浜港に入港していた オスマン帝国(現トルコ)軍艦 、エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。そして、1891(明治24)年2月には、「海外諸港ヨリ来ル船舶二対シ検疫施行方」(勅令第六15号)が公布され、海外から来る船の検疫が実施されるようになった。それでも、1895(明治28)年には軍隊内で流行し、死者4万人を記録した。
1897(明治30)4月、「伝染病予防法」(法律第36号)が公布され、従来、臨時に設けられていた伝染病予防が充分な法的根拠を持つようになったが、1899(明治32)年2月、「海港検疫法」(法律19号)の制定、「海港検疫所官制」(勅令第137号)があり、内務省直轄の海港検疫所として設置されることとなり、近代的海港検疫の態勢を整えるようになった。
当時は、外国航路は横浜、神戸、函館など指定された港のみであり、人や物資は何日間か外部との接触ができないように停留させられた。現在でも、外国との行き来がある海港・空港には、必ず検疫所が設置されている。「検疫」は、英語では「Quarantine」だが、その語源はイタリア語で数字の40を表しており、これは、かつてヨーロッパでは検疫のために船を港外に40日間停留していたことに由来しているそうだ。
このようなコレラ流行の状況が改善され、患者数も1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは1920年代になってからであり、その後は第二次世界大戦敗戦の混乱期にアジア地域からの引揚者により持ち込まれて560人の死者を出した例や、1977(昭和52)年に和歌山県下で感染経路不明のエルトール型の集団発生があったほか、海外からの侵入による発生例が時折見られる程度だという。
コレラの感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・パンデミック)が発生し、1817(文化14)年に始まった第1 次世界流行以来、1899 (明治32)年からの第6次世界大流行までは、すべてインドのベンガル地方から世界中に広がり、原因菌はO1 血清型の古典コレラ菌であったと考えられているそうだが、1961(昭和36)年にインドネシアのセレベス島(現スラワシ島)に端を発した第7 次世界大流行は、O1血清型のエルトールコレラ菌であり、この流行が現在も世界中に広がっていて、現在でも終息する気配が無いといい、WHOに報告されている世界の患者総数は、ここ数年20 ~30万人であるが、実数はこれを上回っていると推察できるという。(以下参考の国立感染症研究所・感染症情報センター「 感染症の話」)
現代のように、人・物・動植物などあらゆるものが、国家間を行き来している時代には、このような検疫体制といざと言うときの対応は国として確りとやっておいて貰わないと困るよね。厚生労働省の皆さん、お願いしますよ。
(画像は、「流行悪疫退さんの図」コレラ大流行により10万人以上の死者を出した明治12年の翌年の錦絵。コレラに見立てた頭は獅子、胴は虎の怪獣に、右手から官吏と巡査が消毒薬の石灰酸を噴霧する。その後方、洋装の紳士2人は汽車に乗って流行地から逃げ出そうとしているらしい。これに対し、手前の庶民たちは手を出しかねている様子。注目されるのは、怪獣に「支那ヘイカウ〔行こう〕」と言わせていること。〔※良く見えないが怪獣の顔の下に小さく書いている〕。左後方には中国人らしき一隊も見える。コレラが中国経由で襲来したのは事実だったが、排他意識の表れが窺える。週間朝日百科「日本の歴史」〔97〕より)
参考:
厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/
日本検疫衛生協会
http://www.kenekieisei.or.jp/
コレラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%A9
国立感染症研究所・感染症情報センター
http://idsc.nih.go.jp/idwr/index.html
予防接種機関 : FORTH(FOR Traveler's Health) - 厚生労働省検疫所 ...
http://www.forth.go.jp/tourist/vaccine.html
法定伝染病 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%AE%9A%E4%BC%9D%E6%9F%93%E7%97%85
ニ類感染症
http://api-net.jfap.or.jp/mhw/document/doc_01_46_04.htm
厚生労働省:検疫所所在地一覧
http://www.mhlw.go.jp/general/sosiki/sisetu/ken-eki.html
伝染病予防法施行規則の廃止
http://www.nihs.go.jp/mhlw/tuuchi/1999/990204/990204.html
[PDF] 海港検疫法の制定
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/6646/1/100_07_06.pdf
明治期の横浜と「伝染病」
http://www2.ocn.ne.jp/~bukai-hi/ke-densenbyou.htm
神戸水道100年のあゆみ(神戸市水道局)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/51/06/09.html
神戸水道の誕生(神戸市文書館)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/tenji/kako.html
成田空港検疫所
http://www.forth.go.jp/keneki/narita/
旅行医学・感染症 (名古屋検疫所作成)
http://www.forth.go.jp/keneki/nagoya/ryokouigaku-kannsennsyou.htm