こ と の 端

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権 威 主 義 ②

2014-05-04 08:53:24 | Weblog
日本人がもつその一般的な価値基準

とは

絶対的な存在

または

それに準ずる地位にある誰か

による

第三者からの判断

の上に成り立っている

共通の認識

ということになるだろう


個人の価値基準というものは重視されず

大勢の赴くところを参考にして

己の価値とする

という風土と文化が

歴史の結果として

意識の奥深くにまで

染み透っている

スタンダードの不在を

自覚することができていないと

周囲を見回して

大方の意向に盲従することで

安堵する


個としての独自の基準があっても

それに周囲は重きを置かず

全体がもつ認識の一致

或いは

不一致

と思しきものを追い求めて

ひたすら

靡こうとする意識を抱えて

身構えている

まるで

それは

草や藻のような

揺らぐもの

それが

日本人に通有する

一般的特徴だといえる


天皇が国の方針を定める意思決定

に直接関わっていた時代には

それを補佐する要職に

武家の代表や軍の上層部などの組織が

絶対的な存在

の代理人

という立場で

執権

またはそれに等しい要職に就く

慣わしになっていた


この国の歴史というものは

閲してきたあらゆる時代を通じて

さまざまに

作られてきたのだが

その結果として

個としての価値基準となるものが失われ

家に代表される集合体

の利益を優先する暮らしに平和を見出し

日夜その維持に勤みながらやってきた


国民は歴史的に絶対的存在である

天皇の意志に追随することで

安寧と繁栄を得

日本語とそれが生む固有の文化とを

時間をかけて

今日まで

着実に育て上げるよう努めてきた


温和で従順なその麗しい国民がもつ資質は

権威の代行組織による

恣意的な制御の対象となるよう

容易に誘導可能なものとなっており

それが災いして

唯一の被爆体験を

強いられる

という

比肩すべきものとてない

巨大な

悲しみの連鎖という経過を

世界史に刻みつける結末を

70年前の夏に残した


国民は権威に従うことが善であり

お上に従順でありつづけてさえいれば

なにごともうまくいく

と信じさせられてきた


至高の権威者が

戦後

象徴的存在へと変化したことによって

国民はカリスマを失って

占領国であるアメリカ型の支配体制に

率先して順応し

戦後の高度成長期の推進役となってきた


この変化に伴って

価値の基準は

新しい権威者となった

アメリカ型の 

それ

多くの場合

経済的には自由主義

を基本とする

政治的には民主主義

と呼ばれてきた新体制

の上に成り立っている

後付けの

特別に

付与された価値らしきもの

を民族の判断基準とすることに

同意することが

民族の発展に寄与した

とする時代が必然的に作られた


それは敗戦国となるその日まで

日本には一度も存在したことのない

封建主義からの解放

を意味する自由という名の価値を

きらびやかな装いとして見せていた


権威主義という土台の上に構築された封建主義

の桎梏から解放され

はれて制約のない身となった

日の本の民は

そうなった段階にあっても

解放された自由を持てあまし

個人としての価値の基準を

積極的に手に入れようとはしなかった

大勢の赴くところをみて

己の価値基準だと

率先して錯誤した

その弊習が

亡霊となって

この国土全域を蔽っている


日本という国に棲むひとびとは

個人としてよりも

全体としての調和を

より重んじる


事の善悪や

好き嫌い

などは価値基準の一つとして認められてはいたのだが

個としての価値が多様なものになっていってからでも

全体の和

を乱すものなら

それを価値とは看做さない


この傾斜が災いとなったケースが

残されていた

権威筋が安全だと宣言していた原発が

水素爆発を起こして

呆気なく

木っ端みじんに吹き飛んだ

あれ以来国民は

権威の示す判断に

とても懐疑的になることができるようになった


だが

核以外の分野では

相変わらず

権威からのご託宣が

盲目的に追随するための絶大な条件

という牢固たる姿勢を

今以て

根強く保持することを

当然視してもいる


権威というものは

古来

天皇制の周辺に跋扈する

ものとなっていた


国会では国民の代表を自任する政党の一部が

公共放送の事業者に

公正な情報伝達を阻むことさえ

平然として

やっていたことがある

その結果

番組の内容は事前に変更され

本来の内容とは違う仕上がりとなった

10年前の2004年のことである


同じ種類の問題が

再び

NHK会長の発言の端々に

繰り返しみられる

権威主義者というものは

自らが権威的立場に就いたとき

権威主義者を目指す者を

再生産する役割を果たすのだ

保守に固執したがるという特異な傾きは

権威主義の結果として

与えられたもの


現状を快適だと思うものは

問題のある制度を温存する行為を意味する

保守に拘る

改善すべき点が皆無といえない状況で

保守を標榜するのは

愚かさの証明にしかならない


問題のある制度を保守することが

どのような意味をもつ行為なのか

ということを

何一つ考慮していないのだ

この点で

批判の対象とされるための存在

という価値を自ら担っている


解決すべき課題をゼロにすることができたとき

はじめて

保守すべきその体制が

整う


誰かのもつ価値判断が

己の価値基準より

普遍的で正当なもの

とする根拠は

見つからない

そして

原発が水素の爆風で

吹き飛んだ


権威は疑うためにこそ

存在することを

許されている

その権威に国民が盲従するようになったとき

この上ない不幸な結末が

被曝体験となって

またもや訪れたのだった


反証を前提とするという意味で

権威主義というものは

はじめから

とても疑わしいものであったのだ
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