活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

胆管がんのニュースに

2013-02-20 20:53:40 | 活版印刷のふるさと紀行

 昨年から印刷会社で働いていて胆管がんになった人のニュースがたびたび伝えられました。かつての3Kということばを持ち出したり、いちばん噴飯ものの論評では電子出版が進めば印刷はいらなくなる、胆管がんの心配もなくなるというのさえありました。

 きょう大阪の印刷会社で働いていた16人の方の労災申請を厚労省が認める方針を固めたと新聞が伝えていたことは、罹病された方や亡くなられた方、ご家族にとってはいくらかでも救いになるかと思いますが、一方で、この問題が印刷産業のイメージダウンを一般の人に与えたことは否めません。

 というよりも、まるで印刷会社で働く人には胆管がんが発生しやすいような報道をされるのを黙って見ているのはおかしいといわざるを得ません。もっと、業界として、かくかくしかじかと、このようなケースが数少ない事例であることを伝えるべきではないでしょうか。

 私の知る限り、危険な化学物質を含む洗浄剤を使って印刷インクを落とすような作業をしている職場環境無視の印刷会社はないはずです。この問題の発端になった大阪の会社は校正刷りを印刷する会社でした。ふつうの印刷会社の場合は何万枚と数を刷りますから、ローラーのインクをそんなにたびたび落とす必要はありませんが、極端な場合、5~6枚校正刷りを刷って、次に別な色に替えるような仕事が多い校正印刷だと、洗浄の回数も多く、なかには、悪環境で作業が進められた可能性が高かったのではないでしょうか。

 値段は高いでしょうがいまは半自動のすぐれた校正機も出ています。作業者が手盛りでローラーにインクを盛っていた時代ならいざ知らず、環境配慮の進んだ印刷現場、製版や校正、本機印刷の印刷工程をもっと一般の人にも知ってもらいたいし、もっと印刷産業として声をあげるべきではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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あたらしい印刷をめざすカレッジを

2013-02-19 22:27:25 | Weblog

 駿河台界わいのことを書いたら友人から須田町や岩本町はとりあげないのかといわれてしまいました。たしかにそうですが、それはまたにします。

 と、ここまで書いたらテレビが神田の「藪そば」の火事の実況を始めたではありませんか。ちょっとショックです。「蕎麦せいろいちまーい」などと注文を通す女の人の声が耳に残っていますが、明治13年創業の、これぞ名代の蕎麦屋という感じのあの店が燃えてしまうとは残念です。

 さて、私の手の届くところに置いているのが『印刷雑誌とその時代』という800ページもある本です。サブタイトルに実況・印刷の近現代史とありますが、明治24年の創刊から大正7年の再創刊を経て平成の今日までつねに印刷の今を見つめ続けたという『印刷雑誌』から興味深い記事を拾い上げたのが内容です。

 硬軟いろいろの記事があって拾い読みするのが楽しい本です。きょう読んだのは印刷教育に関連するところでした。古くは近代印刷の黎明期に秀英舎(大日本印刷)や博文館印刷(共同印刷)が働きながら印刷を学べる企業内学校がありました。

 私は思うのですが、印刷産業がIT化に伴って大きく舵を切り替え、「印刷」そのものがこれからどのような道を辿るかわからない今、印刷企業なり、産業連合会なりが、独自のカレッジをつくるべきではないかと。大学や高専で学んで来た学生を採用して印刷産業に適合させるのではなくて、みずからの手で変革期の印刷を支える人材養成をすべきときだと思うのですが。

 

 

  

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ニコライ堂

2013-02-18 15:51:58 | Weblog

 駿河台のつづき。

 このところ駿河台にご無沙汰したのはカザルスホールが閉館してしまったことが大きいように思えます。いい音にめぐりあった夕べ、山の上ホテルでワインかシェリーをちょっぴりというのが至福の時でしたのに残念です。

 駿河台で忘れていたのがニコライ堂。ゆっくり歩いてみて気がついたことはむかし、あれほど駿河台の象徴だったニコライ堂が高層ビルの谷間に埋没したような存在になって」しまっていることです。出版社づとめのころ、昼休みに行ってよく見上げていたドームや鐘楼が心もち低く、小さくなった気がしました。

 正式な名称は「東京ハリストス復活大聖堂」だそうですが、やはり、ニコライ堂でないとピンと来ません。ハリストスというのはキリストのロシア読みだと聞いたことがありますが、ニコライ堂はギリシア正教の教会堂だそうです。私はあそこではいつもロシア人の信徒を見ていましたし、ロシア正教とばかり思っているのですが、どちらが正しいのでしょうか。

 しかし、久しぶりに近くで見るニコライ堂の建物の風格は少しも変わっていませんでした。駿河台といえばニコライ堂、失礼いたしました。そうそう、1891年(明治24)生まれ、たしかビザンチン様式でした。

 

 

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懐旧 駿河台界隈

2013-02-17 16:43:00 | 活版印刷のふるさと紀行

 冬晴れの風の冷たい中を久しぶりに駿河台を歩きました。駿河台は社会人になって最初に勤めた出版社の所在地ですから懐旧の念ひとしお、ついつい歩き回ってしまいました。

 毎日のように駿河台下の印刷会社から校正のゲラを届けてくれる少女がいました。頬っぺたを紅くして、息をはずませて編集室に飛び込んで来るのでした。錦町や水道橋や岩本町の印刷会社や製本屋さんから来る人はみんな自転車でした。

 坂がきついからかなと思って「おたくには自転車がないの?」とからかったら、「私、九十九里の出身なの、砂ばっかりで自転車には乗らなかったから乗れないの」という返事が返って来て 「そうか」と、納得したものでした。

 今はその出版社のあった場所は大きな予備校のビルになっていますし、病院なども大きなビルに変っていて当時とは町の顔が変わっています。むしろ変わっていないのは御茶ノ水の駅や聖橋や御茶ノ水橋くらいです。

 ここの角に名曲喫茶があったな。ここは理髪店だった。小さいけど洒落たバーがあった。そうだロシアケーキの店がここだった。ここは取次だった、出版社だと本が割引で買えるので、よく新進の作家に頼まれて買いに来たっけ。思い出は尽きません。

 最後に新御茶ノ水ビルディングの最上階のレストランに入って21階から眺望をたのしみました。駿河台界隈は真下すぎて、神田川とJRの線路が目に飛び込んで来ました。

 

 

 

 

 

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芥川賞の印刷屋的考証

2013-02-16 15:38:12 | 活版印刷のふるさと紀行

 第148回の芥川賞受賞作掲載の『文芸春秋三月特別号』をようやく読みました。かれこれ、一週間の積ん読期間を経てのようやくでした。

 理由は黒田夏子さんの『abさんご』は読み始めたのものの、私の集中力が続かなかったのです。 理由は横組であったこと、次にやたらにひらがな表記が多用されていて、いちいち、頭の中で漢字に変換しないと、熟語として理解できずに、文章としてアタマに入らなかったこと、さらに、句読点の位置と数が日ごろ読み慣れている日本文とどこそこちがうところにありました。

 つまり、黒田さんの文章に慣れるまで、行ったり、来たり読みをしなくては前に進めなかったのです。 そうはいっても、今の若者の文頭の1字下げがなかったり、特有のカタカナの外国語まじりはみじんもなく、日本語として韻を踏んでいるような文体の繊細さ、美しさはサスガでした。

 さて、私には文芸作品としての『abさんご』を批評する力はありませんが、この作品を印刷・造本する立場に立ってみると、いろいろ考えさせられました。まず、作品発表が今でよかったというのが実感です。黒田さんの原文がもし、以前みたいに原稿用紙に書かれていて、それを文選工が拾って、植字が組む活版方式だったら、かなり、担当者は難渋したにちがいないと思うのです。印刷がDTP,デジタル時代で万歳です。

 それと『文春』の場合でも、『abさんご』は414ページから始まりますという案内ページがあって414ぺージから375ページまで左から右へページを繰る横組みの受賞作が掲載されているわけですが、なにか1冊の中での異質感は免れません。本誌が右アキ縦組みですからやむをえませんが、字詰・行間など組指定をされたレイアウトマンも苦労されたことでしょう。

 やがて、単行本化されて店頭に並ぶでしょうが、組体裁や造本装丁がどんなになるのか楽しみです。書店の平台に並べられるときも、お隣の右アキ、縦組みの本とはちょっとちがいますから。まだまだ、文芸書は縦組みがほとんどです。

 黒田さんは校正マン経験が豊富だと聞きます。また、ご年齢の上から縦組み時代に育って来られています。なのに、どうしてだろうかと率直な疑問を抱きます。活字にする場合、活字になった場合の可読性をどの程度お考えになっているでしょうか。これからも横書きを続けられるとおっしゃっていますし、おそらく文体表記も『abさんご』のような形でしょうが、まだまだ文藝愛好家には縦書きに慣れている読み手が多いことですし、日本の活字があくまで縦組み用であったりすることも考えに含んでいらっしゃるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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壱岐の鬼だこ

2013-02-15 20:00:51 | 活版印刷のふるさと紀行

 バレンタインがあって、誕生日があって2月は忙しい、などと気取って見たいのですが、実際はただの身辺多忙、つい、ブログも間をあけてしまってゴメンナサイ。

 さて、もう節分も終わってしまいましたが、きょうは鬼の話。私はベッドのそばの壁面に壱岐の「鬼だこ」を吊り下げています。この壱岐の鬼だこには諸説、由来がありますが、いちばん信憑性のあるのは、こうです。

 その昔、壱岐の島は「悪毒王」と名乗る配下に5万の鬼を率いる鬼の大王が治めていて主従そろって悪行の限りをつくしていたといいます。それを聞きつけたのが都の「百合若大臣」というイケメンで腕に覚えあるスーパーマン。さっそく、討伐に上陸して来ました。あわれ、悪毒王の手下どもは彼の前には全滅、最後は悪毒王VS百合若大臣の一騎撃ちになり、斬られた悪毒王の首は空高く舞い上がり、かろうじて、舞い降りて百合若の兜に噛みついて絶命したそうです。舞い上がったとたんに絶命しているはずなどと理屈をいってはいけません。

 「とにかくその話がこの鬼だこの絵柄になっているのです。魔除けにはゼッタイです」島のみやげもの店のオヤジさんのことばで、私は2個求めてきたのです。というのは、あまりにも愛情濃厚の女性につかまって難渋している友人に進呈するために1ケ、我が家用に1ケと。

 昨晩その友人と電話で話したついでに「その後鬼だこの御利益は?」と聞いてみました。どうも著効はないようで煮え切れない返事でした。節分で「鬼は外」と追い出してしまったせいではないでしょうか。おかげさまで、我が家の方は豆まきはしましたが鬼だこさまさまです。

 

 

 

 

 

 

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