活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

眉唾にしても、トルコの「羊皮紙」の話

2010-04-20 18:48:48 | 活版印刷のふるさと紀行
 今月、アイスランドの噴煙騒ぎの前にトルコへ
行ってきました。エフェソスの遺跡でガイド氏か
ら聞いた話の受け売りです。
 
 エフェソスはイスタンブールから600キロ、
エーゲ海に近い古代遺跡の町です。

 聖パウロが伝道の拠点にしたという話、ここで
聖ヨハネが「新約聖書」を編纂した話、イエス亡き
あと、母マリアがヨハネに面倒を見てもらいながら
晩年を過ごした話など紀元後の話もたくさん聞きま
したが、紀元前2000年からの歴史がたどれるこ
の町には面白い話がゴロゴロしておりました。

 その一つがこれ。写真を見てください。おそらく、
公衆トイレの跡で穴のところに腰をおろして用を足す
構造です。よく見るとその前にミゾがあります。
ここを小水が流れ、一定のところにためられると、
「その小さな小水ために羊の皮をつけて、アンモニア
作用で皮をなめし、薄く剥ぐと上質の羊皮紙が出来
上がつたのです」

 ポンペイよりもはるかに壁や柱がしっかり残っている
ここの神殿跡や教会あとを見ていると「エジプトのパピ
ルスよりもエフェソスの羊皮紙づくりの方が先輩だった」
というガイド氏の説明が満更、眉唾に思えなくなりまし
た。

コメント (4)
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想説/活版印刷人あれこれ30

2010-04-19 15:51:58 | 活版印刷のふるさと紀行
 わが「想説/活版印刷人あれこれ」も30回、あっちへふらリ、
こっちへふらり、そろそろ幕を引かないといけません。
そもそも私は『活版印刷人ドラードの生涯』執筆のときから謎の
活版印刷人の存在が気になって仕方ありませんでした。

 キリシタン版の印刷に携わった人で「印刷担当」として名前が
残っているいるのはせいぜい10名を数えるにすぎません。
しかし、20年以上の間、キリシタン版の印刷にかかわった人は
おそらく百人をくだらないと私は見ます。

 さらに問題なのが、最初に国字活字を誰が作ったのかです。
ローマ字の活字や字母、母型の類は舶載されてきました。
国字は日本に着いてから手がけたのでしょうか。

 わが敬愛する大内田貞郎先生は『活字印刷の文化史』のなかで、
「十名の日本人神弟」と「土着人三十名」がキリシタン版にかか
わったとされています。私は天正少年使節が日本をあとにしたと
きからヴァリニャーノの依頼によって国字の文字版下づくりが始
まったと考えました。イエズス会に身をおく修道士のなかに僧侶
出身がかなりいましたから、その手ずるで五山などからノウハウ
を得ることは出来たと思います。

 しかし、古活字版の木駒彫刻の手法がそのままキリシタン版の
国字製造に使われたとは思いません。印刷に関する知識のある僧
侶や来日した修道士などからいろいろ聞き取って、苦心惨憺、
1590年の天正使節帰国までには国字版下はほぼ完成に漕ぎつ
けていたのではないでしょうか。

 そのことから国字印刷にも成算ありということで、ヴァリニャ
ーノが加津佐で行われたイエズス会協議会でキリシタン版の印刷
開始を高らかに宣言したのでしょう。


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想説/活版印刷人あれこれ29

2010-04-19 14:51:43 | 活版印刷のふるさと紀行
 インドのゴアで使節一行と合流したヴァリニャーノの関心は
かなりの部分、日本での伝道用の出版物の印刷に向けられてい
たのは想像に固くありません。
 秀吉の禁教下の日本に使節たちと入国するための懸念はいろ
いろあったでしょうが、このころ、使節派遣の成功は確信にな
っていたでしょうから「次は印刷だ」と思い始めたに違いあり
ません。

 はたして、ヴァリニャーノはドラードたちの「活版印刷技術」
習得に満足したでしょうか。
彼の頭の中をかけめぐったのは、「いったい、日本文字の印刷は
どうするか」だったでありましょう。
 滞欧中のメスキータに「日本活字の字母作製」を下命したのに
まったく実現されなかったことに大きな不満を覚えていたのも確
かでした。それにもまして印刷実習の柱として帰国後の活躍に大
きな期待を寄せていたロヨラをマカオで喪ったことは大打撃でし
た。

 残るのは8年前、日本を発つときに言い残した日本活字の準備が
養方軒パウロやヴィセンテ法印親子らによってどれだけ進んでいる
だろうかという期待でした。とくに、パウロは高齢だっただけに、
「もう、天に召されてしまったか」とさえ思うのでした。

 しかし、ヴァリニャーノの期待をどれだけ満たしたかはわかりま
せんが、長崎に到着後、わずか1年後に「キリシタン版」が印刷さ
れることになったのです。さらに、ヴァリニャーノがあれほど心配
した日本文字で『どちりな・きりしたん』がすぐあとを追って印刷
され、出版されたではありませんか。だれが、どのようにして、こ
の「芸当」をやってのけたのか、おそらくヴァリニャーノはキツネ
に騙されたくらいの気持ちに駆られたことでしょう。



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想説/活版印刷人あれこれ28

2010-04-19 14:06:33 | 活版印刷のふるさと紀行
 少年使節の一行が南蛮船で長崎に帰って来たのは1590年、
天正18年の7月21日でした。
リスボンを発ったのが1586年4月12日でしたから復路に
要した月日が約4年、実はこの復路4年間にこそドラードたち
の「印刷研修」の期間が当てられたものと私は想像します。

 なんとなれば、リスボン滞在の短い間にどれほど印刷実習が
できたかは疑問です。ことばのハンディもありました。前述の
ように、4人の使節の面倒見もありました。とても、印刷実習
に打ち込むだけの毎日は無理だったと思うのです。

 実際に彼らが手とり、足とりで「活版印刷術」を学んだのは、
復路のゴアでの1年足らずとマカオでの2年、あわせて約3年の
滞在期間中だったと見てよいでしょう。
 ヴァリニャーノは先見の人でした。リスボンから日本に向う修
道士の何人かは印刷キャリアの持ち主を当てたはずです。その修
道士たちが先生役をつとめたのです。

 ゴアで印刷した『原マルチノの演説』もマカオで印刷した『キ
リスト教子弟の教育』や『遣欧使節対話録』も、いわば、印刷実習
のカリキュラムとしてでであり、組版や整版や印刷・製本の練習台
になったのです。
 
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