活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

文字・活字文化の日

2011-07-30 22:16:21 | 活版印刷のふるさと紀行
 大震災のあとは何十万の人に避難指示がでるような豪雨。テレビを
見ているだけで胸が痛みます。日本列島が自然災害に何処まで見入ら
れていくのか恐ろしい気がします。

 昨日、六本木で神田川大曲塾の例会がありました。この秋口、10
月・11月の活動計画の打ち合わせです。
 神田川大曲塾は「印刷文化」の研究や推進を活動のハシラに置いて
おりますが、10月27日が「文字・活字文化の日」だということを
知らないメンバーもおります。なにを隠そう私もその一人でした。

 聞けば平成17年7月といいますから、「たまたま、今から6年前
の本日、「文字・活字文化振興法」という法律が施行された」という
のです。あなたはご存じでしたか。

 文字・活字文化といえば、印刷文化の親戚みたい、それも三等親以
内ぐらいに思いますが、そいつを推進したり、振興したりするという
のはかなり難しいのではないでしょうか。
 と、いいますのは、「文化」というくくり方はやさしいけれど、中
身をはっきりさせるには意外に困難を伴います。

 われわれの取り組んでいる「印刷文化」も具体的な活動計画を決め
るときに、整合性を疑うようなこともあってギロンを生むからです。
まして、文字・活字文化も印刷文化も何百年もの間、「紙」を核にし
て展開されてきたものですが、いまや電子メディアの時代、いやはや、
頭が痛いことです。
 毎年、年末でしたか「今年は○の年でした」と高僧が墨痕リンリと
お書きになるイベント、あれこそ、文字・活字文化のように思えます
?が。「印刷文化」のイベントは?どなたか、お知恵拝借。


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ベンジャミン・フランクリンの別な顔

2011-07-27 14:34:20 | 活版印刷のふるさと紀行
 


これも夏休みがらみですが、休み中に読んだ本の読後感を書く宿題があり
ました。
 なぜか、物語よりも「偉人伝」が無難でした。たとえばジョージ・ワシン
トンですとかベンジャミン・フランクリンですとか、アメリカ人が多かっ
た気がします。

 ベンジャミンが嵐の日に凧をあげて、雷から電気を発見し避雷針を発明し
た科学者で、政治家としてもアメリカ建国の父であるという有名な話の感想
文を私も書きました。フィラデルフィアという都市名を覚えたのもそのとき
でした。

 このアメリカの100ドル紙幣の顔になるという大偉人がアメリカの「印
刷史」の立役者でもあることをご存じの人は少ないと思います。
 17歳のときにロンドンに渡り、みずから植字工として働いたり、活字鋳
造技術を身につけたり、いっぱしの「印刷人」の時期があったのです。

 20歳になってフィラデルフィアに戻ったフランクリンは印刷所をおこし
たり、『ペンシルヴァニア・ガセット』という新聞を発行してジャーナリズ
ムにも首をつっこみます。この新聞はのちに『サタデー・イヴニング・ポス
ト』という大新聞に発展します。

 50歳を過ぎてフランクリンは印刷界から身を引きますが、彼のアメリカ
印刷史の上での功績は、それまでどちらかというとイギリスに遅れをとって
いたアメリカの活版印刷の地位をたかめ、とくにフィラデルフィアをアメリ
カきっての印刷産業都市にしたことです。

 84歳で亡くなっておりますが、政治家・外交官・科学者として有名であ
った彼が印刷人としても大きな足跡を残していたとは嬉しい話です。


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鉛の活字の思い出

2011-07-26 17:11:22 | 活版印刷のふるさと紀行

 
小学校が夏休みになりました。

 何十年も前のことですが、首からスタンプカードをぶらさげてラジオ体操に
通ったこと、泊りがけで海水浴に行ったこと、朝顔の観察日記や絵日記がめん
どうだったこと、なんだか思い出の宝庫です その宝庫の中にひとつだけとい
いますか、こんな思い出があります。
 たしか町の花火の日でした。
 「オレんちの物干し台から見るといいぞ」というガキ仲間の家にまだ明るい
うちに押しかけました。彼の家ははがきや名刺や挨拶状などを印刷する端物屋
でした。

 そこで、彼の親父さんが私の名前の鉛の活字を「そらっ」といって手渡して
くれたのです。漢字4文字だけですが、銀色で角ばった小さな鉛活字を宝石み
たいにきれいで美しいと感じました。
 4文字を糸でしばってハンコがわりにして本やノートに押してみたりして、し
ばらく遊び道具として楽しみました。
 おそらく、あれが私と活字との出会いでした。
 
 いまの小学生は「印刷」ということばから、パソコンを使ってコピー機の印
刷することをイメージするそうです。
 来週から印刷博物館で夏休みの子供たちが「印刷」と親しむイベントがはじ
まります。夏休み体験教室と銘打ったワークショップで製本・活版印刷・寒天
印刷と3つが用意されているようですが、はたして鉛活字の手触りから「印刷」
を脳裏に刻み込んでくれるでしょうか。
  
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楽しみは出版マーケットとこれからの印刷会社

2011-07-23 11:00:05 | 活版印刷のふるさと紀行
 『ぴあ』は廃刊ではなくて休刊のようです。近頃は雑誌コードの問題があって
次回のために休刊にするところが多いようです。

 今朝の日経本紙企業2面に『凸版、出版印刷を再編』という記事がありました。
これは、出版界で発行部数が縮小しつつある雑誌や書籍の現状に対して、印刷界
の今後のありようを示唆するニュースとして受け止めることができます。

 記事の大要は、凸版印刷では主に板橋工場と川口工場の両方でで雑誌や書籍の
「出版印刷」を手掛けていますが、こんど50億円を投資して川口工場に新ライン
を設置して出版物の印刷は川口に集約すると伝えています。
 板橋工場の方はプリプレスや電子書籍用のデータ作成などデジタルの生産拠点
にするとありました。

 新聞は未来形で書かれておりますが、おそらく既に川口に新ラインが完成して
印刷から製本まで一貫体制で生産は進んでいるでしょう。

 長い間、雑誌や書籍を印刷する印刷会社は出版社から印刷受注をしての「受注
産業」の経営が続いておりました。
 たとえば、この記事の板橋工場にしても何十万部、何百万部の発行部数の雑誌
を24時間、輪転機をフルに稼働させて生産していました。大日本印刷の市谷工場
も全く同じだったと思いますし、共同印刷のコミック誌の印刷風景も同じでした。

 しかし、いまやそういう単品種大量印刷の時代は去ったのです。クライアント
任せの受注産業では経営は成り立たなくなり、印刷会社は「印刷」という冠を自
ら投げ捨てて歩みだすという側面も見せはじめています。
 では、これからの印刷会社はどうなっていくのでしょう。

 きわめて個人的な感想ですが、この記事から私は凸版印刷のもっとも歴史と伝
統のあるメイン工場板橋工場の新しい顔の方が興味があります。
 ライバルの大日本印刷のメイン工場市ヶ谷も工事中と聞きます。
 出版マーケットの動きも興味ありますが、印刷会社のこれからの経営展開も楽
しみです。

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『ぴあ』お前もか。

2011-07-21 11:24:53 | 活版印刷のふるさと紀行
 大型台風6号接近騒ぎでいつもより空いているいるのではないかと
書店めぐりをしました。幸い、東京はたいしたことがなく、ときどき
街が乳白色に煙って集中的に激しい雨が降るのですが、ほんのいっと
きでなんとか予定通り歩き回りました。

 最近の書店は大型店になればなるほど、店舗のレイアウトも書棚表
示サインも同じでつまりません。昔の「丸善に行ってきた、紀伊国屋
を見てきた、三省堂をのぞいて来た」といったそれぞれ「違った顔の
本屋さん」めぐりの楽しみが今はありません。

 それと、あの「平台」というのですか、「そこのあなた、この本を
買わないとオクレマスヨ」と、ベストセラー狙いの本を積み上げてあ
るのは気に入りません。棚を見て歩く楽しみ、自分の好みと勘で本を
探し出す楽しみを奪われてしまっているようです。それとも今は「店
頭備え付けのパソコンで検索しろ」というのでしょうか。
大型書店より個性のある本屋さんヤーイの気持ちです。

 ところで、いま、雑誌『ぴあ』の最終号が賑々しく並んでいます。
廃刊になるのでしょうか。雑誌の休刊や廃刊はめずらしくありません
ので驚くことはないのですが、『ぴあ』の場合、「『ぴあ』お前もか」
とある種の驚愕と感慨を覚えました。

 エンタティメント情報誌の走り、出版とチケット事業の複合経営、
あるいはニューメディアと手を結んだ新しい雑誌と、どちらかという
と時代をリードしている印象が強かっただけに残念です。
 私が覚えたのは『主婦の友』や『月刊プレーボーイ』のときとはち
がった「どうして」でした。

 とにかく、雑誌の休・廃刊にはインターネットやフリーペーパーの
影響もあるでしょう。近くは東日本大震災の影響もあるでしょう。
さらに広告収入のマイナスによる発行部数減も残念です。
 こうした現象は洋紙店や印刷会社の経営面にも影響なしとはしません。
いや、深刻な問題です。書店めぐりも考えさせられることが多い一日に
なりました。



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キリシタン版と印刷人の謎 3

2011-07-19 11:00:05 | 活版印刷のふるさと紀行
 目を皿のようにしてイエズス会の名簿の印刷担当者を探してみますが
なかなか見つかりません。「印刷管理係」、「印刷校閲者」ニコラオ・
デ・アウィラとある人は、いまでいう事務職だったのか、あるいは校正
マンだったのか、印刷工ではないけれど、印刷人の中には入れるべきだ
などと見当をつけねばならないこともあります。しかし、10人そこそ
こです。印刷担当者が不足だったことは確かです。

 1594年3月22日付でゴーメス神父がローマのイエズス会総長に
出した書簡に「日本でいま必要な人材は印刷の経験がある修道士です。
日本の書物をローマ字と国字で印刷できる印刷技術に通じ、経験のある
修道士を求めます」とあります。

 さらにおまけがあって「ジョバンニ・バプチスタ・ペッセは学問が足
りないので、たとえ人のよさ、道徳心、熱意で補っても、印刷所の業績
は向かないでありましょう」といっております。
 学問のある、なしは別にしても、国字を扱える修道士は求める方がヤ
ボです。ですから、印刷現場は日本人主体の職場だったでありましょう。

 その証拠に、同じ年の10月20日、パシオ神父は、「父型や字母の
製造にまったく未経験の日本人印刷工が短期間に、しかも6ドカドを超
えない費用で印刷に必要なすべてのイタリック文字をつくってくれまし
た」と総長あてに報告しています。1594年に天草で印刷された『ラ
テン文典』のイタリック文字のことでしょう。

 何年か前、長崎純心大学での古典籍研究会で話したことがありますが、
キリシタン版の印刷が少人数でなされたという説や印刷機が最初から最後
まで舶載の1台だけだったという説を私は全く信じません。

 ローマ字と国字の本を70種類以上、それに膨大の数の神符のような端
物を20年間でごく少ない印刷人と1台の印刷機で印刷できるはずがあり
ません。少なくとも常時、50~60人、印刷機は3~4台はあったはず
ですし、ドラードたちの帰国以前から「印刷プロジェクトチーム」が作ら
れていたのではないかと考えます。  
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キリシタン版と印刷人の謎 2

2011-07-18 10:37:55 | 活版印刷のふるさと紀行
 わかっている範囲でいいますと、リスボンからドラードたちに同行した
イタリア人でジョヴァンニ・バプティスタ・ペスティエという修道士がい
ます。ローマで印刷修行をした経歴をかわれて助っ人として加わったと思
われます。1556年生まれで、ドラードより10歳年上です。

 おそらくゴアやマカオでドラードたちがおっかなびっくりで「印刷」に
取り組んだとき、リーダー役をつとめたのが彼でしょう。「印刷係」とし
て加津佐・天草・長崎と印刷所が移転してもイエズス会の名簿に彼の名が
掲載されていますから印刷部門の責任者で通したのかも知れません。
1614年、ドラードと同じ船でマカオに追放されましたが、『日本小文
典』の印刷で腕を振るったり、生涯、ドラードを助け、ドラードを見送っ
てから1626年に亡くなっています。

 加津佐でキリシタン版の印刷が始まった頃に印刷担当になっていた人も
見られますいたと思われます。セミナリヨの教育科目に「印刷術」や「銅
版画彫刻」・「木版字彫刻」などもありましたから印刷技術者養成も出来
たはずです。

 そのひとりとして名前が残っているのは、ペドロ・竹庵、口之津生ま
れで1592年の名簿に「日本文字の印刷係」とあります。『どちりいな・
きりしたん』の出た翌年ですから、国字づくりに苦労したかもしれません。
彼もマカオに追放されましたからキリシタン版と終始付き合ったくちです。

 あとひとり、ミゲル・いちくという人がいます。1561年諫早生まれ
で有馬のセミナリヨから天草のコレジヨに学んでいます。ローマ字と国字
の漢字鋳造に従事していたようです。


 
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キリシタン版と印刷人の謎 1

2011-07-17 11:12:10 | 活版印刷のふるさと紀行
 コンスタンチノ・ドラードの周辺にいた印刷人については、いろいろ調べ
ましたが、はっきりしている人が少ないのは残念です。これもキリシタン弾
圧であらゆる記録が抹殺されたからです。

 さて、印刷人ですが、1582年ドラードといっしょに天正少年使節の随
行者としてイグナシオ・デ・リマ船長の定航船に乗ったときは、アグステイ
ニョというほぼ同年輩の少年がいました。
 彼もヴァリニャーノによって最初から、活版印刷術習得を目的に使節に
同行させるべくドラードとともに選出されておりました。

 いわば「印刷要員」としてのこの二人でしたが、私はアグステイニョの方
がドラードよりも印刷実習はたくさんこなして来たのではないかと思います。
 なぜなら、ドラードはポルトガル語やイタリア語が出来たので、なにかと
いうと使節たちの「通訳」に引っ張り出されてたからです。

 それを見かねて4人の使節の面倒をみる立場で随行した修道士ジョルジュ・
ロヨラが「印刷」を学ぶメンバー入りをしました。年長のせいもあって、ロ
ヨラは字母製造などの飲みこみも早く、帰途のゴアやマカオでの印刷作業で
はおおいに力を発揮しました。しかし、1589年マカオ滞在中に病死して
しまい帰国後のキリシタン版の印刷にはかかわることが出来ませんでした。

 私は病死したロヨラは別にして、ドラードとアグスティニョの二人だけで
キリシタン版の印刷が出来たなどとは思いません。
 彼らが行く先々で見せられた印刷物は手彩色のイラスト入りの聖書が多く、
活字主体の聖人伝や教義書は少なかったはずです。なぜなら、「この東洋の
少年にはきれいで大判なものをみせてびっくりさせてやろう」と、見せる側
が気を遣ったからです。

 それならば、ドラードたちが日本に帰りついてすぐにキリシタン版を印刷
できたのはなぜでしょうか。

 
 
 
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徳川家康と「印刷」

2011-07-15 22:46:21 | 活版印刷のふるさと紀行
 五島の福江島や長崎を歩いていますと、あちこちで殉教遺跡にめぐりあって
キリシタン弾圧のすざまじさに心が痛みます。
 秀吉にはじまって、家康、そしていちばんひどかったのは、綱吉あたりから
むしろ明治に近づいてからです。

 いずれにしても天正時代にグーテンベルグ直系の金属活字を使った「活版印
刷術」がもちこまれたのにかかわらず邪教の魔術扱いを受けて、放擲されたの
は残念なことです。
 しかし、秀吉が李朝活字で、家康が駿河版活字で印刷史に登場してくるのは、
彼らふたりとも印刷になみなみならぬ関心を寄せていたのだ、本当に彼らが西
洋式印刷を葬った張本人だったとは思えません。

 とくに、私は、こと印刷に関しては家康びいきです。
 李朝活字というと、秀吉を連想しますが、家康も李朝活字で印刷された美しい
「朝鮮本」に心奪われていました。
 その証拠に関ヶ原や大坂の陣で降参した西軍の将たちからせっせと朝鮮本を
献上させました。

 名古屋の徳川美術館の隣にあります「蓬左文庫」には、家康の蔵書が保管さ
れております。いわゆる「駿河御譲本(おゆずりぼん)」ですが、その中に、
1500点近くの「朝鮮本」があります。
 『四書五経』をはじめ、李朝活字で印刷された「朝鮮本」です。

 こう書きますと、家康の活字への関心が関ヶ原以降みたいに思われそうです
が、京都伏見で伏見版木活字で『孔子家語』を出版させたのは、関ケ原の前年
でした。『貞観政要』10巻8冊が出版されたのが、関ケ原の年でした。

 家康はこの伏見版木活字から銅活字へと発展させるのですが、彼の寿命がも
う少しあれば、もっと明確に彼の印刷・出版に寄せた計画を知ることができた
のにと残念に思います。

  
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五島の堂崎教会にて

2011-07-12 17:35:55 | 活版印刷のふるさと紀行
 教会の前で食べ物の話は不謹慎と承知はしていますが五島牛の味は
松阪にひけはとりません。炉端で焼いた串焼きに五島の柚子胡椒をつけて
頬張ると思わず「シアワセ」。

 五島にもカラスが朝早く道路に群れていて、こちらはややガッカリ。
五島列島の教会めぐりは人気ツアーのひとつですが、堂崎教会でイルマン・
ロレンソの布教の種まき時代から弾圧時代、そしてこの教会ができた明治の
復活時代まで五島のキリシタンの歩みを資料館でひも解くのは勉強になりま
す。

 明治6年の解禁からわずか4年後に神父が常駐するようになり、隠れキリ
シタンがこぞって信仰を復活させた島、最初に教会を建てたマルマン神父、
いまもゴチックの天主堂の荘厳さを伝えてくれる明治12年にペルー神父が
手がけた教会建築。この水辺の教会はまだ我々が知らない歴史を秘めていそ
うです。

 堂崎教会は『日本26聖人に捧げられた教会』でもあります。
二十六聖人のひとりに、この五島出身でドラードや四人の少年使節よりも
10年ほどあとに生まれた聖ヨハネ五島がおります。小さいうちに長崎に出て
セミナリヨに入り、志岐のセミナリヨでも学んでいます。志岐は工芸科目が
多かったので、あるいは美術や印刷を履修していたかもしれません。

 不幸にして19歳で大坂でとらえられ、あの二十六人のひとりとして、長崎
まで800キロ、33日間、真冬の行軍を強いられます。多分、とちゅうで耳を
そがれたはずです。西坂で処刑されたのは1597年2月5日ですから、秀吉が
亡くなる1年前、まだ、かろうじてキリシタン版が長崎で印刷されていたころ
です。
 
 堂崎に聖ヨハネ五島の十字架にくくりつけられた像がありますが、19歳と
いう若さのせいか彼の歩んだ道がつまびらかでないのは残念です。






 

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