活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

著作と「参考文献」の話(2)

2011-02-26 10:33:41 | 活版印刷のふるさと紀行
 私が気になったことというのは、村木嵐さんの『マルガリータ』に登場する千々石ミゲルの妻「たま」、その「たま」という名前にありました。

 千々石ミゲルには妻がいたかどうかはっきりしません。彼は司祭にはなれませんでしたが修道士です。カトリックでは妻帯は許されません。しかし、村木さんの『マルガリータ』にも私の『千々石ミゲル』にも妻が登場します。村木さんは「たま」、私は「おたま」という
名前でミゲルの妻を登場させています。小説ですから。

 私はミゲルが使節の旅から帰国して秀吉に会いに行く途中、室津の宿舎でおたまと出会った設定にしています。おたまの名前は母方の伯母の名前の「たま」を借用しました。村木さんは幼馴染に仕立てていらっしゃいます。
 
 実は、長崎で大石一久さんが千々石ミゲルの墓を発見されたというニュースが新聞を飾った朝、偶然、私は長崎の諫早におりました。ミゲルの生地を訪ねたりもしましたし、大石さんが墓石を発見された伊木力周辺も歩きました。大石さんの『千々石ミゲルの墓石発見』(長崎文献社)も読ませていただきました。

 ですから、大石さんの著作を「参考文献」にあげております。
 恐らく村木さんも大石さんの発見された墓石の建立者玄蕃が『マルガリータ』の結の章に出て来ますから大石さんの著作の千々石家の系図をご覧になっていることでしょう。

 執筆の参考にした本は参考文献にあげてあったほうがいいのにと私は気にした次第です。
 

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

著作と「参考文献」の話(1)

2011-02-25 11:36:21 | 活版印刷のふるさと紀行
 印刷と直接の関係がありませんが、「寄り道」をさせてください。
 小説類には少ないのですが学術関係の本やノンフィクションものの本には巻末近くに≪参考文献≫が列記されているのが普通です。

 参考文献までいかなくとも私のところにも「あなたのコレコレの本からこの個所を引用させていただきたい」という断わりの連絡が入ることがあります。いちいち断わるのは面倒でも著作者としてのエチケットです。また、読者にとっては≪参考文献≫が参考になる余禄さえあります。

 村木嵐さんという大型新人作家がおられます。『マルガリータ』という作品で第17回松本清張賞を受賞され、昨年6月に文芸春秋から大型新人の誕生!という帯つきで出版され、書評でも好評を博されました。

 その帯に「ミゲルの苦悩の生涯を妻「珠」(たま)の目から描く傑作」とか、「千々石ミゲルは、なぜ背教者となったのか?」とありました。

 私が飛びつくようにして求めたのは当然です。私自身三年前に朝文社から『天正少年使節千々石ミゲル』を刊行しているからです。背教者とされたミゲルの謎、ミゲルの苦悩、題材がまったく同じでしたから。
 たしかに『マルガリータ』は力作でした。
 千々石にルビを振るべきだったと担当者ともども後で歎いた自著にくらべて『マルガリータ』、そしてちゃんと千々石にルビが振ってある。サスガと感心しながら読み進みました。

 ただ、ひとつだけ気になったことがありました。 それについては次回。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿辻哲次先生の「印刷字形と手書き字形の話」

2011-02-24 10:44:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 阿辻哲次著『戦後日本漢字史』(新潮選書)、年末に求めて積んでおいた本をようやく読み上げました。おもしろかったなどというと叱られそうですが。

 たとえば、常用漢字表の制定についての章の「印刷字形と手書き字形」という項目のところで、はからずも私は小学校のときのN君を思い出してしまいました。
 彼はいつも先生に「君の字は字じゃない、ミミズの絵だ」とからかわれていました。一念発起した彼は新聞・雑誌の「活字体」ソックリの字をマスターしたのです。のちに高校教師になりましたが黒板にも活字体で書いたにちがいありません。なにぶん、彼には「明朝体」の活字体でしか手書き文字が書けないのですから。

 話を阿辻先生の本に戻して、先生は「教科書や辞書に印刷されているのが「正しい字形である」と教え込む学校や塾の先生が多いので、子どももついついテストの答案をその通りに書かねばならないと思い込んでいる。とんでもない間違いだ」と指摘されます。

 漢字には3千年の歴史があり、手書きの時代が長かった。版木から金属活字へと時代は変わっても中国でも日本でも印刷物にある通りに漢字をことなんかなかった。印刷は印刷、手書きは手書き、先生は漢字を読み書きする者はそれを当然のことと識別していたとおっしゃっています。なのに、≪女はツノを出さない≫といって、小・中学校で女という字の二画目の「ノ」と三画目の横線が交わって上に飛び出すとバツという教師すらいるらしいですが常用漢字表にある通り「筆写の楷書ではいろいろな書き方があるもの」だからどちらでもいいのにと歎いておられます。

 N君が印刷字形をマスターしたとき、小学校の先生はほめませんでした。昔の話ではありますが、あの先生は「手書きは手書き」を信奉していらしたのかなと思った次第です。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印刷産業と統計数字

2011-02-23 15:26:53 | 活版印刷のふるさと紀行
 大げさなタイトルになってしまいました。 そのわけはこうです。
 昨日、後楽園の中華飯店で三時間も話し込んでしまいました。一人は文京区内の印刷会社の社長さん、もう一人は大学の先生、もう一人かくいう私の三人組でした。

 おおげさな話のきっかけは最近の学生の就職難の話題からでした。「印刷業界もひところにくらべて採用人数を絞り込んでいるものなあ」ご多分に洩れず競争がきびしくて、利益がでない、設備投資も切り詰め、社員数も抑えなくてはならないと社長さんの経営環境談義がつづきました。

 製造業では5本の指に入る規模を持つ日本の印刷産業ですが、売上高は約7兆円で前年比で3.3パーセント減、事業所数は約3万社で9.5パーセント減、したがって従業員数も約35万4千人で前年比4パーセントちょっと減っているというのです。業界全体で売上17兆円とか最低でも12兆を目指していたころから見ると「斜陽化」といわざるを得ないでしょうか。

 でも、これはあくまで工業統計の数字であって実態に即していないというのが三人の共通意見でした。というのは、印刷産業の中でもエレクトロニクスのような分野の数字が入っていない、いわゆるオフセット印刷のようなプリンティングそのものに統計数字が限定されすぎで、いっぱいオチがあるというのです。

 さらに前日の日経の朝刊第2部に掲載された2012年春卒業予定の大学3年生の就職希望調査のランキングに話が及びました。総合ランキングで東京海上日動火災保険がトップ、
日本生命が2位、3位が三菱東京UFG銀行というあれです。ベスト100までの中に、印刷会社では大日本が22位、凸版が39位で入っていましたが他にはありません。

 「おそらくこの2社は社名に『印刷』とあっても、印刷会社と受け止められていないのじゃないか」新しい領域に乗り出している印刷会社はほかにもたくさんある。印刷産業連合会が事業目的の一つにかかげている業界のPRが足りないのではないか、いや、もういい加減≪黒子産業≫や≪その他製造≫の既成枠からだっしないと…カンカンガクガクはつづきました。統計数字よりも、ほしいのは実際の数字だよ。ごもっとも。


 



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印刷とアートの世界-遠藤 享さん②

2011-02-21 09:59:58 | 活版印刷のふるさと紀行
 遠藤さんの映像をまじえたレクチュアーは熱を帯び、塾生はますます惹きこまれて行きました。それもそのはず、制作を進められる上での気迫が珠玉の体験談としてそのまま伝わってくるからです。
 スケッチというかデッサンというか、まず鉛筆で精密な作品構想をディテールまで納得いくまで描きあげ、撮影に取り組み、つぎにコンピュータで写真加工にかかる。遠藤さんがご自分のイメージを表現する上での戦いは、苦しみであり、出会いであり、いつも新鮮な発見を伴なったと振りかえられるのでした。

 それと驚きは作品ジャンルの広さです。よく存じ上げている私たちの感性に訴えかけてくる繊細で感覚的な作品ばかりでなく、「ネオンサイン」のような作品に及んでいるとうかがって驚きました。実は銀座や新宿でいつも見かけていたオリンパスのネオンが遠藤さんの手になったものとは迂闊にも私は知りませんでした。その最初の構想スケッチを見せていただいてまたまた驚きでした。こちらは緻密な数学抜きでは無理なものでした。
 ネオンと隣りあってさらに緻密さを要求されたであろうものに劇場の大緞帳がありました。糸の「織り」と遠藤さんがコンピュータでつくった「原画」のコラボレーション、一体遠藤さんの創作力はどうなっているのだろうと息を飲んでしまうほどでした。

 コラボレーションといえば、遠藤さんの作品に啓示を受けて、ぜひ、私とコラボレーションをさせてほしいマケドニアやブルガリアの音楽家から申し入れがあってそれも快諾されたといいいます。そのマケドニアの作品を視聴させてもらいました。印刷をスタート点にした版画と音楽とが綾なすアートの世界。 遠藤さんの表現対象のひろがりは無限のようです。
 
 レクチュアーが終わって懇親パーティのとき、私は思い切って質問しました。
 「例の無人島に持ってゆく1冊の本ではないですが、もし、遠藤さんがご自分の作品の中から1点だけもっていくとしたら」 答えは「そんなこと考えたこともないし、1点に絞ることなんかできません」。そうです。バカな質問でした。
 「私はまだこれからだと思っております」。遠藤さんは、こうおっしゃいました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印刷とアートの世界-遠藤享さん①

2011-02-20 16:35:30 | 活版印刷のふるさと紀行
 昨晩、印刷博物館で神田川大曲塾の第21回印刷文化研究会がありました。
 定刻の1時間以上前に講師の遠藤享(すすむ)さんが自らハンドルをにぎってオフセットリソグラフなど作品資料のかずかずをのせて会場に来ていただけました。

 ご承知の方が多いのであらためてご紹介するまでもありませんが、遠藤さんはグラフィックデザイナーであり、コンピュータを駆使したデジタル版画家として、日本を代表するアーティストであります。ドイツ、ユーゴ、ブルガリア、フィンランドなど世界各国で受賞され、その作品が収蔵されているのは大英博物館、サンパウロ美術館をはじめ、インド、ノルウェー、ロシアなどであり、国内では文化庁、京都国立美術館はじめ各地の県立美術館で数は数えきれません。1999年には紫綬褒章も受けておられます。

 その遠藤さんが最初に私たちに示してくださったのは、武蔵美や桑沢時代に自分で写真を撮り、自分で多重露光をさせたり、大変な時間と労力をかけて制作された作品でした。おそらく版画アートと印刷は切り離せない、作品上でのイメージ追求には印刷の知識、製版技術が欠かせないという思いが若い遠藤さんを駆り立てたのでしょう。「私にとって、アナログが出発点になったし、基本になっていることはよかったと思う」と述懐されたのも当時を想起してのこととおもわれました。

 また、よく知られ世界各国から注目されている自然の茂みを原テーマにした一連のオフセットリソ作品が東京生まれでありながら、山梨や北海道で育った環境がおのずと森や林に自分が惹きこまれ、おのずとエコの作品につながったと笑っておられました。
 どっこい、遠藤さんはカメラを担いで素材探しにかけまわり、撮影して、ご自分でコンピュータで処理加工されていることは百も承知です。「コンピュータに強い息子がいてしあわせでした」その辺のさりげない話もいかにもお人柄そのままで聞いていてうれしくなりました。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紙幣の印刷と銅版画

2011-02-18 10:41:29 | 活版印刷のふるさと紀行
キヨッソーネが浮世絵を蒐集した話を書きました。彼は明治新政府がうしろについていますからちゃんとした筋から入手したにちがいありませんが、そのころはまだ、絵草子屋があって店頭に浮世絵をつみあげたり、吊るしたりしていましたから、そういうところでも出物を探したかもしれません。
 
 江戸時代、京都には京名所を題材にした銅版画がありました。司馬江漢の江戸の銅版画よりもサイズが小さく質も良くありませんでしたがよく売れたといいます。そのせいか、上方には銅版画彫刻師が明治になってもいました。

 キヨッソーネの来日以前の明治初年に「太政官札」という「藩札」とちがって日本で初めて全国で通用する政府発行の紙幣が出ました。それは十両・5両・一両・一分・一朱と、まだ円ではありませんでした。両が円になったのは1871年、明治7年、明治通宝からでした。太政官札のデザインや印刷が上方でされたのは、上方に銅版の彫刻や印刷技術者が多かったせいでしょうか。

 紙幣の印刷史に詳しくないので調べる必要がありますが、太政官札は5種類だけで少額紙幣がなく不便なのでその後「民部省札」が出されたり、銅版だと贋札が多くなり、偽造が防げてもっと高級な印刷を求めてドイツに発注したのがゲルマン紙幣と呼ばれた「明治通宝」でした。しかし、この明治通宝も額面が違っても札のサイズが同じだったり、洋紙で傷みやすいという欠陥が出て、それがキヨッソーネ招聘と紙幣印刷の技術向上へつながったといえましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キヨッソーネの技術が受け継がれた

2011-02-17 17:51:57 | 活版印刷のふるさと紀行
 キヨッソーネは日本の来たとき既に「不惑」を通り過ぎた年齢でした。しかし、少しも大成した感じを与えないばかりか、銅版彫刻家としても油絵画家としても名の通ったアーティストでありながら、まだまだ青年のように創作意欲をみなぎらせていました。

 そして、みるみるうちに日本の古美術に傾倒していきました。
自分が日本政府に求められている紙幣のデザインには日本の風土がもたらしている美のエッセンスを盛り込みたい、それには伝統的な日本美術をうんと調査、研究しなくてはと考えたようです。それと、もうひとつ、自分の手もとに日本の優れたアートを置いて、つねにそれに触れていたい、眺めていたいという欲望がありました。

 来日数年後でしたか、大蔵省の後援もあって150日もの古美術探査の旅に出たのもその表れです。京都とか奈良、日光のように寺社があって美術品の収蔵が多い土地、岐阜や諏訪のような当時は交通不便な土地にも足をのばしました。正倉院の御物も拝観しました。

 その日本美術を求めての遍歴で彼は自分のコレクションもものにしました。大蔵省から入る高給がおおいに役だったのでしょう。
 たとえば浮世絵を例にとっても、菱川師宣のような大先達から、明治の河鍋暁斎にいたるまで浮世絵のすべてがわかるコレクションを手にしました。
 この彼のコレクションはイタリアのジェノヴァの東洋美術館の呼びものになっていますが、20年ほど前、たしか「里帰り展」があったと思います。

 とにかくキヨッソーネがもたらした原画の作成から製版・印刷技法が日本の金券・証券印刷に与えた影響の大きさははかりしれません。
 また、その優れた技術が本家の大蔵省印刷局にはもちろんのこと、凸版印刷株式会社に脈々と受け継がれてています。
 写真は銅版画で表現された岩倉具視(左)と三條實美です。そのほか明治天皇、昭憲皇太后、大久保利通、木戸考允、皇室から政財界の大物までキヨッソーネの描いた肖像画を見ただけで、彼が受けていた信望の深さがわかりますね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キヨッソーネは日本の「お札」をつくった

2011-02-16 11:28:02 | 活版印刷のふるさと紀行
 お雇い外国人として来日した外国人にはイギリス人、フランス人、ドイツ人、アメリカ人の技術者、教師がもっとも多かったようです。それにくらべてイタリアから来たお雇い外国人は少なかったのですが、このキヨッソーネはじめ画家とか彫刻家、建築家などと、どちらかといいいますと芸術畑の人でした。画家の多かったのは明治9年に開校された工部省所管の美術学校で「西洋画法」の習得や研究を進めさせる政府のねらいがあったせいかもしれません。

 キヨッソーネは三年契約どころか明治8年から亡くなった1898年、明治31年まで23年間も日本に滞在して数々の仕事を残しました。
 なかでも紙幣・切手・印紙・公正証書などの製造の近代化と技術者の養成に大きな力を発揮しました。たとえば、それまで日本の紙幣の製版は「腐食法」を採用していましたから、どうしてもシャープさに欠けました。キヨッソーネは銅版や鋼版にビュランと呼ばれる彫刻刀で図柄を彫刻するエングレービング技法をとりました。
 もっともこの技法は取り立てて新しいものではなく、1596年にいまの長崎県有家のセミナリヨでつくられ大浦天主堂にある『聖アンナと聖母子』の銅版画に見られるように200年も前に
日本にもたらされていながら開花していなかったものです。

 また、切手や印紙、証券の製版にはエルヘート凸版技法を採用したり、クラxッチ法と電胎法導入で偽造が防止でき、大量生産に向いていながら精度の高い製造法を駆使しました。

 彼の来日直後、最初に腕を振るったのが国立銀行紙幣、「交換銀行紙幣」の1円券、明治12年です。
 写真は上から「神功皇后札」と呼ばれた改造紙幣拾円券日本銀行兌換銀行、日本銀行兌換銀券百円券「大黒札」同じく一円券です。 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エドアルド・キヨッソーネと日本の印刷

2011-02-15 15:03:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 この人だーれ?この肖像写真だけで即答できる人は印刷業界でもあまりいないかもしれません。エドアルド・キヨッソーネ、日本で亡くなって103年になる日本の印刷界の大恩人ですが、
その割に登場機会が少ないような気がしてなりません。

 私はあまり好きではない表現ですが、わかりやすくいえば、明治の「お雇い外国人」のひとりです。イタリアのジェノヴァ近郊のアレンファーノという小村で生まれた彼がジェノヴァからフィレンツェで美術を学び、ミラノの大学で教鞭をとったりしました。また、その後、ドイツにイタリア王国国立銀行の紙幣印刷のための技術習得に派遣されたりもしました。

 「本日ヨリ満三ヶ年間月給英貨百磅(ポンド)即日本通貨四百五十四円七十一銭八厘ニテ大蔵省紙幣寮御雇トナル」という辞令で日本の紙幣づくりの総本山に招かれたのが、1875年、明治8年1月12日でした。明治8年の454円がいったい今の貨幣価値でいくらになるのかは、はっきりしませんが、7千倍ぐらいと考えると317万円、実際は400万円ぐらいが妥当ではないでしょうか。当時のお雇い外国人の月給としては中どころでしょう。

 近代国家としてヨチヨチ歩きを始めたばかりの日本の大蔵省がキヨッソーネと縁ができたのは彼がフランクフルトの紙幣製造会社ドンドルフ社に派遣されていたときに、日本政府発注の新紙幣、いわゆるゲルマン紙幣の印刷に携わったことによるといわれております。これは明治5年のことですから、彼の来日した明治8年まで間がありますが、その間、彼は英国に移り、ロンドンのデラルー証券印刷会社で彫刻製版技術に磨きをかけていたらしいのです。

 キヨッソーネの日本での活躍については次回。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする