活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

なんと摺器械とは印刷機のこと

2010-10-31 10:30:18 | 活版印刷のふるさと紀行
 明治の5,6年ごろは、印刷機とはいわずに「摺器械」とか「摺立器械」と呼んでいたらしいのです。

 改暦に関する印刷物を太政官から山ほど委託される、徴兵令の実施で「徴兵告諭」の印刷が次々に舞い込む、徹夜続きの毎日の忙しさを緩和するために神田から築地に移った平野富二の悩みはこの摺器械の調達にありました。自社ばかりでなく同業他社も同じでした。

 こうして「築地の平野の活字」の評判が定着し始めた中で、摺器械、印刷機の製造に富二の目は向けられます。彼が最初に印刷機を製造したのは広告などから明治6年だろうとされていますが明治12年の活字見本帳には手引印刷機、フート印刷機、シリンダー印刷機の3種類が勢ぞろいしています。

 明治12年といえば、明治9年に創業した石川島平野造船所内においた平野活版製造所印刷機械部で印刷機械は製造されておりました。
 写真はミズノプリンティングミュージアムにあるアルビオン型の手引印刷機でマルに
Hマークがついていて、機械遺産の指定を受けております。

 
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平野富二の印刷機

2010-10-30 10:34:11 | 活版印刷のふるさと紀行



 ミズノプリンティング・ミュージアムで写真を撮らせていただいたときに、ブショウを決め込んでローラーを乗っけたままシャッターを切ってしまいました。
 おゆるしください。

 こういうかわいらしい手金、ベビー印刷機にあこがれている人は多いはずです。もちろんツー・ミーです。もうすぐ賀状のシーズンですが、友人の何人かは手金で活版印刷
にチャレンジしているはずです。

 平野富二は根っからの技術者でした。だから、「印刷」に首を突っ込んだときから
活字以上に印刷機の製造に興味があった、この手金のマルにHのマークに彼の誇りや
自信を感じます。
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平野富二東京へ

2010-10-25 16:59:27 | 活版印刷のふるさと紀行
 明治5年7月11日、富二は新妻こまと横浜に向かう蒸気船の甲板からだんだん遠くなる長崎の岬を見ていました。いよいよです。前年、下調べでのちの大蔵省印刷局にあたる「太政官左院活字課」、横浜毎日新聞社、東京蔵田活版所、日就社などに2千円ほど活字を売り込んだ手ごたえから富二は活字販売についての不安はありませんでした。むしろ、上京してからの暮らしを案じているらしいこまの気を引き立たせるのに気を遣わねばなりませんでした。

 岬が見えなくなると、2人で船室に降りて行って同行の八名の社員たちといっしょになり、富二は横浜や東京について面白おかしく話するのでした。神戸に二泊して横浜に着いたのは5日目でした。このとき横浜までの船は記録によると、外国船籍の「飛脚船」と呼ばれている当時いちばん早い船足とされる船でした。

 横浜から東京まではまだ鉄道が開通前でしたから、横浜・東京間もおそらく船を使ったとおもわれます。五号と二号の活字と字母、鋳型、活字の鋳込み機械3台、なかなか
の大荷物でした。

 神田佐久間町に掲げた看板は「長崎新塾出張活版製造所」でした。営業は最初のうちは悪戦苦闘でした。そこで思いついたのは、船乗り時代の知り合いで埼玉県令、いまの知事に当たる野村宗七の存在でした。知己とはありがたいもの、野村が地方行政府としては国内最初に布告類を活版印刷に切りかえてくれました。
 それを皮切りに前に書いたように「時の利」が味方するようになるのでした。
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本木昌造という人2

2010-10-25 11:35:38 | 活版印刷のふるさと紀行
 


 写真は明治5年の『崎陽新塾活字製造所』、(新町活版所ともいう)の活字見本です。


本木昌造はよくいえば探究心、悪く言えばやたら好奇心の強い人だったようです。
新米通詞のころ輸入蘭書にからんで、8か月ちょっと入牢させられるような目にもあっています。

 話は少しそれますが、今年はNHKの連続ドラマのせいで坂本龍馬ブームです。昨晩は土佐藩の切れ者後藤象二郎と海援隊の龍馬が土佐藩の持ち船夕顔で大阪に向かう船中八策のシーンでした。

 実は、その夕顔に1等機関士こそ誰あろう本木昌造の一番弟子ともいうべき平野富二でした。平野は龍馬に操船の腕を見込まれていたのです。慶応3年の6月のことです。
京都近江屋で龍馬が中岡慎太郎とともに凶刃にたおれたとき、富二は長崎にいましたが、はたしてどんな心境でしたでしょうか。

 翌年慶応4年、江戸城明け渡し、本木は長崎製鉄所の所長になり、平野富二を小菅修船所所長に任じます。船乗りから陸にあがり、造船に転向した平野は翌年、長崎県権大属として県知事を補佐するいっぽう、本木のあとを受けて長崎製鉄所所長になります。
まさに、異例の出世です。

 このときの本木に対する恩義が平野が本木の懇請を受けて長崎新塾活版所の事業を継承する決心を生むことになったのでしょう。

 
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本木昌造という人1

2010-10-24 12:15:03 | 活版印刷のふるさと紀行
 八丈島漂流が平野富二と「印刷」を結びつけたといいました。と、したらそのきっかけを作った本木昌造という人をもう少し知りたい気がします。

 本木昌造はひとことでいえば「発展家」でした。代々、オランダ通詞の筆頭格の本木昌左衛門の養子になったのが12歳のとき、長崎奉行所の通詞としてもなかなかの大仕事をしています。ペリー再来航の安政元年は命じられて江戸へ出張、和親条約の作成に携わりましたし、ロシアのプチャーチン来日のときも通訳として、あるいは破損したプチャーチンディアナ号の代船の建造にも手を貸しました。

 土佐藩主山内容堂に海外事情をレクチュアしたり、蒸気船の模型で驚かせたりしましたが、蘭学に通じ、技術者としても一流でした。だからこそ、安政2年長崎海軍伝習所の開設とともに伝習掛として活躍し、万延元年には長崎製鉄所の御用掛に任じられ、チャールス号やヴイクトリア号の船長も兼ねることになったのです。

 そのかたわら、彼は若い時から西欧の活版印刷、とくに金属活字の開発に打ち込み
26歳の時に日本で初めて鉛製の流し込み活字の製造に成功しています。

 順風満帆だったからでしょうか、女性にも積極的でした。八丈島の130日間にも島の娘とねんごろになり、子供を作っていますし、丸山でよく遊び、妻以外にも2人の女性がいたといいます。
 


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平野富二を印刷に結びつけた八丈島漂流

2010-10-23 16:03:09 | 活版印刷のふるさと紀行


 本木昌造が長崎で築き上げた長崎新塾活版製造所の全事業を平野富二に託したのは、いつ、平野のどこに、目をつけたからでしようか。
 
 時は元治元年9月、長崎製鉄所のヴィクトリア号(長崎丸1号)が強風と波浪に船体をきしませ、八丈小島の沖合を漂流していました。その船長が本木昌造、機関士が平野富二でした。貴重な蒸気船と50余名の乗組員の命を預かる2人が危機脱出にどれほど協力しあったかわかりません。

 船が海の藻屑になってしまう直前にかろうじて全員が島民の助けで八丈本島に上陸することができて、迎えの船が来るまで130日間、ふたりは不安がる乗組員を束ねて、八丈で共同生活を送ることになったのです。

 囚人船しか船便のない絶海の孤島の生活のなかでふたりがお互いをとことん知ることができたことはいうまでもありません。とくに本木は22歳年下の平野の思慮深さ、行動力、人をまとめる能力に舌を巻きました。「この男は使える」その時、本木は確信したのです。本木が活版製造事業を平野に託す8年前のことでした。
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平野富二と本木昌造

2010-10-23 11:16:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 エライ人が銅像になるのか、銅像になっているからエライのか。いずれにしても洋の東西を問わずエライ人を顕彰するには何をおいても銅像が相場のようです。
 本木昌造もあっちこっちに銅像がありますから当然エライのです。大阪の四天王寺で陣笠、陣羽織に大小をたばさんだ像に接したときは多少、田吾作めいた好々爺をイメージしましたが、この戦災で焼失したというブロンズは写真で見る限りさすがにエラそうです。

 平野富二の生涯がこの本木昌造によって決められたことは否めません。
桐生裕三さんに『活字よ、』-本木昌造の生涯-という力作があります(印刷学会出版部)。
 オランダ通詞の昌造が丸山遊郭に遊ぶところからはじまって、正月の凧揚げの日に子供の時から好きだったおようという娘が小さな男の子を連れて凧を見ているところにぶつかる光景に続きます。その子が富次郎という名で、幼いときの平野富二を連想させますが、これはあくまで小説。



 実際に平野富二が本木に出会った最初は12歳からの「隠密方御用番」ら長崎製鉄所の機関手見習いを藩から仰せつかって、彼が製鉄所に行くようになったときだったでしょう。文久元年のことです。

 長崎海軍伝習所が急に閉鎖されたために、伝習所の役割を引き継いだ長崎製鉄所が蒸気船のエンジニアを養成することになり、その要員に選ばれたのです。その時、本木昌造はその長崎製鉄所の御用掛りでしたから、これが二人を結びつける運命的出会いでした。
  
                       
                       
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平野富二と会う

2010-10-22 15:57:06 | 活版印刷のふるさと紀行
 平野富二と会うといったって明治25年(1892)12月2日に亡くなっている人です。
今年の夏の暑さは格別でしたが、やむなく、谷中霊園の乙11号14側まで行ってきました。私がこの前来たのは2002年の12月1日でした。
 その日は平野富二没後百十年記念祭と銘打たれていましたが、実は長崎の禅林寺の無縁塔から発見された「平野富二碑」をこの谷中のお墓の隣に移す移築除幕式でもありました。

 なんと、平野の生母である矢次美祢が自分よりも早く逝ったわが子を悼んで建てた追悼碑がわずか百年で無縁塔になってしまうとは不思議なきがしましたが、心なしか列席者のみなさんが、氷雨の降る中でほっとしておられたことを覚えております。


 ところで、なぜ、墓碑を斜めに撮ったかといいますと、よく見ていただくと画面右手に建築中のスカイ・ツリーが写っております。
 ものづくりに一生を捧げた平野富二です。ひょっとして毎日工事の進捗具合を気にしているのではと思ったからです。冗談はとにかく、これからぽつぽつと、平野の生涯を「活字」や「印刷」をメインにおきながら書いていきたいと思います。あっち、こっちすることはお許しください。

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福澤諭吉のベストセラー

2010-10-17 16:40:48 | 活版印刷のふるさと紀行


 平野富二が築地に活版製造所を移したのが明治6年、明治5年の神田時代もあったわけですから、文明開化の尖兵であった諭吉なら、彼のベストセラーはこれまた、文明開化の最先端、活版印刷の所産、たとえ築地産活字でなくとも、そう考えたかったのですが、あにはからんやでした。

 改暦の啓蒙書『改暦弁』(左)、あまりにも有名な『学問ノススメ』(右)も鉛活字をつかった活版印刷ではありませんでした。明治6年1月に出た『改暦弁』は400万部を数えたといいますが、日本の人口が4000万に満たない時代
のことですからオドロキです。
 オドロキといえば『改暦弁』の中での福澤諭吉の「馬鹿者」呼ばわりには驚かされました。

「日本国中の人民此の改暦を怪しむ人は必ず無知文盲の馬鹿者たり、これを怪しまざる者は平生学問の心掛けある知者なり」太陰暦と太陽暦の弁別という項で実に大胆で断定をしています。さらに続けて、改暦を信じるか、信じないかで日本国中の知恵者と馬鹿者の区別がつくというのですから痛快ですらあります。

 脱線したようです。『改暦弁』は明治6年1月1日発行で版元は慶応義塾、木活字本でした。いっぽう明治5年2月に
小幡篤次郎(慶応2年から4年まで慶応義塾の塾長だった中津出身の洋学者)と共著で初編が出て明治8年11月の第17編で完結した『学問ノススメ』には奥付がなく、印行名は不明です。
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福澤諭吉の蘭学塾と印刷

2010-10-15 11:33:23 | 活版印刷のふるさと紀行


平野富二が築地へ移ってくる14年前、同じ築地の中津藩奥平家の鉄砲洲中屋敷の長屋の一軒で蘭学塾が開塾されました。それが慶応義塾の発祥で塾長は福澤諭吉その人でした。聖路加国際病院の一角にこの記念碑が建てられ除幕式が行われたのは100周年の昭和33年の4月23日でした。

 台座の上には“天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず”と『学問のすすめ』の冒頭の言葉が刻まれています。
父の百助が中津で身分制度で縛られていた無念さを目の当たりにしていた諭吉の「門閥制度は親のかたきでござる」という悔しさがにじみ出ているようにも思えます。

 塾生は慶応4年に芝の有馬家中屋敷に移って「慶応義塾」の看板を掲げたときに300名を越えていたといいます。
福澤諭吉は早くから鉛の活字を使う活版印刷に着目しておりました。
 蘭学塾時代は教科書は木版でしたが、義塾になってから木版では間に合わなくなって、自身で活版印刷機を調達してきて教科書の印刷を活版に切り替えたというエピソードも残っています。
          
                    
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