活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

どうして消えたかキリシタン版印刷

2007-12-17 11:36:02 | 活版印刷のふるさと紀行
 印刷機の謎、国字活字鋳造の謎、キリシタン版に関する謎を数え上げれば、キリがありません。

 さらに、もっと根本的な疑問もあります。それは、キリシタン版印刷ががなぜ、わずか20年、なんと短命であったかということです。

 ヴァリニャーノ時代は秀吉の側近でもあった高山右近だとか、小西行長のような知将に権力側の情報を得ていたからつい、つい、早め、早めに印刷所の場所を移転させ安全策に出たことは理解できます。

 そうかといって、印刷所が直接、秀吉軍や家康の幕府に叩かれたという記録はありません。短命だった理由の第一は人材不足にあったと思われます。印刷従事者がキリシタンだったために、本格的なキリシタン締め付けが始まった時期を境にキリシタン版の印刷が途絶えたと考えるのが自然です。
 
 したがって、キリシタン版の書物そのものも、秀吉や家康が目の仇にしたのではなく、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類で、実際にキリシタン版を焼きすてたりしたのは、秀忠や家光の時代になってから、キリシタン取締りに当たった幕府軍の下っ端の手によるのではないでしょうか。

 それは、写真のような紙に書かれたオラショを頼りに祈りを捧げるようになった隠れキリシタンの時代になって「印刷された教義書」が姿を消したことを意味します。それにしても、ここでまた、思ってしまいます。紙はともかく、印刷活字はどこへ行ったのだろうと。

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いつ、だれが国字活字を作ったのか?

2007-12-15 12:33:49 | 活版印刷のふるさと紀行
 キリシタン版の印刷には謎が多すぎます。
 
 その一つが、この「国字」、つまり、日本文字の活字の出現の早さです。ドラードたちは、1590年に活版印刷機を加津佐に陸揚げして、翌年の91年に『サントスのご作業の内抜書き』を印刷しました。この『サントス』に使った活字はリスボン仕込のローマン活字で用が足りましたが、翌年に、はやくも国字本第1号の『どちりな・きりしたん』を印刷しております。

 AからZまで26文字のローマ字と違って、日本文字を印刷するための活字の数は膨大です。しかも漢字あり、仮名ありです。そして、木を彫る「木活字」と違って硬い鋼鉄に父型を彫り、母型を起こし、活字をつくる難工程があります。私は、いったい、この短時間の間に、だれが手がけたのか不思議に思います。


 サポートしてくれたイタリア人の技師たちでは、逆立ちしても国字の彫刻には手が貸せなかったはずです。ドラードたち日本人の印刷人にも荷が重い作業でした。この謎ときは大変です。 

 私はひょっとして、マカオ滞在中に漢字の版下を明国人に委嘱して進めていたのではないかと考えます。仮名は帰国後に手がけてもなんとかなりました。
鋳造作業は外人修道士の手を借りて進めたのではないでしょうか。

 たくさんの先生方のてによってキリシタン版の活字の書体の研究などが進められているのはうれしいことですが、この、いつ、だれが、どうして国字活字を作ったかというハード寄りの事柄は、どなたもあまり、調べてはいただけません。

どなたか、立候補していただけないでしょうか。
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印刷に携わったのは何人?

2007-12-10 19:44:19 | 活版印刷のふるさと紀行
 コンスタンチノ・ドラードを追い求めて来た私としては、一にも、二にもドラードだけを持ち上げたいところですが、実際にキリシタン版を印刷したスタッフは?と考えますととても彼一人の力では出来ません。

 ゴアやマカオでドラードたちに印刷技術を教えたのは、バプティスタ・ペスティエというイタリア人修道士であったことはわかっております。あと、ゴアで印刷に明るいブスタマンテ神父の指導も受けた(松久 卓氏)という説もあります。

 いま、名前の残っている印刷従事者としては、ドラードやアグスティニョ、ミゲル市来たち、せいぜい5,6人ですが、恐らく最盛期には印刷所で、70人から80人は働いていたと思われます。

 印刷機も3台はあったと思われます。これは、工業学校系、当時画学舎とよばれていた有家や八良尾、あるいは天草の志岐にあったセミナリヨで製造されたと考えるのが妥当です。

 関ヶ原の戦いの頃、日本のキリシタン人口は30万人を超えています。その人たちが必要とする教義書の需要からいっても、キリシタン版の印刷態勢がどのようなものであったかもっと知りたいものです。それと、不思議なことに、印刷物の中に「聖書」は見つかっておりません。なぜでしょうか。


 
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キリシタン版の謎、印刷機

2007-12-07 12:34:32 | 活版印刷のふるさと紀行
 さて、この辺で何回か前の「キリシタン版の謎」に戻ることにします。
といいますのは、2週間ほど前、長崎でのある勉強会でキリシタン版とドラードについて講演をしましたところ、いちばん、皆さんが興味を持ったのが私の「キリシタン版を印刷した印刷機は1台ではなかった」というクダリでした。

 キリシタン版を印刷した印刷機は1586年にリスボンで船積みされて、1590年の夏に加津佐に陸揚げされました。遣欧使節たちが2年近く滞在したマカオでは船から下ろされて使用されていますから、4年間船に積んだままでなかったのはもちろんです。

 そして、加津佐を振り出しに天草、長崎と場所を変え、ドラードたちがマカオに追放された1614年に、また、船積みされてマカオに行き、はては、マニラの教会付属の印刷所に転売されたといいます。

 わかっているだけで、24年間の計算になりますね。しかも、その間に70種類以上のキリシタン版を印刷しています。印刷しにくいが和紙が相手です。印刷部数も多い本ですと1000部とか1500部のものがありました。

 とても、1台では無理ではないでしょうか。つづく。
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千々石ミゲルⅢ

2007-12-04 12:20:27 | 活版印刷のふるさと紀行
「遣欧使節対話録」、またの名を「デ・サンデ天正遣欧使節記」ともいいます。
使節一行はマカオまで帰って来て祖国の様子見もあって2年近く滞在します。
その間にドラードたちの手によって印刷された本がこれです。いわば、天正遣欧使節のヨーロッパ見聞記です。

 ヴァリニャーノがみんなのメモワールを集めて翻案編集したとも言われておりまが、それは眉ツバ。ヴァリニャーノが執筆した著作をドゥアルテ・デ・サンデ神父がラテン語にしたもので450ページの大著です。

 構成はミゲル主役の対話話形式になっております。その時点ではまだマカオにいる彼が、本の上では帰国していて、甥のレオとリノにヨーロッパの諸事情を語り聞かせているのです。架空ルポルタージュであり、ヴァーチャル対談といえるこの仕組みが、まっすぐなミゲルに受け入れられるはずがありません。

 ヴァリニャーノはミゲルのために「よかれ」と思ってのことだったかもしれませんが、ミゲルは納得できません。さきの「マルチノの演説」とこの「遣欧使節対話録」がミゲルのヴァリニャーノ不信のヒキガネになり、イエズス会以外の修道会に目を向ける原因になったと私は考えるのです。できれば、その辺は、青山敦夫の新刊『千々石ミゲル』朝文社でお読みください。また、宣伝してしまいました。



 
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千々石ミゲルⅡ

2007-12-03 10:33:15 | 活版印刷のふるさと紀行
原マルチノとちがい、千々石ミゲルがみずからキリシタン版やその印刷に手を貸したとは思えません。
それでは、「活版印刷」と無縁だったかといいいますと、答えはノンです。

天正少年使節が帰途、ゴアまで帰って来た時点で、彼らの師、ヴァリニャーノが使節のひとり、原マルチノにゴアの聖堂でラテン語の演説をさせました。
拍手が鳴り止まないほどの出来だったといいます。
中身がヴァリニャーノに対する礼賛と感謝のことばで埋まっておりましたから、ヴァリニャーノとしてはいい気分になって、ドラードにその演説を小冊子に印刷するように命じます。

ドラードとしては、自分の印刷第1号ですから欣喜雀躍、さっそくとりかかりました。ミゲルはあまりいい気持ちではありません。マルチノは副使、自分が正使ですからラテン語の巧拙は別にしても出し抜かれた気分です。

それだけではありません。次の寄港地ゴアではミゲルにとってもっと面白くない出来事が待ち構えておりました。
それが、「遣欧使節対話録」に根ざしたものでありました。詳細は次回。
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『千々石ミゲル』Ⅰ

2007-12-02 12:44:57 | 活版印刷のふるさと紀行
こんにちは。今回はいささか照れますが、マイ・パブリシィティ。
実は、ここ、しばらくブログから遠ざかってシコシコやっておりましたワークがようやく陽の目を見ましたので、みなさんに報告とおねがいです。

今週なかばに、私の新刊が店頭に出ます。
『千々石ミゲル』朝文社\2310

もちろん、天正遣欧使節の一人の、あの千々石ミゲルが主人公です。
日本に金属活字を使う「活版印刷」をもたらしたコンスタンチノ・ドラードはミゲルたち使節の従者でした。

私は、『活版印刷人ドラードの生涯』(印刷学会出版部)の執筆中から、ずっと彼のことが気になって仕方がありませんでした。
とくに、3年ほど前、長崎・伊木力で千々石ミゲルの墓?が発見されてからは、ますますミゲルの後半生を考えるようになりました。

八年半の使節の旅から帰って、四人の中でただひとりキリストに背を向けたとされているのは、はたして真実だろうか。それが新著のテーマです。
読んでいただいて、ご感想を聞かせていただきたいのです。

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