活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

活版印刷のふるさと紀行は続く

2010-12-31 22:31:32 | 活版印刷のふるさと紀行
 2011年おめでとうございます。
 みなさま、今年も私はほそぼそとこの「活版印刷ふるさと紀行」を続けるつもりですのでよろしくお願いします。

 たぶん、今年で5年目を迎えると思いますが、このブログを始めたころと2011年では「印刷」は、かなりの変貌をとげてしまいました。

 私は消えていく「活版印刷」を懐かしみ、讃え、そして多くの人の記憶にとどめたいと思ってはじめたのです。ところが、このところ「電子出版」が急激な勢いでたちあがって紙メディアの「印刷」すら年々危なくなりつつあります。

 電子出版おおいに結構ですが、大げさな言い方をすれば、私たち人類の進歩にはたした
従来の「印刷」の役割と歴史は決して忘れ去られることがあってはならないはずです。
いや、むしろ、だからこそ「印刷文化」や「印刷文化史」がもっと研究されなくてはなりません。

 私も関係しております「印刷懇話会神田川大曲塾」のメンバー一同も、そのために集まった有志たちです。新年にあたり、ぜひ、ご参加を呼び掛けさせていただく次第です。
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佐久間貞一と沼津兵学校

2010-12-30 20:03:38 | 活版印刷のふるさと紀行
 秀英舎(大日本印刷)の創業は明治9年の10月でした。明治ヒトケタ年代に創業して今日まで続いている印刷会社は同社だけですが、この会社の創立発起人の代表が佐久間貞一その人
でした。

 幕臣の次男として江戸、下谷に生を受けた彼は徳川幕府瓦壊のときは彰義隊員でした。いったんは徳川慶喜について水戸入りをしましたが、慶応4年に徳川家達の駿府入りに従って駿府に転進、掛川城下の掛川勤番組の一員として沼津兵学校掛川支寮に学び、財、漢、英、数と武術を学んで卒業したとされております。この支寮の頭取が保田久成でしたので、のちに秀英舎創立のとき力をかりることが出来たといいます。

 また、創業当初、秀英舎の基盤づくりに大いに役立った『改正西国立志編』の中村正直は静岡学問所の出身でしたから、あるいは駿府で2人に交流があったのではないでしょうか。
 以上は2007年に大日本印刷から刊行された『大日本印刷百三十年史』によりました。

 佐久間貞一に限らず、沼津兵学校出身者と当時のニューメディア「印刷」との結びつきには
濃いものがあったはずです。今回の神田川大曲塾の研修旅行でもその辺での新事実発掘を心ひそかに期待していたのですが「残念」という結果に終わりました。明治史料館の木口学芸員によると掛川支寮の記録も見つかっていないとのこと、やはり明治は遠かったのです。

 さて、ポツンポツンと書いておりますこのつたないブログを今年も応援してくださった皆様に心からお礼を申しあげて2010年を締めくらせていただきます。
 意外に寒い歳の暮れですね。私の部屋から見える東京夕景を添えて「佳いお年を」と。



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日本に近代をもたらした顔、顔、顔

2010-12-29 18:05:15 | 活版印刷のふるさと紀行
 これが前回紹介した江原素六の顔です。明治史料館の4階が沼津兵学校コーナーにあてられていますが、その約半分がこの学校や付属小学校の出身者、ここで教鞭をとっていた教授陣の顔写真を貼ったパネルで埋まっていました。顔、顔、顔です。

 もちろん、この江原素六さんもその中から撮らせていただきました。
 たしかに沼津兵学校の始まりは静岡藩徳川家が設立した陸軍将校養成学校だったかもしれません。それに3年半で閉校になってしまい、卒業生も200余人にすぎませんが、この人たちが軍人のみならず、国の役人になったり、教育者になったりして、いろいろな分野で日本の近代化に大いなる貢献をはたしました。西欧式教育の源流がここにあったといえます。

 西洋にならって最新の化学・数学・ドイツ語・英語・オランダ語などの語学はもちろん法学・文学・哲学など兵学以外もかなり充実した内容で教科が組まれていたようです。実生活でもビーフステーキを食したり、牛乳を飲むこともあったようです。
 全国の各藩から留学生も受け入れましたが「御貸人」(おかしびと)という名で各藩に教師をはけんしたといいますからよほど優秀な人材が集まっていたものと思われます。

 木口学芸員のはからいで昭和14年に今井正監督が撮った映画『沼津兵学校』を見せていただきました。黒川弥太郎、丸山定夫などおそらく若い人では名前すら知らない名優が幕臣から兵学校生という環境の変化の中での青春を演じていました。兵学校が閉校になり、いまの防衛大学生よろしく凛々しい軍服で隊列を組んで沼津を去るところがラストシーンでした。

 

 


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江原素六という人

2010-12-29 11:46:50 | 活版印刷のふるさと紀行
 ウカツにも沼津兵学校の話で本当はいちばん最初にとりあげなくてはならない人がこの人でした。兵学校のことで訪ねた「沼津市明治史料館」のサブ館名に「江原素六記念館」とありましたし、史料館3階には江原素六邸が復元されていて江原素六コーナーがありました。猛烈に力がはいっています。

 それもそのはず、江原素六(1842~1922)は旧幕臣の沼津移住組の一人ですが、沼津兵学校の設立に奔走したばかりか、兵学校がなくなったあとも、集成舎・沼津中学校・駿東高等女学校をつくり、静岡師範学校・東洋英和学校・麻布中学校などで校長をつとめ、沼津はもちろん
揺籃期の日本の教育に尽力しました。

 片や明治維新で刀を鍬に持ち替えて慣れない農業に取り組む旧幕臣たちのために、大規模な
開墾や牧畜、養蚕、製茶などの事業の開発のリーダーにもなりましたし、愛鷹山(あしたかやま)官有地の払下げ運動にも衆議院議員として地元に大きな協力をしたといいます。また、敬虔なクリスチャンとして活躍やエピソードもかずかず残されています。

 いるんだなー、明治のはじめには現代のハカリでは計量出来ないような活躍をする人が。




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沼津市明治資料館で印刷物拝見

2010-12-27 09:15:42 | 活版印刷のふるさと紀行
 私の手元に樋口雄彦著『旧幕臣の明治維新』沼津兵学校とその群像(吉川弘文館)があります。著者略歴に樋口さんはかつて沼津市明治資料館の学芸員をされていたとあります。
 印刷のことでさっそくその明治資料館を訪ねることにしました。イケメンでソフトな感じのいまの学芸員木口亮さんが4階の沼津兵学校の教科書展示コーナーにご案内くださいました。
 
 沼津兵学校で使われた教科書は沼津で刊行されたといいます。「沼津版」というそうですが、私には初耳でした。
 1858年(安政5年)に蕃書調所のなかに「活字方」を設けたのが幕府の印刷への取り組みの最初で、オランダから輸入した活字やスタンホープの手引印刷機で『英吉利文典』などが印刷されたことは知られていますが、沼津版はその流れをくんでいるようです。樋口さんによると沼津版には沼津学校で刊行したものと渡部温刊行の無尽蔵版の2種類があるといい、事実、展示も区分してありました。
 
 『筆算訓蒙』・『野戦要務』・『兵学程式』・『英国史略』・『英文伊蘇普物語』などが沼津版であるとされていますが、『野戦要務』と幕府陸軍所刊行の大鳥圭介本、『伊蘇普物語』ときりしたん版のイソップ物語の関係など個人的には調べてみたい興味をかられました。また、沼津版や無尽蔵版のうち、アルファベットもの5種はオランダから幕府に献上されたスタンホープが、蕃所調所から洋書調所、洋書調所から開成所になった幕府の印刷所から運ばれたといいいますがこれも調べてみたいと思いました。
 
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江戸城内の御金蔵から11万両

2010-12-26 16:59:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 西周さんは置いといて、沼津兵学校、スタート時点の徳川家兵学校設立の推進役は前述の阿部潜(邦之助)が定説ですが、これに伴う伝説の方が面白いので紹介しましょう。
 幕府陸軍の兵員数はどれくらいだったのでしょうか。1万7千人はいたらしいのですが、そのうち400万石から70万石にダウンした徳川家に従って駿河に移住希望兵士は2~3千人はいたと思われます。

 『陸軍解兵御仕方書』という規則が慶応4年に公布されたのですが、そのなかに陸軍学校の設立がうたわれていて、この規則の起草者が陸軍頭阿部潜だったのです。
 といっても、先だつものは軍資金、彼は部下を使って江戸城開城前に城内の御金蔵からなんと11万両をひそかに持ち出させたというのです。

 よく時代劇で千両箱を担ぎ出すシーンが出てきますが、11万両だったら千両箱110個、官軍の目をどうごまかして、どうやって駿河まで運んだのか、伝説なるユエンです。
とにかく徳川家の、いや徳川幕府の大リストラの中で、将来のために学校設立を企画した人も人なら、そこにはせ参じた人たちもたいしたものでした。
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西周(にし・あまね)か阿部潜か

2010-12-19 10:25:26 | 活版印刷のふるさと紀行
 沼津駅の南口を出て歩きはじめると道路脇に西周のレリーフがありました。
明治元年沼津兵学校の頭取になった人とあり、近くには「あまねガード」と名付けられた何の変哲もないガードまでありました。このあたりが、旧沼津城の一郭であり、西の屋敷もあったといいますから沼津市役所の教育委員会が気を利かせたのでしょう。それに、西周が初代校長でもあった沼津兵学校付属小学校もここにあったと記念碑にありました。

 西が津和野出身で幕府に命じられてオランダのライデン大学に留学した話や「哲学」などの
今は当たり前に使われている学術用語の訳者であることは私も知っていましたが、沼津兵学校とのかかわりは知りませんでした。不勉強を恥じながらレリーフをカメラに収めました。

 しかし、このままでは幕府の陸軍が消えてしまう。駿河に移らねばとみんなが躍起になっている中で危機感をつのらせて「沼津兵学校」を企画したのは、幕府時代の陸軍奉行にあたる陸軍頭阿部潜だったというのです。おそらく、西はお膳立てが出来てから担ぎ出されたのでしょう。

 徳川慶喜の駿府到着が慶応4年の7月、藩主の家達が8月、9月には清水港に向かう外国船に陸軍関係の移住者がたくさん乗り込んだといいますから、すごいスピードです。
たしか、鳥羽・伏見の戦いがその年の正月で、江戸城の無血開城が4月だったはず。この間に設立計画をたて、生徒募集をし、開校準備をしたのですからそのエネルギーたるや昨今の政界人のスローモーぶりとは比較になりません。
 

 
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徳川幕府の崩壊で

2010-12-18 16:37:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 私はときどき想像してみるのですが、徳川家が崩れ落ちて800万石から70万石の一大名になったとき、3万人ともいわれた幕臣の胸に去来したものはなんだったでしょうか。
 おそらく、事の成り行きを正確に理解して自分の去就を決めた家臣はひと握りだったのではないでしょうか。

 それから80年後に第二次大戦でアメリカはじめ連合軍に敗れ日本人は茫然自失するわけですが、私はそのショック度では徳川の幕臣たちの方が大きかったと思います。
 慶応4年の夏には徳川慶喜が駿府に移り、そのあとを幕臣の半数1万数千人が追って大移動をしました。家族や従者を含めると10万人にもなるというから大変です。

 『幕末史』の著者半藤一利さんによるとその大移動の総指揮をとったのは勝海舟だということです。いっぽう新政府は江戸を東京と改め、天皇が京都から移って文字通り明治維新を軌道に乗せなくてはなりませんが、その東京に徳川の幕臣が居座ったままではやりにくくてしかたありません。

 藩主に従って駿府に移るか、役人として新政府につかえるか、武士は廃業して農業や商売に転ずるか三者択一の道を選ばされてやむなく駿府行きを選んだ人が3万人の半数に及んだとみてよいのではないでしょうか。

 沼津兵学校を生んだのは徳川幕府の崩壊によることは当然ですが、それを企画したのは誰だったのでしょうか。
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沼津と三島を歩く

2010-12-13 20:33:23 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の塾員、いつもの印刷文化研究仲間との小旅行。
 私の学生時代は東海道新幹線はなくて東海道本線でした。東京を最終の大垣行の普通列車に乗ってひと寝入りすると沼津だった記憶があります。

 ところが今度の小旅行の集合場所が「沼津駅南口」なのに、新幹線に沼津駅はありません。三島でひかりを降りて1駅乗らなくてはいけませんでした。不思議な話です。  昔、東海道本線ができるとき愛知県の「岡崎」が蒸気機関車の釜火が風で飛んで火事になるからと町はずれにしか線路の建設を認めず、キツネやタヌキの出そうな町はずれに駅を作らせた話を聞いたことがありますが、沼津はなぜ新幹線の駅づくりを敬遠したのでしょうか。

 さて、今回の小旅行の目玉は沼津兵学校が研修テーマ。そこでなにはおいても、まず、沼津兵学校跡地を訪ねることにして南口をスタートしたのでありました。
 沼津城二の丸に作られたこの学校は「徳川家兵学校」というのが創立当初のこううめいだったようです。瓦壊した徳川幕府の陸軍の士官教育が新しい第一歩を踏み出した徳川家にひきつがれたのでしょうか。

 それにしては、明治維新とともにここで学んだ学生が日本の夜明けの中で近代社会づくりにあまりにも大きな貢献を果たしました。
 写真は城岡神社というお社ですが、ここの鳥居の左手に「沼津兵学校記念碑」がありました。ただ、当日は日曜日、碑の前が子どもたちのスタンプラリーの捺印会場になっていて、残念ながら撮影をあきらめました。

 

 
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