活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ27

2010-03-23 15:05:33 | 活版印刷のふるさと紀行
 山本隆太郎さんを送って1ヵ月が経ってしまいました。
わが家の庭では例年通り白木蓮が花をつけ、昨日あたり
から東京でも桜が咲き始めたとTVが伝えています。

 こうして現代では季節も歳月も気ぜわしいほどのスピード
で過ぎていきますが、南蛮船の時代、今から450年前
ポルトガルのリスボンで印刷修行の日々を送っていたドラード
たち日本人少年にとっては時間の経過はどのように感じられ
たでしょうか。

 インドにいるヴァリニャーノに指示を仰ぐにしても、日本で
活字作りの下準備をしているヴィセンテ法印ら日本人イルマンや
ヴァリニャーノがリスボンやゴアから印刷要員として送り込んだ
青い目のイルマンたちともまったく連絡のとりようがないままに
ただただ悲壮感さえ漂わして「印刷実務」を覚える毎日だったの
でしょう。

 といってもリスボンではおそらく気が焦るだけで、とても、
「活版印刷」の各工程に習熟するほどの時間はありませんでした。
 このリスボンでの滞在日数の少なさから、ドラードたちは使節や
引率のメスキータとは最初から別行動で、印刷要員としての訓練
を受けたのであろうという人もいますが、私はそうとは思いません。
 ローマ教皇手ずから使節以外の従員たちも洋服や帽子など贈り物を
受け取っている現物証拠がある点、また、ドラードやロヨラの通訳力
や文章力は一行の旅には欠かせなかっでしょうし、アゴスティニョの
こまごまとした下働きを欠いての旅も成立しなかったでしょう。

 ヨーロッパ各地で日本の四人の貴公子に従者がいなかったら、どう
受けとられるでしょう。 
 いずれにしても、天正少年使節一行は1586年3月に、リスボンを
発っています。リスボンに到着したのが1584年8月でしたからポル
トガルを起点にスペイン・イタリアの各地を訪ね、ふたたびポルトガル
までを2年でかけめぐったというあわただしさでした。
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山本隆太郎さんとの思い出2

2010-03-06 10:38:14 | 活版印刷のふるさと紀行
 私の書斎にあなたにいただいた小額に入った水彩画が2点
架かっております。ブラジルのリオとフランスのボルドーの
風景がさりげない滲みやぼけ技法を使って実に軽妙に描かれて
おります。

 思い出してみると印刷業界の国際会議であちこちご一緒し
ましたね。ヴェネツィア、マドリッド、アントワープ、マインツ
…いちばん忘れられないのは、ローテンブルグであなたが私に
しかけた小さないたずらです。公開ははばかりますが。

 銀座のあるお店でしばしば合流しましたが、お酒が得意で
ないあなたは、ママのピアノにあわせてギターを弾くのがなに
より楽しみと見ました
 何曲か合奏を終えて、比較的早い時間に帰って行かれるのが
常でしたが、あのときの仕事の場では見ることのない満ち足り
たお顔が私は好きでした。

 十数年まえのことです。あるシャンソニエを紹介しましたら、
気に入っていただいて随分足繁く通ってくださいました。
 あるとき、お気に入りの歌姫の舞台のとき、つかつかとステージ
に近寄って行って海外でわざわざ買い求められたカンカン帽をプレ
ゼントされました。めずらしいことでした。
私は当然、彼女がそれををかぶって投げキッスのポーズぐらいする
ものと見守っていました。ところが、彼女、かたわらのピアノの上
に帽子を置いたまま歌い終えてしまったのです。

 以来、あなたはプッツリそこを訪ねなくなりました。理由は口に
されませんでしたが私にはわかります。プロならプロらしく、なに
ごとでも繊細な気遣いが出来ない人は許せない真面目な人柄でした。
 本当は彼女の方が気を遣ったのかもしれないのに。

 一つだけ、はたせなかった「約束」があります。それは、千葉の
久留里にごいっしょできなかったことです。「子供のとき行ったまま
で一度行きたいのだ」
 桜の咲くころ、久留里城あたりを歩くことを想像しておりましたの
に残念です。心からご冥福をお祈りいたします。



 
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山本隆太郎さんとの思い出1

2010-03-05 09:42:53 | 活版印刷のふるさと紀行
 「奇しくも」といってもいいかも知れません。山本隆太郎さんが
お亡くなりになる前日、六本木で神田川大曲塾の会議がありました。
 私たちはあの日、山本さん、あなたをお招きして「昭和の印刷人
だれかれ」のお話しをうかがうプランをみんなでねっておりました。

 井上源之丞・大橋光吉氏に始まって北島織衛・山田三郎太氏など
あなたが取材を通して見た「印刷人列伝」を話していただくことは
すでに内諾を得ておりましたから。 問題は会場をどこにするか、
対談や鼎談形式の方が肩がこらずにおもしろい話を引き出しやすい
のではないかという意見もでました。それが、なんと、その翌々日、
当のあなたの訃報をうかがうことになろうとは。

 それにしても、昭和がだんだん遠くなり、産業としての「印刷」
が大きく変貌を遂げる渦中で昭和に活躍した印刷人をエピソードを
ちりばめた回顧談にしていただけるのは、あなたを措いて他にはい
ないと塾員だれしもが思っておりましたから残念でなりません。
 今となってはの著書になってしまった『続・銀座の四つ角』調で
語っていただけるチャンスは二度とめぐっては来ません。。残念です。

 思い出します。1996年の夏でしたか、私は長崎の加津佐からあなたに
電話を入れました。「以前、先生がヒントをくださった日本の活版印刷の
ふるさとを訪ね歩いていますよ」と。
 「そりゃいい。取材結果をウチの『印刷雑誌』に発表してください」
それが1997年12月号から1999年1月号までの連載となり、のちに『活版
印刷紀行』として印刷学会出版部から出版されることになりました。


 
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山本隆太郎さんの死を悼む

2010-03-04 10:23:10 | 活版印刷のふるさと紀行
 あれから10日になります。
 山本隆太郎さん、私には、あの、あなたとのお別れの光景が、まだ、まぶた
にやきついて離れないのです。

 告別式が終わり、長いこと、あなたが社長をしておられた印刷学会出版部の
方をはじめ、後輩にかつがれて柩が霊柩車に移されるときが来ました。それを、 
会葬のみなさんが合掌して見守っておりました。

 そのときです、「吠えろ…」という山崎少年サッカーチームの応援横断幕が
何人かの若者の手によって掲げられました。
 霊柩車の金箔の装飾とは、あまりにも異質な「吠えろ…」の横断幕でしたが、
先生、あなたにはなによりもうれしい送別ではなかったでしょうか。
 霊柩車は弔笛を一笛鳴らして、静かに出て行きました。

 山本隆太郎さんは『印刷雑誌』や印刷関連の出版を通じて印刷ジャーナリズム
の旗手であられました。そのいっぽう、40年もの間、地元、鎌倉で少年サッカー
チームのコーチや監督をつとめられ、お亡くなりになるちょっと前も自からの名前
を冠した「山本隆太郎杯」争奪の大会に顔を出されたばかりだったと聞きました。
 そういえば、前の日、通夜の席にも小・中学生が並んでお焼香をしていました。

 少年サッカーだけではありません。カメラ、絵画、ギター、観劇、ジャズ、模型、
シャンソン、私が知るだけでも実に多趣味の方でした。
 その山本隆太郎さんとの思い出をたどってみたいのです。


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