活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

長崎県庁のところが岬の突端で

2007-02-26 13:57:30 | Weblog
 「いまの県庁のあたりが岬の突端で教会がありました」、取材のたびに何度も説明を受けました。現状からはなかなかイメージできませんが、県庁前の入り海と岬ともやっている船の陶板イラストでなんとなく納得しました。それに、「イエズス会本部、奉行所西役所、海軍伝習所跡」の石柱で、このあたりが、長崎の時代とともに歩んだことが、偲ばれます。

 長崎港が開港されたのは、1570年(元亀元)でした。それに伴って岬が開発され、長崎の町づくりがはじまったわけですが、岬の先端にフィゲイレド神父が教会を建てたのが、「岬の教会」です。正確には岬のサンタ・マリア教会です。そういえば、ポルトガルでもノッサ・セニヨーラ・カボなんとかという岬の教会がいくつかありましたっけ。
 
 この岬へ伊東マンショたちがヨーロッパから帰国したのは、1590年(天正18)です。たぶん、まだ、かろうじて残っていた「岬の教会」で帰国報告ミサをあげたことでしょう。
 岬の教会にあったという大時計が有名ですが、はたして、そのとき、取り付けられていたか、もっとあとになってからのことかは、不明です。製作者がジョアン・ニコラオだとすると、1600年頃かと思いますので、まだだったでしょう。


 天草から、トードス・オス・サントス教会を経て、ここへ、コレジヨやセミナリヨが移ってきて、印刷所が設けられたのは1598(慶長3)の末か、その翌年の春のことでした。
 26人の殉教事件はあったものの、長崎港での貿易による利潤がありますから、まだ、秀吉は長崎では取り締まりが甘く、キリシタンが増えるにつれて、あちこちに教会がふえました。いまの県立図書館のあたりに、白亜の「山のサンタ・マリア館」もできました。当然、キリシタン版の需要も増加し続けていたはずです。

 沖には南蛮船が停泊している。印刷工房では、日本人と南蛮人が入り混じって、あるときはラテン語やポルトガル語の横文字を組んでいる。あるときは、日本文字を鋳込むのに苦労している‥‥そんな光景を想像してみてください。
 ここでの印刷はやく15年続きましたから、キリシタン版印刷所としては、一番長かったのです。

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長崎港を見下ろしてスタート

2007-02-25 18:58:21 | Weblog
 長崎を抜きにしては語ることが出来ないのが日本の活版印刷なら、その歴史は長崎港の存在を抜きにして語ることは出来ません。
 なぜなら、最初の活版印刷は、キリシタン、長崎港、南蛮船によるものでしたし、2番目明治の活版印刷を生んだ本木昌造は長崎で三代続く幕府のオランダ通詞で、グーテンベルクよりも前に活字を作ったといわれているオランダ人コステルの伝記を読んで、活字に興味を持ったといいます。つまり、長崎港、出島、通詞がもたらしたといっても過言ではありません。

 そこで、みなさんにおすすめしたいのは、長崎に足を踏み入れたら、まず、ロープウェイで稲佐岳の展望台に行って眼下の「長崎」全体を眺めて見ることです。
 とくに、そんなわけですから、「長崎港」には敬意を表したいものです。
 その長崎港が、約4キロの細長い入り江のドンズマリにあることがわかります。
周りは稲佐岳、金比羅山、彦山など小高い丘や山がつづき、浦上川、中島川、大浦川などの扇状地の高台に町が広がっているのも見てとれます。

 展望台の東、長崎港の対岸が長崎の中心地で、JR長崎駅から埠頭にかけての一帯や左手の桜町の市役所から右手、外浦町の県庁までの中島川に区切られたあたりが、昔の「内町」、16世紀の長崎発祥の地にあたるでしょうか。

 さらに、昔の「外町」、諏訪神社の森のあたりや、中島川の対岸の「出島」やそのむこうの「丸山」あたりもよく見ておきましょう。もっとも、かなりの部分が、キリシタン時代は海だったのではないでしょうか。その辺になると、地理に明るい土地の方同道でないと、わかりませんが。

 ただ、稲佐岳まで行かなくとも、長崎造船所のあたりはグラーバー園からでもよくみえますし、出島や港の先の細長い入り江の地形は、県美術館の屋上からでも、見ることが出来ます。(写真参照)
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長崎を抜きにして語れないものは

2007-02-25 17:33:23 | Weblog
 あなたが、もし、「長崎を抜きに語れないものはナーニ?」というクイズを出されたら、実に、いろいろな答えが頭の中を駆け巡ることだろうと思います。
 私だったら真っ先に「日本の活版印刷の歴史」と答えるでありましょう。我田引水?おもしろくもない?マア、マア。聞いてください。

 ポルトガルのリスボンを船出して、グーテンベルク方式の活版印刷機、金属活字など印刷要具を積んだ船が、ゴア、マカオを経由して長崎港に入ったのは、1590年(天正18)6月のことでした。
 そして、島原の加津佐でキリシタン版の印刷所がオープンされました。折悪しく
切支丹弾圧の渦に徐々に巻き込まれ、印刷所はコレジヨやセミナリヨの移転とともに天草に越しますが、ついには、振り出し、長崎に戻ることになります。1597年(慶長2)のことです。

 それから、弾圧のために、いよいよ、立ち行かなくなるまで16,7年の間、日本最初の活版印刷は長崎で多数の本を刊行します。
 『落葉集』、『日葡辞書』、『日本大文典』などの書名からわかるように、長崎で出版されたものの多くが、日本文字を使った日本文学や日本語研究に使われるものでした。
 音符の入った『サカラメンタ提要』も長崎で印刷されております。つまり、画数の多い日本文字を鋳造したり、色刷りの音符本を手がけるほどに印刷技術にアブラがのってきたのがキリシタン版の長崎時代だったのです。

 しかし、1613年(慶長18)ごろ長崎から活版印刷は追放されてしまいます。
そして、奇しくも同じ長崎で本木昌造が金属活字をつかった活版印刷を始めるまで
250年もの間、活版印刷は長い「眠り」に入ってしまうのです。

 
 

 
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天草の十三仏の山に見る‐

2007-02-12 23:30:25 | Weblog
 また、寄り道です。
 タイトルの「天草の十三仏の山に見る-は、-海の入日とむらさきの波」とつづく与謝野鉄幹の歌です。鉄幹が五足の靴の旅から25年後、奥さんの晶子を連れて天草を再訪したときの歌です。そのときの晶子の歌は  
  天草の西高浜のしろき磯
  江蘇省より秋風の吹く 
 
 大江天主堂にルドビコ・ガルニエ神父の像がありますが、実は与謝野鉄幹たち5人の旅のいちばんの目的は大江教会に、この神父をたずねることにあったようです。

 キリスト教が解禁になったのは明治6年ですが、解禁後の明治25年に大江に着任したガルニエは、いくら、かくれ切支丹の里とはいえ、いろいろ苦労したようです。ですが、村民に慕われている彼の話が青年たちの心を揺り動かしたのでした。

 さて、歌の続きですが、大江天主堂に吉井勇の
   
   白秋とともに泊りし天草の
   大江の宿は伴天連の宿

 という歌碑があります。昭和27年、この歌碑の除幕式に参列した彼は、
   
   ともにゆきし友みなあらず我一人
   老いてまた踏む天草の島
 と詠みました。五足の靴の旅をともにした仲間は、りっぱな歌や詩や脚本や名声を残して逝き、残るは歌人吉井勇ひとりになっていたのです。

 キリシタン版印刷の時代の天草、かくれ切支丹の時代の天草、そして、五足の靴の明治の天草、さらには、現代と、大江天主堂の建物や歌碑の前にたたずんで、思いをめぐらすのもヨキカナ、よきかなです。

   
 
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五足の靴散歩道もいい

2007-02-11 18:50:27 | Weblog
 私は天草紀行のときに、下田温泉の望洋閣に厄介になります。
 目の前が天草灘というオーシャン・ビューが気に入ってのことですが、ホテル手前の高台から見る夕日もここに泊まる楽しみのひとつです。
 その高台に、左の「五足の靴」の記念碑があります。
 
 五足の靴とは、1907年(明治40)の夏、新詩社の主宰者与謝野鉄幹に率いられてこの地を歩いた北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里の後年、文学界に名を残した4人、つまり、一行5人の靴のことで、帰京後、東京二六新聞に「五足の靴」
と題した紀行文を発表しております。与謝野は当時35歳、あとの4人はまだ、23,4の学生でした。

 北原白秋の『天草雅歌』や『邪宗門』、木下杢太郎の『天草組』などを挙げるまでもなく、彼らは「南蛮」に憧れ、禁教時代の痛みに心を寄せての旅立ちだったと思われます。

 明治40年といいますと、日本の活版印刷が、ようやく、情報伝達のメディアとして活況を呈すようになったころ、活版印刷の組合がしっかり組織化されたころですから、五足の靴紀行や南蛮情緒が活字で発表され、人々の関心をひいたのは不思議ではありません。

 実は、この碑の奥に展望台が設けてある「五足の靴散歩道」があったり、同名の
雰囲気のいいホテルもあります。
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ド・ロ神父と石版印刷

2007-02-05 12:50:04 | Weblog
 遠藤周作文学館をあとに、ド・ロ神父記念館に向かいました。記念館の手前の坂に、少年が神父にまつわりついているほほえましい像がありました。
 記念館の建物は木骨レンガ造りで、明治時代の創建当時そのままに復元した文化財的な建物です。
 入館すると、上がりかまちに古びたオルガンが置いてあり、シスターの方が演奏してくださいました。

 ところで、マルコ・マリ・ドロ神父は1840年にフランスのノルマンデーに貴族の
子孫として生まれました。神父は「石版印刷」の技術を身につけていたことから、
1868年(慶応4)28歳で宣教師として来日するや、長崎の大浦天主堂に石版印刷所を設けたといいます。
 徳川家茂にアルバート伯爵から石版の印刷器が献上されたのが、1860年、はじめて印刷をしてみたのが、1873年といいますから、実際には、このド・ロ神父が日本の石版印刷の始祖かもしれません。

 彼は大浦でも、転勤した横浜でも印刷事業に力を入れましたが、1879年(明治12)に外海に着任すると、印刷だけではなく、衣食住すべてにわたって村民の指導にあたりました。織物・イワシ網・パン・マカロニ・ソーメンなどの授産事業や製粉・
茶園・道路建設など、1914年に没するまで、手がけた仕事は限りがありません。

 話は戻りますが、印刷と宗教とは密接な関係があります。宗教が印刷を手段につかって、一人でも多くの人に信仰にかかわる情報をはやく、的確に、大量に、手軽に伝えたかったからでありましょう。このド・ロ神父のことも日本の印刷文化史の
うえで、もっと調べなくてはいけません。
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外海の歴史民族資料館で

2007-02-05 11:28:04 | Weblog
 活版印刷紀行、とりわけ、島原や天草でキリシタン版の時代を追っていますと、
些細なことが気になります。
 たとえば、「時間」です。キリシタン版よりもはるかに、現在に近い江戸時代に、「六つ」だ「八つ」だというような区切りで時間管理がされていたことは 時代小説や時代劇で私たちがよく知るところです。
 ところが、それより、100年以上も前、キリシタン版のころ、少年たちが学ぶセミナリヨの時間割では、「四時起床」だとか「八時晩祷」などと、宣教師がもたらしたヨーロッパ渡来の時間の区切りでガッチリ運営されていました。
 年号表記でも、キリシタン版には、「御出世以来千五百九拾九年(『ぎゃどぺかどる』)などと、日本の元号以外にキリスト起源を表紙にかならず入れています。
  
 しかし、1638年(寛永15)の「ナタルの日」、クリスマスに、島原の乱が鎮圧され、約百年に及んだキリシタンの時代のが終わると、すべてがもとの木阿弥になってしまったのです。
 
 外海町の出津文化村に「歴史民族資料館」がありますが、ここには、かくれキリシタンの資料がたくさんあります。
 とくに、むごいキリシタン弾圧の火あぶりですとか、斬首、算木責めなどの刑罰や拷問の絵には思わず顔をそむけたくなります。

 そうしたなかに、オラショを克明に手書きしたものもありました。つまり、いったん印刷されたキリシタン版に接していた人たちの子孫がふたたび、「手書き」で
信仰と向かい合わねばならなかったのです。
 いったん手に入れた16世紀のヨーロッパ直送の文化が活版印刷追放の1614年(慶長19)ごろから、ほとんど壊滅状態にさせられたのです。

 
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遠藤周作文学館と「沈黙の碑」

2007-02-01 11:06:18 | Weblog
 たしか、月のない真っ暗な夜だったと思います。http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=9cb38eeb299f8f867abd29decf79c099#
 遠藤周作さんが、『沈黙』の中で、トモギ村の入り江の浅瀬に、ガルベとキチジローがおりたった光景を描いておられたのは。
 
 私が訪ねたときは、遠くからまぶしいほど陽光に照り映えた文学館が目にできる日でした。しかし、文学館のところが小さな入り江になっているのを認めたとたん、「そうか」と、思わず、足を止めました。「きっと、ここなのだ」と。
 遠藤周作さんはこのあたりの海を見て、暗闇の中をカルベとキチジローのふたりを上陸させたのにちがいないと想像したのです。それほど、文学館は海の近くにあります。

 館内には『沈黙』の鉛筆で書いた原稿や書斎の復元やら興味深い展示が並びますが、角力灘の濃いブルーを四角く切り取って見せてくれる小窓やステンドグラスを配した大きな窓など、なかなか憎い演出です。学芸員の方も親切で、二度目に訪ねたとき、ド・ロ神父記念館までクルマで送ってもらいました。

 文学館をあとにして、出津文化村に向かいます。ちょうど、海を背にして歴史民族資料館の方に向かう坂の手前に「沈黙の碑」があります。

 「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに蒼いのです 」

自然石に、こう、刻まれております。

 話はそれますが、このあたりは夕日が美しいので有名です。ゆっくり、あちこち訪ね歩いて、夕日を見てから帰路につくようお薦めします。
 
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