青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

線路もどかす、地鉄の大義

2019年10月05日 17時00分00秒 | 富山地方鉄道

(漁港の街の駅@経田駅駅舎)

ぶらり地鉄駅訪問の旅(毎回タイトルが変わるな)、早月加積の駅を後にして、経田駅へやって参りました。地鉄電車は西滑川の先から旧北陸本線と並行して走っていますが、ここ経田の駅の手前で北陸本線が山側に分かれて行きます。この駅は魚津市の一番北にあたる駅で、周囲は細い道に古い家並みが続いています。潮焼けした顔のおっちゃんがチャリンコで駅横の踏切を渡って行きましたが、そんな漁師町の雰囲気の中にある駅です。早月加積は木造の鄙びた駅でしたが、こちらは同じ木造でもモルタル壁に板塀を貼った重厚な瓦葺き。歴史の重みを感じさせるしっかりした作りの駅です。

小さいながらもしっかりとしたエントランス。経田駅の駅舎は、黒部鉄道の石田港駅で使われていた駅舎を廃線に伴い移築したものだとされています。石田港駅は、現在のあい鉄・黒部駅から海岸方面へ伸びていた黒部鉄道石田港線の終着駅ですが、その歴史と変遷については黒部市の外郭団体が作成しているサイトである「公共交通で行こう!」に詳しいので割愛させていただきたく。このHPに戦前の僅かな期間しか運行されなかった石田港駅の写真が掲載されていますが、確かにこのエントランス部分からして間違いなく当時の石田港駅の駅舎が今の経田駅の駅舎だという事が分かります。石田港線は短い間しか営業されず、廃止されてから相当な時間も経っているという事でほぼ営業の痕跡が残っていないそうですが、そういう意味で、経田駅は場所こそ変われど石田港線の最大の遺構と言えるのではないでしょうか。

見た目より広い駅の中は大きな待合室になっていて、海風が吹き抜けて心地よい。おそらく駅員が勤務していた頃は、この待合室に乗客を待たせて列車別改札をやっていたのだろうな、と思わせるそんな作り。今は乗車駅証明書の発行機が寂しく一人番をするのみ。駅ホーム側から見る木造のラッチ、柱にはホーローの渋い看板が打ち付けられている。近所の知り合いらしいおばあちゃんが二人、黒部の街の病院へ行くらしく列車を待っていた。黒部の街に行くには、あい鉄の黒部駅より地鉄の電鉄黒部駅のほうが中心街に近い。

待合室の脇には、通勤通学時間帯に使われていたであろう臨時改札口の跡があった。今は冬場の除雪道具が置かれた自由通路。柱に掲げられた「定期券拝見」の書き文字がまた郷愁を誘いますな。鉄道が移動手段の主役だった時代、この駅にも朝のラッシュがあったのでしょうね。秋の陽に、赤錆びた柵の影が落ちる。 

列車も来ないので、経田駅の周辺を少しブラブラ。開発の手の及ばない海辺の町の細路地を歩くと、路地の先にあったタバコ屋の前にこんなに渋い銭湯を見つけてしまった。くぁ~、こんなんあるんだったら先に言っといてよ!って感じの優良物件である。「観音湯」という屋号らしいが、午前中では当然だがやっている訳もなく、その意匠を目に焼き付けてすごすごと戻るだけであった。石田漁港から一本路地を挟んだ浜沿いの旧街道にあって、それこそ漁師連中がひとっ風呂浴びに来そうな場所にあったのだけど、経田の街はもう一回歩いてみるべきかなあ。

黒部鉄道の石田港線は、三日市駅(現・黒部駅)を出ると、堀切口、生地口の2つの駅を通って終点の石田港駅に向かっていました。文献を紐解くと、堀切口駅と生地口駅の中間に富山電鐵との平面交差があったようです。痕跡がほとんど残っていない廃線跡ですが、地鉄本線が8号線パイパスをくぐるあたりがその平面交差の場所との由。高架のパイパスに上がって、富山から戻って来る14720形を待ちつつその付近を俯瞰してみると、どうやらこの左から右へ走る道路が石田港線の跡なのかな。踏切のあたりで交差していたと推察されますが、どんなダイヤモンドクロッシングだったのだろうか・・・

黒部鉄道の石田港線は、この富山電鐵との平面交差が安全上の問題となって廃止されるに至りますが、廃止された理由は富山電鐵の豪腕・佐伯宗義からの「(富山電鐵を)三日市の街の中心部に繋げるのに邪魔なんですけど」という強硬な申し出によるものだったそうな。当時の黒部鉄道は、戦前の日本の五大電力会社の一つである日本電力(日電)をバックにしていましたが、宗義の「富山県の市街の一体化、交通の一元化」という理念は、大会社を前にしても揺らぐことがなかったという事でしょうか。

コメント
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