美術館のイベントに
この頃 先生のための・・・というのを
時々目にする
彩友会の仲間の現役先生が先日参加したイベントもそうだ
最近の新指導要領で鑑賞教育の充実が要求されてるそうだ
私が教わった先生に
三木多門という先生がいた
前に時々記事でも悪口を書いた先生だ
ともかく 教室に入ってきたときの顔が もう学生を軽蔑してるから嫌いだった
考えてみれば
大学の先生なんかおおむね学生を馬鹿だと思ってる
中学の先生みたいに
骨身を削って生徒のことに身を焦がすことはないな
(私の指導教官は 心底 学生が好きそうだったがな おっかなかったが)
でも
あんなにあからさまな軽蔑に出会って びっくりしたんだが・・
実際問題としては 馬鹿にされるほどバカだったな
と
夕べ 50年近くたって
やっとわかった
それは 鑑賞教育についてだ
だいたい芸術なんて そう生み出せるものじゃない
表現教育は無駄だ
それより 鑑賞できるように 物の値打ちがわかる
見る目を備えた人を作るほうが大事だ
というように聞こえることを
(どうせ お前らの作る絵も彫刻もろくなもんじゃない
さっさと諦めて もうちょっとは 物が分かる人間になれよ)
という顔で言ってた
と思った。
振り返ってみりゃそうなんだけれどね
そんなこと言われたくないよ と思った。
今にして思えば 表現を通しての教育は
何も芸術家を育てるのではないし
別の問題だ
子供もそうだし 生涯学習系の市民もそうだ
でも 鑑賞教育って 改めて教育体系として
学んだことがないなと思う
今は 体系化されたり 子供の発達とかかわって研究が進んでいるんだろうか?
美術教育なんて いろいろな実践はあるものの手探りで
理論化されてるようで 科学的に解明されてることなんか
ほんのわずか
発達のことも 言ってみりゃ
好き勝手に理屈をこねて試行錯誤しているのが
私が現役時代は
現状だった
どうなんだろう?
文学にしろ 美術にしろ
考えてみれば
そこに語られてることを 読み進めていく というような
作業の面白さ
って 結構奥が深くて
飽きない
そういうことを 共有したいというのが 三木多門のいうことだったのだろうか
そうは思えないほど 我々を 猿のように 豚のように辟易した目で見てたが
河野という先生が 解説の中で 胸中の丘壑(きゅうがく)という言葉を使って
書いてて
読んでも意味不明で
検索したらそれですぐわかる言葉ではなく
中国の文化に通じてる人には
常識かもしれないが
私は意味を読み取るのに えらい 苦労した
(ただの 無知だけかもしれないけれど)
一般読者を対象の 大衆的な雑誌に もっと親切に書いてくれ
と
思った
河野という先生は こんなに普通の人には
わからない言葉と思わず使ったのか
どうせ分かりゃしないと思って使ったのか
学生に対するように わからなきゃ調べるだろうと思ったのか
わからないけれど
象牙の塔の住人は 素敵なことを研究してるかもしれないが
素人と ボキャブラリからして 共通の橋がない
学校の先生は
そこをつなぐことが求められてるのかな
その割には
学校の先生は勉強するほど間がないほど
雑味に こき使われてるんじゃないだろうか