LOHASな感じ!

日頃、仕事やプライベートで感じた事をLOHASな感覚で書いています。

納豆論議3

2007-01-12 | 男の料理
昨日、「スーパーに行ったら納豆がなかった」と家内が言っていた。

「品切れを起こしたんだろう」と軽く返事をしたが、なんと今日の新聞を見て驚いた。
納豆のダイエット効果を先日TVで放映した影響だったらしいのだ。

「あるある大事典」という番組で、朝晩1パックの納豆を食べると2週間で体重が減る、と紹介していたそうだ。
放送翌日から、各地のスーパーの納豆売り場の多くでパック入り納豆が品薄状態になり、完売の断りを出す店舗もでたそうだ。
なるほど、そうだったのかぁ。

しかし、ダイエットの紹介という事もあるのだろうけどTVの影響は大きいなぁ。
納豆愛好家としては嬉しい便りだ。
自認メタボリックシンドロームの小生としては、さらなる納豆の効果を検証するためにも食べ続けたい。

勿論、納豆を十二分にまぜてからタレとマスタードを入れているのは言うまでもない。





鏡開き

2007-01-11 | lohas的情景
そう言えば、今日は鏡開きだ。

最近パック餅なるものがスーパー等で出回っており、拙宅でもパック餅をお供えしていた。
ただ、何と言うか、いつまでも変化しないその有様は味気ないものがある。

昔、ヒビが頃良く入った鏡餅にカビが生えたのを適当に取り除きながら、お汁粉にして食した記憶がある。
鏡餅を入れたお汁粉は、微妙に風味が異なり、これも自然の成り行き?と思いつつも皆で食したものだ。
大きいお供えほどその傾向が強いような気がした。

ところで、鏡餅は刃物で切ってはいけないそうだ。
「切る」「割る」という言葉も避けなければならないのだ。
祝いの言葉として、「開く」としているそうだ。






画家は語る・・シャガール

2007-01-10 | 美の壺的解釈
「画家は語る」20世紀の巨匠たち・・・奇跡のインタビュー ~八坂書房

シャガールは、自身の作品について深く語ろうとしない。
自分自身の作品は好きではないと言っている。
また、他の著名な画家の作品に対しても、準備無しにはすぐには理解できないとも発言している。

シャガールは、インタビューアに対してこう発言していた。

「制作しながら絵についてうまく語る、なんていうことは出来ないものだ。
ただ、絵だけが語ってくれる。
まさにそういうものなんだ。
もし私が美しい布を目にしたとして、それについて何が言えるというんだい。
あなたはそうやって写真を撮っているが、写真がよりよく語ってくれるからじゃないのかい。
他に何かうまく出来ることがあるなら、なにもそんなことはしないものさ。
絵を描くこと以外に何か出来た画家は珍しいよ。」

「若いころ、私はセザンヌの作品に出会った。
私は、気が動転してしまったよ、私には理解できなかったんだ。
物事を感じ、理解することができるようになるまでには、
回り道が必要だ。
ゴッホやセザンヌやゴーガンを理解することが出来るようになるまでに、
私は長い時間をかけて、
人生の砂漠を横断する必要があったんだ。
準備なしに、ボナールの一枚の絵に表現された全ての美を見て取ることはできない。」

うーん、シャガールまでが作品を理解するには、様々な経験や思考などそれ相応の時間を費やさなければならないとしている。
短絡的な作品の良し悪しや瞬間的な感動の有無ではなく、その作品に込められた美は、そう簡単に判断されてしまっても困るということだろう。
なんとなく、安心したというのが私の実感だ。
真の美を理解するという境地には残念ながら私には程遠いものがある。
しかし、作品から何かを感じることはできると思う。
それが作者の意図とするものでなかったとしても...。
そう感じた。



男と女の消費動向?

2007-01-09 | その他
男と女では、基本的に消費に対する考え方が違うという記事を目にした。

男性の消費は、あらゆる面にこだわりがあり、単品で考える。
モノやモノの持つ材質・デザイン・機能等、とにかくこだわりが強いのだ。

そのため、使い込むほどに味が出るモノや希少価値のものなどには惜しみなく消費する。

昨年は、「美の壷」なる番組が放映されたように、まさにこだわりの世界を取り上げていた。
そう言えば、私一人だけが「美の壷」を真剣に見ていたような気がする。
まったく家内は動じなかったのだ。

一方、女性は、どこそこへ行くための服であったり、誰々と会うためのバックだったりと、コトとモノが連動した消費が多いそうだ。

なるほど、拙宅でも先日家内が同じような事を言っていたなぁ。
どうでも良いと思っている事がお互いに違うようだ。

うーん、やっぱり何事にも徹底的にこだわって行きたいな。



感動をつくれますか?

2007-01-08 | 美の壺的解釈
おお、ズバリきたな。という感じだ。
作曲家 久石 譲の著書「感動をつくれますか?」
 ~ 角川書店

私は、作曲家としても作家としても名前は知らなかった。
しかし、久石 譲が作曲した作品名を聞くと、あの曲がそうだったのかと思ってしまうぐらいに有名な方だったのだ。
誰でもが知っているような馴染み深い曲、「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」など多くの作曲をしている。

著書の中で、久石譲が「感性」について述べている。
ものづくりにおいて、いや、ものづくりだけではない、日々の我々の活動において、感性が重要だとほとんどの人が認識している。
確かに、感性は重要な要素だと私自身も強く感じる。
しかし、感性ってそもそも何なのだろう?
これだと言う物が無いだけに表現するのが難しかった。

久石譲は、こんな感じで「感性」というものを捉えていた。

「感性」という言葉でくくられているものを冷静に分析して整理していくと、
もちろんその人の持つ感覚的なものもあるが、
それ以上に、
その人のバックボーンにあるものが基礎になっているのではないかと考えられる。

いつも作品は自分の力で創作しているという意識でいるが、
実際には、過去の経験、知識、出会い、思考、それらの蓄積が基になって生まれてくるものだ。
感性の95%は実はこれらなのではないだろうか?
独自の感覚だけでゼロからすべてを創造するなんてことは有り得ない。

うーん、確かに言われてみればそんな気がするなぁ。

しかし、95%のバックボーンに支えられながらも、残りの5%が肝心だと言っている。
その5%が感覚的ひらめき(直感力)、それこそが創造力の肝だとしている。

その5%の直感を磨いているのも、実は過去の体験だ。
しかし、実のところ、直感の啓示のようなものをいかにしてつかみとるかという所で、誰もが悩んでいる。
久石譲も同様に日々苦しんでいるそうだ。

結局は、直感力を導くため、ひたすら考えるしかない。
考えて、考えて、自分を極限まで追い詰めていくしかないのではないか。
何かが降りてくる、その瞬間を自分自身が受け入れやすくすることに時間と力を注ぐ。
つまりは、自分の受け入れ態勢を整える状況づくりをすることなのかなあ。
と、述べている。

また、普通に生活していても、ふと意識を向けたり、興味を持ったということは、
自分の琴線触れるものがあったということだ。

何気なく目に飛び込んでくるもの、
耳に入ってくる音、
漂ってくる香り、
人と話していてはっとしたこと...
それらは直感センサーが反応していると捉えたほうが良い。
そこから思わぬ展開が拓ける場合があるそうだ...。



村山密展

2007-01-07 | 美の壺的解釈
先日、村山密展に行ってきた。
茨城県近代美術館で開催されている。

村山密は茨城県の潮来出身の画家で、パリに在住しながらパリ近郊の風景画などを数多く残している。
大正7年生まれだそうだ。
恥ずかしながら、村山密の存在は知らなかった。

美術館の長いスロープを折り返し二階に行くと、数々の作品が展示されていた。
中でも興味を持ったのは、睡蓮の数枚の絵とシャンゼリゼを見下ろした絵だ。

「睡蓮」は、パリ近郊の池の描写という事だそうだが、穏やかに煌く水面と可憐に咲いている睡蓮の花が印象的だった。
睡蓮と言うとモネが有名だが、勿論モネのタッチとはまた違う。
同じ題材でも表現方法が違うんだよなぁ、と当たり前の事ではあるのだけれど再認識してしまう。

「シャンゼリゼ」は、私自身残念ながらフランスに行ったことは無いが、パリの雰囲気がなんとなく伝わってくるようだった。
大通りを挟んで交差する道路も印象的だった。

モノ・サピエンス

2007-01-05 | その他
昨日の投稿で人間の心の変革などという記述をしていた。
帰宅途中なんとなく書店に立ち寄ると、

「モノ・サピエンス」物質化・単一化していく人類
 ~岡本裕一朗著 光文社新書
を手に取り、さらにヒト・モノについて考えさせられた。

帯封が気になり購入したが、うーん、これは...。

生産者社会から消費者社会へと移行するにつれて、あらゆるものが消費の対象となっていった。
著者は、「ブランドや労働、人体などありとあらゆるものが消費の対象となり、
そこで何を選択するかは各人の自由。」
「そして、この選択によっていかなる結果が生じても本人の責任になる。」
「それが、ヒトのモノ化に繋がっている。」・・モノサピエンス

と記述していた。
モノ・サピエンスに対して、これから時代を生き抜く対応などに触れている訳ではないが、現在の現象を様々な角度から捉えていた。
90年代以降の人間の状況であると表現している。

しかし、こういう捉え方もあるんだなぁと感じつつも、自分はもっと人間的でありたいと強く感じた。

ロストジェネレーション

2007-01-04 | その他
今年元旦より「ロストジェネレーション」と題して、25~35才代の世相が朝日新聞に連載されている。

今朝の記事では、ロストジェネレーションの心の乾きが取り上げられていた。
勿論、全てがそうだと言うわけではないが、記事を読む限りではウェットな感じには受け取れない。

そのような背景にあるのは、社会構造の変革だろう。
昨年は「格差社会」なる本も出版されていたように、20~30年前の感覚とは明らかに違う。
社会が時代と共に変革していくのは当然の事だと思うが、人間の心までが変革していってしまうのは如何なものか?

社会全体のドライな感じが、おそらくそう言った世代に反映され、いつの間にか彼らも順応してしまっているのだろう。

元旦に、TV学園ドラマの変遷に関する記事を投稿したが、やはりそれも世相を反映させているものだった。

ウエットな感覚を流行り廃りで捉えたくはない。
好奇心を絶やさず、五感をフルに活用し、この時代に臨んで行きたい。
感受性を伝えるのは難しいが、様々な場面でトライしていきたい。
そう感じた。


2007新年

2007-01-01 | lohas的情景
新年明けましておめでとうございます。
今年も'LOHASな感じ'でブログのお付き合いを頂けたら幸いです。
様々な分野から、日々感じることを徒然なるままに投稿していきたいと思います。

元旦の朝日新聞に、TVの学園ドラマの変遷が掲載されていた。
確かに、30年前と今の学園ドラマは大きく違っている。
何がそうさせているのか?

当時と今では、実社会の子供の問題行動が変質した。
それに伴い、先生と生徒の関係も変質した。
ドラマの変化はその反映だ。
と、日大の佐藤教授が述べている。

時代の変遷と共に様々な問題も露呈してきている。
生徒だけでなく、教師側にも問題があるケースがあるのだから、尚更たまったものではない。

こんな記述もあった。
教育に対して色々な人が意見や批判をする時代。
でも、教育に必要なのは批判ではない...。

これは企業や社会でもまったく同じ事が言える。
単なる批判者であってはならない。
勿論、傍観者であってもならないのだ。

思いも新たに、今年も宜しくお願いいたします。