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【関屋(せきや)】の巻 その(1)
源氏(内大臣) 29歳9月
空蝉 35歳(源氏が17歳の時、一度だけ逢瀬を持った)
伊豫の介という人は、故桐壺院がお隠れになった翌年、常陸の介となって、任地に下りますときに、かの空蝉(後妻)も伴われたのでした。
空蝉は、源氏が須磨に退居なさったことを、遠くにあってお聞きになりましたが、お見舞い申し上げる便宜もなくて、年月を重ねておりました。
源氏が都にお帰りになった次の年の秋に、この常陸の介は、任期が終わり都に上ってきました。
「関入る日しも、この殿、石山に御願はたしに詣で給ひけり」
――常陸の介一行が、逢坂の関を越す丁度その日、源氏は石山寺の観世音に、ご祈願成就の御礼に参詣なさるところでした。――
あの頃、紀伊の守(きのかみ)であった息子など、京から迎えに来た人々が、源氏の殿がこれこれの物詣でに来られますと、常陸の介にお知らせになったので、道中が混み合うことであろうと、暁方から出立して急ぎますが、女車が多くゆらりゆらりと練って来ますうちに、日が高くなってしまいました。
「打出の浜来る程に、殿は粟田山越え給ひぬとて、御前の人々、道もさりあへず来こみぬれば、関山に皆下り居て、ここかしこの杉の下に車どもかきおろし、木隠れに居かしこまりて過ぐし奉る。」
――打出の浜(琵琶湖のほとりの、大津の近くの浜)に差しかかったところ、源氏の一行は粟田山(京の東山連山のひとつ)をお超えになりましたとかで、源氏方の前駆(さきばらい)の人々が大勢なだれ込んで参りまして、道も避けがたいと思い、常陸の介の一行は、関山で皆下りて、そこかしこの杉の下に車をかき入れ、牛をはずし、轅(ながえ)を下ろして、大臣の御行列をやり過ごそうと、木陰に畏まってお待ち申し上げます――
常陸の介の一行には、女車が十ほど連なっていて、袖口や襲(かさね)の色などが下簾の下からこぼれて見えますのが、田舎びておらず趣深いのを、源氏ははっと御目を留められたのでした。
◆写真:石山寺の紫式部源氏の間
ではまた。
【関屋(せきや)】の巻 その(1)
源氏(内大臣) 29歳9月
空蝉 35歳(源氏が17歳の時、一度だけ逢瀬を持った)
伊豫の介という人は、故桐壺院がお隠れになった翌年、常陸の介となって、任地に下りますときに、かの空蝉(後妻)も伴われたのでした。
空蝉は、源氏が須磨に退居なさったことを、遠くにあってお聞きになりましたが、お見舞い申し上げる便宜もなくて、年月を重ねておりました。
源氏が都にお帰りになった次の年の秋に、この常陸の介は、任期が終わり都に上ってきました。
「関入る日しも、この殿、石山に御願はたしに詣で給ひけり」
――常陸の介一行が、逢坂の関を越す丁度その日、源氏は石山寺の観世音に、ご祈願成就の御礼に参詣なさるところでした。――
あの頃、紀伊の守(きのかみ)であった息子など、京から迎えに来た人々が、源氏の殿がこれこれの物詣でに来られますと、常陸の介にお知らせになったので、道中が混み合うことであろうと、暁方から出立して急ぎますが、女車が多くゆらりゆらりと練って来ますうちに、日が高くなってしまいました。
「打出の浜来る程に、殿は粟田山越え給ひぬとて、御前の人々、道もさりあへず来こみぬれば、関山に皆下り居て、ここかしこの杉の下に車どもかきおろし、木隠れに居かしこまりて過ぐし奉る。」
――打出の浜(琵琶湖のほとりの、大津の近くの浜)に差しかかったところ、源氏の一行は粟田山(京の東山連山のひとつ)をお超えになりましたとかで、源氏方の前駆(さきばらい)の人々が大勢なだれ込んで参りまして、道も避けがたいと思い、常陸の介の一行は、関山で皆下りて、そこかしこの杉の下に車をかき入れ、牛をはずし、轅(ながえ)を下ろして、大臣の御行列をやり過ごそうと、木陰に畏まってお待ち申し上げます――
常陸の介の一行には、女車が十ほど連なっていて、袖口や襲(かさね)の色などが下簾の下からこぼれて見えますのが、田舎びておらず趣深いのを、源氏ははっと御目を留められたのでした。
◆写真:石山寺の紫式部源氏の間
ではまた。