永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(143)

2008年08月28日 | Weblog
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【関屋(せきや】の巻  その(4)

空蝉は、
「……今はましていとはづかしう、よろずの事うひうひしき心地すれど、めづらしきにや、え忍ばれざりけむ」
――(昔でも辛く思っておりましたが)、まして今は、歳もとってはづかしく、何につけても気後れがしますが、久々にいただいたお文の珍しさに、やはりご返事をせずにはいられないようでした。

空蝉の返しのうた
「あふさかの関やいかなるせきなれば繁きなげきの中をわくらむ」
――逢坂の関とはいっても、わたしたちは再会しながら、どうして嘆きを重ねるのでしょう――

 源氏は空蝉のあわれ深さも、情の剛さも、お心に残っている女君なので、時々お文を
渡されて、心を動かそうとなさるのでした。

 こうしている間に、この常陸介は年老いて病気がちになり、行く末を案じて子ども達に、空蝉のことを、
「よろづの事、ただこの御心にのみ任せて、ありつる世にかはらで仕うまつれ」
――何事につけても、ただこの方のお心のままにして上げて、私が世にあった時と変わらずにお仕えするようにせよ――

 こうして、常陸守は亡くなりました。当分の間は子供たちも父上の遺言に添うような情もみせていましたが、継母(空蝉は常陸介の後妻)なので、実際はつらい仕打ちがあるようでした。これも世の常のことながら、空蝉は嘆き暮らしております。

 ただ、この河内守だけは、昔から継母の空蝉に好き心があって、
「あはれに宣ひおきし、かずならずとも、思し疎まで宣はせよ、など追従しよりて……」
――父上が懇ろに遺言されましたので、お役に立たぬ私でも、よそよそしくなさらずに、
何事もご用をお言いつけください、などと、機嫌をとるように近づいてきて、(道ならぬ心が見えますので、生きながらえての果ての果てに、このようなあるまじき情けないことを聞くものよ、と、人知れず心を決めて)――

「人にさなむ、とも知らせで、尼になりにけり。」
――誰にも知らさず、尼になってしまいました――

 仕えていた女房たちは嘆き、河内介は、私をお嫌いになってのことであろうが、この先どうなさるおつもりか、などと言っておりました。
又世間では、つまらぬ貞女ぶりよ、と噂するものもあったとか。

◆写真 追分けのにぎわい

関屋の巻  おわり。

ではまた。

源氏物語を読んできて(源氏物語絵巻・紙作り・1)

2008年08月28日 | Weblog
源氏物語絵巻・紙作り(1)

「国宝・源氏物語絵巻」は、いつ、だれが、何のために作ったのか。その記録は残っていない。宮内庁が保存している『長秋記(ちょうしゅうき)』に平安時代、『源氏物語』を題材に絵巻が作られていた事実を示す記録があるという。

『長秋記』は、平安時代の後期、宮廷の権力者たちに仕えた、源師時(みなもとのもろとき)の日記である。

 それによると、1119年11月27日、師時は中宮に呼ばれて参内した。この中宮は
鳥羽天皇の后、待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)である。
このとき中宮は18歳であったが、後に崇徳天皇となる子を出産し、宮廷内の権力基盤を揺るぎないものとしていた。

 その中宮から、この日、師時に一つの下命があった。
「中宮の御方はこうおっしゃった。中将の君をもって、源氏絵間紙を調達すべし……」
(『長秋記』)

 「源氏絵間紙」というのが、具体的にどんな紙だったのかは、はっきりしない。しかし宮廷の最高権力者たちが『源氏物語』の絵巻を作ろうとしていたことは間違いない。
彼はすぐに取りかかったと思われる。まず、しなければならなかったこと、それは、質の良い「紙」を十分に揃えることであった。

◆参考 NHK出版
◆写真 『長秋記』 源師時が、1111年~36年にかけて書いた日記