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福島邸さよなら見学会について

2011年06月25日 07時09分40秒 | 8月4日は「橋の日」記念日!
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福島邸「さよなら見学会」は6月26日(日)午前10時~午後4時
宮崎市中村西1丁目にて http://yj.pn/FVrj8h


現在宮崎市中村西1丁目に位置している。福島家住宅が建設された享保2年(西暦1717)当時(藩政期)の中村町は、延岡藩の飛び地(離れた領地)として存在していた。


福島家に伝わる福島家略系譜(福島家本係新譜叙)によると、24代当主勝寛氏の時に中村町に移り住み、同町で最初の医師であったことが記されている。福島家は代々医師の家系で、26代当主勝敬氏の頃、宝暦11年(西暦1761)に延岡領主内藤能登守が宮崎巡見中に医師として同伴し、そのお陰で官医(藩医)の格となり、天明4年(西暦1784)に苦労の功賞として土地等を賜っていた。


 廃藩置県後の福島家は、宮崎県が鹿児島県に併合された明治9年(西暦1875)の翌年に勃発した西南戦争の舞台にもなった。薩摩の将であった島津啓二郎が宿舎としたのが、この福島家住宅であった。清武の戦いに大敗した薩摩軍は中村町に火を放ち逃走した結果、家屋、書物、記録等の多くの文化的遺産を失うことになった。その戦火で焼け落ちた瓦の一部が、南側正面入口に面した道路面に埋め込まれている。


薩摩軍が陣を構えていた明治10年(西暦1876)当時、大淀川に橋はなく、明治13年(西暦1880)4月に初代の橘橋が架けられることになった。


その橋を架けたのが県ではなく、この福島家の30代当主邦成氏の出資する私費で架橋された。橋は木橋で、長さ約350m、幅員約3.9m、高さ約3.2mだった。


この邦成氏の業績は驚嘆すべきことであり、本業の医師としても、天然痘の予防接種の術を広めたことで高く評価されている。