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「土木史と橋」松村博著

2015年09月19日 15時25分20秒 | 旅、風景写真

橋梁新聞「私の履歴書(松村 博)」に、印象的な文章が掲載されていましたので、ご紹介します。

土木史と橋

 土木技術者が歴史を調べ、まとめてみる意義について考えてみたいと思います。
 土木技術者は、「・図面がわかる・経済、社会がわかる・良識的判断ができる」などの特性をもっていますので、歴史的な事象に対しても複眼的な考察が可能であると思います。

 例えば、江戸時代、大井川に橋が架かっていなかったのは幕府が軍事的に架けさせなかったというのが文献から制度史的にアプローチする歴史学者の見解でした。しかし、他の渡河形態との比較、川の水量変動のデータや河床の地盤状態などから判断すると、当時の技術では架橋は難しかったことがわかります。そして大勢の川越人足が定着すると、幕府は社会経済的な影響を考慮して他の選択肢を潰してしまったのです。これが大井川に橋がなかった理由です。

 戦国時代の大名は城下町繁栄のために橋を架ける努力を惜しんでいません。例えば、宇喜多秀家は、山陽道が岡山城下を通るように旭川に京橋を架け、道を整備していますし、柴田勝家は福井の城下町のために半石半木の丈夫な九十九橋を架けました。信長、秀吉は言うに及ばず、家康も岡崎に矢作橋、そして江戸の喉元に千佳橋や六郷橋を架けて、街道や城下町の交通の利便性を優先する施策を採っています。 インフラ整備はいつの時代でも為政者には大切な施策だったのです。

 九州に石橋が多く架けられましたが、軍事的な理由から藩が架橋を制限していたとか、秘密を知った技術者は長送りにされたとか、一つの石を外すと一気に橋が壊れるように造られていたなどといった荒唐無稽な説が流布されています。
これらは技術的に判断すると誤りであることは明らかです。江戸時代に作られた九州の石橋のビッグ3、霊台橋、通潤橋、虹澗橋はすべて民間人が企画し、各地から多くの技術者が参加して架けたものです。土木技術はいつの時代も民衆に開かれた技術だったのです。
 
 このようにインフラの歴史を土木史的観点から検証するとこれまでの歴史的常識に多くの間違いがあることがわかってきます。土木技術者自らがこのような歴史的認識を持って利用者にインフラ整備の大切さの理解を深めてもらう努力をすることも大切です。

 数年前から、大坂の堂島で船大工を営んでいた家に残された文書を基に当時の橋の復元に取り組んでいます。この文書の大半は船や橋の建設を請け負うための見積書で、これらを丁寧に読むと当時の船や橋の構造の復元が可能です。和船の研究者、建築史家、文献史学の専門家に呼びかけて、一緒に文書の解読を進めています。船や橋の復元には構造的判断と製図の知識が欠かせません。ようやく江戸後期の大坂の木橋の30橋ほどを復元することができました。

 社会インフラの歴史研究の共同作業においてむ土木技術者の役割は大きいと思っています。歴史の専門家との対話を深める努力ももっと必要です。一方、和船や木橋の技術、研究の基盤は絶滅が危惧される状態になっています。若い方にぜひ参加していただけることを望みます。
 次回は、福岡大学工学部の渡辺浩准教授につなぎます。(終)

松村博さんは、橋梁工学専門家。大好きな著書に「日本百名橋」があります。技術・デザインをも優れた橋を全国各地から百選んで解説。宮崎県は「橘橋」が挙げられています。

橋梁新聞は、我が国唯一の橋の専門誌です。

この記事がご縁で私の所属する宮崎「橋の日」実行委員会にて、2017,8,18「橋」を通じたシンポジウムにて松村博先生、渡辺浩准教授の両氏に、講演者として登壇いただきました。以下は打ち上げの写真です。