◇サラ・プツとは「葦原の河口」という意味のアイヌ語だという。普段は猿払と漢字で書かれる。彼らアイヌが北海道を跋渉していたころに見た葦原の河口と、日本神話に述べられる葦原の中つ国との景観を見比べてみたい気が起きる。私は一年半ほどの間に、四回もこの葦原にやってきた。来る度に少しずつだが、数十年前、近くの町に住んでいたころの記憶がよみがえる。記憶が明らかになるにつれ、時間の経過によって塗り替えられてしまった景観への郷愁が起き、つい車を止めてその自然に目を凝らすのだ。
◇サラ・プツまでの道を北上するほど、昔とは比較にならないくらいヒトの住むマチが寂れていく。ヒトの生活していた痕跡が薄れていく。山奥には道路が通じているだけ。以前叔母とその家族が住んでいた家、数百年前に作られて誰もいなくなったあばら屋の方へ、たった一人で近づくにはそうとうの勇気がいるものだ。誰一人戻ってこない家は、そこで何を考えているのだろう。振り返らずに一気に車を加速すると、とたんに舗装道路は深く濃い色の草木に覆われ、鳥の様々なさえずりに溢れ、夏の甘い香りを含んだ風が舞い、沈みそうになる気分が晴れ晴れとするのだ。
◇葦原の河口の近くの、一面に密生した草原にぽつんぽつんと丈の低い灌木が生えている見晴らしのいいところを走っていて、この草原にずっと命の尽きるまで住んでいたことがある、というような感慨がふと起きた。この草原には人の目に触れることなく、たくさんの動物や虫、名も知られない植物や微生物がじっと生きている。当たり前だが、ヒトは暮らせないが、虫や動物になればこれほどの豊かな自然はほかにないだろう。その日、サラ・プツは珍しく夏日だった。海は淡い色をして、信じられないくらい静かだった。(2014.7.1)