須賀敦子の文体は、日本文学の正統からかなりかけ離れていて、主語と述語がひとつのセンテンスの中で、3度も4度も形を変えながら出現するといったアクロバットを軽々とやってしまう。
イタリア住まいが長く、イタリア語を母語同然に操れたので、イタリア文学めいた日本語の文体を編み出したのだろう。私はイタリア文学の知識をまったく持ち合わせていないが、お隣のフランスの作家の幾人かはとてつもなく長文の難解な文章を綴るのを知っている。マルセル・プルーストとかレヴィ・ストロースとかサルトルとか、日本にも仏文学を学んだ大江健三郎とか、回りくどい作家たちがいて、私が年を取ったからなのか、ずいぶん前から彼らの文章についていけなくなった。
一方の須賀敦子の文章、それは思い浮かべるだけで楽しくなる。私だけの読み方、楽しみ方なのだが、日記を書いている風に軽いタッチで始まり、感情を誇張した表現がなく、情景描写は綿密だが読み手を飽きさせず、現在の居場所から瞬く間に過去・未来に飛んで行ったかと思ったら、たちどころに自分自身の内側に立ち返り、何か懐かしい情感を残して急に結末を迎えるといった感じなのだ。
数日前、手許にある日本文学全集(河出版)たった1冊ならすぐ読み終えてしまうと思い、河出書房のホームページを開いたら品切れ。あわててネット内を探し回り、紀伊國屋の倉庫に眠っている新物全8巻を見つけてしまったというわけ。衝動買いしないで済ませるわけには、もはやいかない。(2020.7.6)