本や資料を読み込む習慣から長く離れていたので、この数ヵ月の本の読みすぎは度を過ぎたようだ。蕨手だか蕨餅だかが頭の入り口につっかえて消化できなくなった。
新書本の「邪馬台国」や「魏志倭人伝」を上梓している歴史学者、山尾幸久氏は、歴史学をきわめるには創造力が不可欠だ、と言っていたという。直接講義を受けたKから聞いた話。それに触発されたのではないが、この10年あまり、ブログを書くときは手元に何も置かない、ひたすら自分の頭と感覚に頼ることにしている。参考文献などを使ったのは、大分前に憲法の条文比較をしたとき以来か。
それにしても、あれこれ本を読んだが、目の覚めるような論考にはなかなか出くわさない。エミシは倭人の一派だなどと口走る学者は皆無だし、蕨手刀の8割が東北と北海道で見つかっているのに、その出所はヤマト政権だと言ってはばからない。ヤマトは、7世紀後半にやっとたどり着いた盛岡~秋田間の対エミシラインを、平安時代の末になるまで北上させられなかった。なので、7~9世紀、北海道全域に蕨手刀を贈与することなんてできっこないのだ。ヤマトとの戦いに備え、エミシが自前で蕨手刀を作った、とした方が筋が通る。
東北の北上川流域にある角塚(つのづか)前方後円墳、1500年前のエミシの領域になぜ作られたか。それはヤマト政権が北方防御ラインを敷くはるか前から、そこに倭人が代々住んでいたからだ。ヤマト政権が7世紀前後に変質したからこそ、関東・東北以北の人々がエミシとされた、と考えた方が史実をすっきり解釈できる。(2020.8.21)
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